第三話
どこまでも続く海面に、透き通った歌声が響いていた。
歌声の主の耳には、ストリングスの合奏が聞こえていた。柔らかいギターの旋律、そして時計の針が進んだ瞬間のような、地面をノックする音が鳴る、深く、ハープをはじくように優しく丁寧に弾む、ピアノの音が踊る、続いて小刻みに八分音符を引っかけるヴァイオリン、北アメリカの乾燥した大地を這うような重いバスドラムの鼓動がビートを刻んで、巫女のように天から舞い降りてくるオクターブ上のコーラスが重なる。
ソラは飛行機の中で、額を窓に押しつけながらハヌルの歌を聞き、ハヌルのことを考えていた。
ここは華やかな世界だ。
顔を上げればグリッターが舞っているし、微笑みが浮かべば億の金が動く。今やKポップは世界中の音楽シーンを魅了していて、韓国でデビューしたいと言ってわざわざ外国から渡韓してくる若者も多い。
これまでソラが曲を提供してきたシンガーは数え切れないし、共に作業をして意気投合したミュージシャンも少なくない。みな、心身ともに成熟していて魅力的な人たちだ。
それでも、その中で彼だけ異質に映るのはなぜだろうか。
ソラ自身が見つけた原石だったからだろうか。デビュー以降ずっと、専属プロデューサーのように一緒に音楽を作り続けてきたからだろうか。練習室の廊下で、前につんのめった格好のまま寝ていた彼のクマを見かけたことがあるからだろうか。過酷なパフォーマンスの直後に救急車で搬送されていった姿を知っているからだろうか。歌詞が浮かばなくて大泣きしている背中も、インターネット上の誹謗中傷に深く傷ついて放心している横顔も、マスコミのでっちあげに怒り狂っている拳も、彼の全部を知っているからだろうか。
煌めくグリッターの裏の、柔らかい微笑みの裏の、血と汗と涙が滲むどこよりも残酷な底を。
それとも、まっすぐにこちらを見つめてヒョンと呼ぶあの瞳を、ひとりで浴びすぎたからだろうか。
兵役の話をどうしてソラにしなかったのか、理由は想像に容易い。ソラが韓国人ではないからだ。
もっと言えば、ソラが日本人だからだ。膝の上でパスポートを開き、自分の名前を指でなぞった。
しばらく休暇をもらって帰省したいと話すと、事務所はあっさり承諾してくれた。ただまあ、それもそのはず、ここ数年のソラの仕事の三分の一はハヌルのプロデュースだったから、彼が入隊したことでソラの手も空くのは自然な流れだった。
だから抱えていた仕事を片付けて、必要に応じて各所へ休暇を知らせる連絡も投げておいてから、ソラは日本へ行く準備を始めた。
韓国人の成人男性が国防の責務を果たす任期に就くことは、韓国では法律上必ずしなくてはならないことだ。
憲法に国民の四大義務があり、そのひとつとして「国防の義務」が定められている。
韓国人男性は、十九歳になる年に徴兵検査を受け、身体の健康状態や精神状態の確認を受けた後、遅くとも満三十歳までに軍隊に入隊しなければならない。身体に特定の疾患がある、オリンピックのメダリストであるなどの理由がない限りその義務が免除されることはないため、当然果たすものとなっており、徴兵制が敷かれる社会でその義務から逃れようとすると世間からの目はかなり厳しくなる。
注目度が高い分、有名なアーティストや著名人が入隊するニュースは毎度さかんに報道され、話題になる。Kポップアイドルとして活動している男性や、ネットフリックスで有名なドラマに出演するような役者の男性は、注目元が国内にとどまらないから特にそうなる。
歌手・ハヌルの場合も同様だった。
彼にとってはいわゆる「軍白期」だ。
たまに与えられる休暇以外は、基本的に同じ部隊の人達と配属先で一緒に宿泊し、毎日起床から就寝まで決められた日課を遂行する暮らしになるから、アーティストとしての活動はもちろんできない。外部との接触も最低限になり、貴重な休日を使って出かけるか、相手に来てもらって面会をしない限り、軍の外の人と直接話すこともできない。
およそ一年半から二年の「軍白期」、入隊によるキャリアの断絶期間となる。
「ハヌル 陸軍部隊配属へ 兵役中も笑顔の写真」
「入隊中のハヌルに世界中から応援の声」
「ハヌル、ファンに元気ですとのメッセージ」
手元のタブレットの画面の中で、報道記事の見出しが次から次へと現れては流れる。
ソラは画面に指を滑らせてスワイプしていき、記事のコメント欄に連なっている読者の書き込みを流し読みした。どれもハヌルの無事と健康を祈ったり、応援したりするコメントばかりで、使われている言語は韓国語を筆頭に英語、日本語、フランス語などと多種類に渡った。
彼が一言の報告も相談もなしに入隊を決断するなんて、そして喧嘩別れのような形のまま行ってしまうなんて、さすがに想定していなかった事態だった。
ソラの中で、ハヌルと最後に会ったあの日以来ずっと、細かく長い動揺が続いていた。
ハヌルは子どもでなくなっていくのと同時にどんどんハヌル自身になっていって、ソラの真似事をしなくなっていった。
出会った頃はまだまだあどけなくて、歌い方や表現方法の指導をするソラの言うこと為すこと全てを飲み込んで、器用に真似て、褒められると花の蕾が開くようにほわりと笑顔になった。
音楽的知識が豊富なソラに対する憧れもあったのだろう、キラキラに揺れる瞳でソラの後をついてまわって、使う音楽用語や機材を真似るだけでなく、服を真似たりもしていた。
それもすっかり昔の話だ。
いつの間にか、ハヌルはソラに憧れて吸い始めた煙草もやめていたし、ソラがいい顔をしなくても彼自身がときめくファッションを選ぶようになって、ソラがひとつもしていないタトゥーを自分の肌にはどんどん彫る。ソラのよく知らないアーティストの音楽を「とてもいい」と興奮して聞いて、ソラのあまり好きではないメーカーの機材を自分の耳で評価して買って、最近は作曲にも取り組んでいる。
六歳年下の彼を、必要以上に年下に見るのはよしたかった。
それでも韓国社会の文化や風土に馴染んでいると、どうしても、年上が年下の面倒をよくよくみて猫かわいがりしたくなってしまう。そりゃあ年齢差があろうと同級生みたいに仲の良い人達も当然いるが、ソラ達の場合、ソラが少年ハヌルを見つけたという出会いの経緯もあって、いつまでも「子離れ」できない状態だった。
だからこそ、ハヌルがソラの知らないところでものを考えて、決断して、ひとりでさっさと入隊したことについて余計に動揺が深いのだろう。自分の内面を俯瞰して客観的に観察し、そう考察する偉そうな自分がいた。
いつの間にか、そう、先ほどから「いつの間にか」ばかり言っているが、いつの間にか、ハヌルはソラの関しないところで大人になったのだ。きっと。
東京は暖かかった。羽田空港の国際線ターミナルに到着すると、長期休暇の時期で人がごった返すエントランスの中、数年ぶりに会う顔がにこやかに出迎えてくれた。
「藤枝!」
おーいと手を振っているのは牧野だ。
空はひょいと片手だけ挙げてみせた。藤枝と呼ばれるのが久しぶりすぎて、自分の名字がしっくりこない。
「やあ。あー、こんばんは」
日本語すら危うい。大変だ。
「はは、君、ほんと韓国人みたいなファッションしてるなあ」
「え?」
「久しぶり」
牧野はにっかり笑い、空の荷物をひとつ持ってくれた。
彼は仕事を通して知り合った友人で、大手ファッション雑誌を発行している会社に勤める同年代の男性だ。ファッションウィークの時期などの繁忙期には慌ただしく世界を飛び回っているが、現在は日本で落ち着いており、妻や子とともに赤坂のマンションに住んでいる。
仕事帰りだったのか、彼はジャケット姿だった。
ピッと背筋を伸ばし、革靴の踵を鳴らしながら大股で歩く牧野の隣で、空は自分の手足が急にやたらと鈍くさくなったように感じた。意識して背中を立ててみるが長くは続かない。まあいいかと諦めるまで早かった。
「最近どう? 仕事は相変わらず忙しいの?」
予約していたレストランに座るなり、牧野はそう聞いた。
「うーん、まあ」
空は釈然としない返事をする。
「でも今ちょうど、うちに所属してるアーティストがひとり入隊して、比較的手薄なんだ」
「あ。俺、その人知ってる。娘が前に騒いでたよ」
牧野は片手で器用にスマートフォンをいじり、ラインのトーク画面を見返した。
「あったあった。チェ・ハヌルくんって人?」
名を聞いてどっきりした。
ぽっくり頷く。
「娘の周りでも人気らしいよ。入隊って聞いて泣いちゃったファンもいたって」
「へえ……」
「ハヌルくん、二十六歳か。みんなこのくらいの年齢で入隊するの?」
「いや、普通はもっと早いな」
「ふうん。有名人は大変だよね。でも、娘、兵役行ったアイドルはみんなムキムキにかっこよくなって帰ってくるから寂しくはないって言ってたけど、そう考えれば泣くほどではないのかな」
「そ、それはちょっと」
空はぎょっとしてフォークを置いた。
「かっこよくなって帰ってくるって、それはちょっと残酷すぎないか」
「ん?」
「彼らは戦争のやり方を学びに行くんだ。死ぬほどきつい思いをして訓練して、銃の使い方とかを学んで、兵士になる。戦時には実際に前線に立たされるし、いつ駆り出されるかわからない。それをムキムキだとかなんとかって……」
「……そっか」
牧野は料理を咀嚼しながら目を見開いた。
「そうだな。そのとおりだ。ひどいことを言った。娘にも言っておくよ」
「うん」
「君はすごいな。あっちに住んでるからかもしれないけど、そういう考え方はこっちじゃあんまりしない気がする」
「でも――」
牧野の携帯電話のコール音が鳴り、空の発言は遮られた。
喋りすぎたかもしれない。ごめんのポーズをしながら電話を取って捌けていく牧野を目で追ったあと、空は首の裏を掻いた。
自分は両親とも日本人で日本出身で、さらには国籍も日本にあるのに、韓国に住んでいるだけでなにを知ったようなことを言っているのかと気後れした。
これまでの人生の二分の一を韓国で過ごしてきて、生活リズムも生活範囲ももう固まってきているので、韓国での日常で自分が日本人だと思い知らされるシーンは実はそこまで多くない。
日頃からほとんど自宅にこもっているし、よく顔を出す場所があるとしたら職場である会社か音楽現場だから、空のルーツをよく知っている顔ぶれしかいない。おや、日本人ですか、みたいな反応をされるのは、それこそ年に何度あるかという誰かとの初対面で名乗ったときくらいで、会社でも、親しい友人らも、今さら何も言ってこない。
むしろ日本人と一緒にいるときのほうが、自分が日本人だということを意識する。
「ごめんごめん、彼氏からだったよ」
牧野は席に戻ると、後ろに流して固めている髪を数回撫でつけた。
「彼氏?」
「そう、これからご飯でもどうかって。普段韓国に住んでる友達と食事してるから難しいって言っておいたよ」
「じゃあ、うまくいってるんだ」
「うん」
牧野には妻公認の彼氏がいる。
彼はバイセクシュアルで、学生時代からずっと付き合っていた男性がいた。本当はその人と結婚したかったそうだが、日本では同性婚が法制化されていないこともあり、仲の良い女性の友人と家族になる決意をしたそうだ。
妻も牧野に恋愛感情を抱いていたわけではなかったそうだが、様々な利害の一致があり、今のような関係性に落ち着いたらしい。
運ばれてきた前菜に視線を落とし、牧野は軽く腹をさすった。
「今、こっちでは同性婚の話題が熱くてさ」
「え、日本でも認められてないよな?」
「うん、まだね。韓国もでしょ」
「うん。全然」
「アジアだと台湾とネパールだけだったよな、同性婚できるの。あとタイもそろそろ実現しそうみたいだけど」
「あぁ、ニュースで読んだ。もしかして日本もそろそろ?」
「うーん」
牧野はいったんナイフとフォークを置き、考えながら口元を拭いた。
「与党が消極的だからすぐには認められないだろうけど、世論はだいぶ賛同に傾いてるよ。パートナーシップ宣誓制度を導入する自治体もどんどん増えて、国より地方のほうが積極的な感じがする」
「へえ……」
空は、自分の出身地のことをふと思った。
あの日本列島のはしっこの保守的な田舎でも、同様に積極的になってきているのだろうか? 同性同士の婚姻に?
牧野は自嘲的に続けた。
「俺としてはまあ、時期を逃しちゃったから? ちょーっと複雑だけど、これからの若者がいろんな形の結婚を選べるようになるなら良いことだよなあ」
ハヌルの話になって、おまけに同性婚が話題にもあがって、空は少々胃が沈んだ。
空腹のはずなのにさほど食も進まない。
レストランを出たあと、牧野とはまた日本にいるうちに会う口約束をして、まっすぐ宿泊予定の場所へ向かった。
ホテルは六本木に予約していた。会社が取ると申し出たところが豪奢すぎるホテルで気が引けたので、自分で場所を探し、長期滞在することになるので一泊一万円くらいの簡易的なシティホテルを選んでいた。
チェックインして荷物を放り出し、まず横になった。体よりも感情面が疲れていた。
そのまま数分間ぼうっとしてから、よたよたと起き上がってシャワーを浴びた。頭から湯に当たりながら、今回が一体何年ぶりの帰省なのか頭の中で数えたが、何度やってみても正解はわからなかった。
浴室を後にすると電話が鳴っていた。
仕事の連絡だった。現在作業中の楽曲に関するアーティストからの相談で、歌詞について教えを請いたいとの内容だった。快諾する。しかし韓国へ帰ってからの話になるとだけ伝え、電話を切った。
ひとりになると沈黙に救われる。
別に、牧野と食事をしたりアーティストからの相談を受けたりすること自体が嫌なわけではないが、それでもひとりきりの空間と時間を持って全身の力を抜ける瞬間は、拘束されていた魂を伸ばすようで呼吸が楽になった。
空は夜が好きだった。
寝ているのが好きで、ベッドに横になって力を抜いているのが好きで、誰もが無防備になっている気配がするひんやり静かな時間帯が、好きだった。
重力のない黒い空間に星が瞬いて、体が浮かんでふわふわして、別世界に行ったみたいに落ち着いた旅の気持ちになれる。全部の輪郭とか、境目とかがあやふやになって、攻撃とか、離別とかが遠のいていく。
夜は夜だけの世界だ。それ以外の雑音はない。
ソラの制作スタイルとして、歌詞は歌うその人に根ざしたものにしたい思いが強いので、毎回できる限りアーティスト本人と会話を重ねて歌詞を書いていた。
ハヌルの曲の場合もそれに漏れず、歌詞は必ず会話をして考えたいから、アルバム制作作業の期間などは数週間ずっと一緒にいてひたすら話をしまくる、なんてこともよくあった。
ハヌルはその、歌詞を書いていく作業が苦手だった。
数ヶ月前のことだ。ソウルの会社にあるソラの作業室での仕事中、歌詞に悩むハヌルはいつものようにだらけていた。
「二番の三行目から直したいんだけど」
ソラの持つボールペンの先が紙面を叩いてパシパシいう。
「このシーンでおまえがどんな気持ちだったのかいまいち掴めない。悲しい? それとも悔しいとか、腹が立つとか?」
「うーん……」
ハヌルはL字ソファーの辺の長いほうに横になって抱き枕を膝に挟み、力なく伸びていた。
現在プロモーション中の新曲のコンセプトに合わせてピンク色に染めた髪が、セットもなにもしていない髪が、くしゃくしゃになって方々に跳ねている。
「なんだろう……」
「そのとき感じたこととか思ったことをそのまま言ってくれていい。いい風に書き直すのは俺の仕事だから」
「そのまま言うのが難しいんですよ」
ハヌルはぼんやりソラを見た。
「こうやってヒョンと歌詞作業をして、僕の感情とか思考を洗いざらい話そうとすると、ヒョンに僕が溶けていくみたいで怖いです」
「俺におまえが溶ける?」
いい言葉運びだなと思い、ソラはメモを取った。
「溶けるくらい打ち明けてくれたほうがありがたいけどな」
「そうしようとずっとしてますけど、それって結構怖いですよ」
「どうして? 俺が誰かに、ハヌルは本当はこんなことを考えてるんですよ、なんてベラベラお喋りするわけでもないし」
「そういう問題じゃなくて。僕とヒョンの間の話です」
「なら、なおさら何が怖いのかわからない。全部言ってくれていいよ」
「……はい。んー」
ハヌルは歌詞に向き合う作業を続けた。
「悲しい……そうだなあ。悲しいよりは不甲斐ないとか、諦めがつかないとか、そういう感じのが近いです」
「不甲斐ない。諦めがつかない」
「そう。ファンの皆さんは待ってくれているのに、それに応えられない自分が情けないというか」
「情けない」
「うん……。うーん、このモヤモヤする感じを何て言ったらいいのかわからないですけど」
「そうだな。そういうのを、この曲のモチーフにしてる映画の内容に絡められるといいけど」
複数あるディスプレイのうちのひとつをユーチューブに繋げ、ソラは映画を流し始めた。
苦悩しているハヌルの空気を背中に感じる。
うんうん唸りながらも全てを打ち明け、自分の内面をどうにか言語化して伝えてくれる安心感があった。仕事といえど、ビジネスパートナーとして信頼関係がないとできない作業だ。
「これはファンソングだから、聞いたファンがネガティブな感情にならないほうがいい。おまえが普段思ってる、よく言ってる感謝の気持ちを中心に書いて、そこにさっきみたいな率直な思いも乗せよう」
「はい」
椅子の上であぐらをかいて映画を流し見るソラの背中をぼうっと眺め、ハヌルが意を決したように言った。
「ヒョン」
「ん?」
「僕、そろそろ恋愛ソングを歌ってみたいです」
ソラは言葉に詰まった。
歌手ハヌルはラブソングを歌わないことで有名でもあった。ソラがソラの希望で恋愛をテーマにした曲を書いてこなかったのではなく、ハヌル自身の希望だった。
女性ファンが多い中、自分がゲイだということもあってか、俗にいうアイドルに求められる「ファンの恋人」のような売り方を望まず、ファンの皆さんは僕の友達というスタンスでずっと活動してきた。
楽曲は日頃の生活の中で考えていることや、赤裸々な不安や葛藤、この社会のこと、感謝と愛を伝えるファンソングなどが主だった。彼のそんな姿勢に共感して応援しているファンも非常に多い。
彼の要望を汲んで、ソラもそういった曲を作り続けてきたのだ。
「それは、俺に曲を書けと言ってるのか? 歌詞も?」
ラブソングを作ることは当然できる。これまでも、ハヌルではないアーティスト用にだが、何曲も書いてきた。
しかし彼用に書く歌となると話は別だ。
背を向けたまま聞くと、背後でハヌルがソファーの上で起き上がる気配がして、そのあと、彼は慎重にこう続けた。
「歌詞は自分で書いてみます。曲は、僕が今作っているものを使えればと思って」
「……」
「今回のアルバムの最後に入れてみたいんです。それが間に合わなければ、入隊前にデジタルシングルで発表したいです」
「……そっか」
「やめたほうがいいですか」
「おまえが歌う曲だろ。おまえのやりたいようにしたらいい」
「はい。そしたらやっぱり歌ってみたいです」
「うん」
「あなたへの気持ちを歌うことになりますけど、いいんですね」
「俺に止める権限はないだろ……」
耳が熱くなる感覚がした。
「よかった」
と、ハヌルは笑う。
「でも、一曲だけクレジットにヒョンの名前がなかったらおかしいかな」
何があっても絶対に混合してこなかった仕事とプライベートの事情が、じわじわと交差しようとしている。ソラはハヌルと目を合わせることができず、手元の紙に視線を落としたままでいた。
他人事のように映画は進んでいく。今日が他のプロデューサーのいない作業日でよかったと思う自分と、誰かがいてくれたほうがよかったのではないかと思う自分が同時にいた。
ハヌルはソラが目をつけた新人としてデビューして、それ以来、ソラがずっとハヌルに曲を提供しているのは、ファンの間では周知の事実だった。
ソラは表に出る歌手でもタレントでもないから、インターネットで「藤枝空」と画像検索しても、ハヌルのドキュメンタリードラマに映り込んでいた姿とか、大賞の作詞作曲分野でなにかの賞を受賞した際の授賞式の写真とか、そういった切り抜きがぼやっと出てくるだけだが、熱心なファンはソラの活動情報をよく追っている。
気付く人はすぐに気付くだろう。ハヌルの作品に必ずといっていいほど関わってきたソラが、ハヌル自作の初の恋愛曲だけになぜか携わっていないことに。
編曲くらいはしてやりたいと思ったが、それを提案したところで断られるのは目に見えていた。
「譲れないところがあって」
ハヌルが静かに続けた。
「僕が恋愛の曲を歌うときは、『彼女』とか『she』とは言いたくないです。相手を言い表す言葉は『彼』にしたい。ファンの皆さんに嘘はつきたくありません」
「おまえがそう歌いたいならそうするべきだよ」
「でも、代表はどう言うか」
「反対されたら俺が説得する」
ハヌルは性的指向について世間に公表はしていないが、事務所の上層部やレーベルの代表にはすでに話してあった。本人としてはファンにも公表したいとずっと言っているが、許可を出さないのはその上層部だった。
特にレーベルの代表は頑なで、ハヌルがよく身につけているLGBTQ+を象徴するレインボーフラッグをモチーフにした靴やグッズなどにも良い顔をせず、そういったものをカメラに写るところに持ってくるのはやめなさいと命じてきたことすらある。
ソラとしては、ハヌルの希望を第一にしてやりたいため、事務所上層部や代表に対して、盾になりつつ戦うこともよくあった。
最近だと、女性アーティストとコラボレーションの案件が舞い込んできたときに、ミュージックビデオ内で過剰にスキンシップを取らせて視聴数を稼ごうとする代表に断固反対したのもソラだった。ハヌルがファンに嘘をつくようで嫌だと言ったからだ。
ソラはペンを置いた。
振り向き、目を上げ、不安げな表情のハヌルを見る。
「やってみるか?」
ハヌルは少々迷っているようだった。
しかしやがて深く頷き、決意の瞳を見せた。
「はい」