第二話
どこまでも静かな自宅でひとり、音楽作業をしていると、たまに、自分が外界から隔離されてこの国にひとりぼっちになってしまったのではないか、と心から疑う瞬間があった。
例えば月のない宵、機材に向き合って作曲作業をすることに疲れ、気晴らしにリビングの中央に置いてあるグランドピアノの前に座ると、ぽーんという素直なピアノの音がどこにも、誰にも反射せずにそのままどこかへ消えてしまいそうに思える。
例えば青く曇った日の日暮れ、四角いこの家が、家ごと湖に沈んで底をただよっているような錯覚に陥る。
耳元で、ぶくぶく、ごぽごぽと音がする。透き通った輝くブルーに部屋が染まり、ソラの視界の端を、潰れた楕円の泡が次々にのぼっていった。重力が消える。体が椅子ごと浮遊する。見上げた天井には水面に当たって揺らめく太陽光が見えて、その模様が綺麗で切なくて、弱々しく手を伸ばした。
すると、ピアノの上に置いておいた携帯電話が一瞬震え、通知を光らせた。
深海の世界だったリビングが、スイッチを切ったように現実に戻った。
「もしもし」
何事もなかったかのように仕事の電話に出る。そうやってソラは生きている。
その日は、トイレットペーパーが切れそうだったので、愛車で出かけて買い物をした。
久しぶりに浴びた外気は空気の層が厚く、重く感じ、一歩進むたびに踵が道に埋まるようだった。日頃から自宅の全館空調に甘えて過ごしているから、余計に全身にずっしりくる。
買い物途中にファンに遭遇して、彼のスマホケースに油性ペンでサインをしながら、「俺の名前だけじゃなくて顔まで知ってるなんて、通だな」とぼんやり思った。少し音楽の話でもしたかった。
帰りに映画館に寄ってレイトショーを楽しみ、良い気分で帰宅をしたら、普段はない虹色のスニーカーが、玄関にてんと放り出してあった。
「…………」
かちん……と数秒固まる。
それから、ズズズ……と靴の底をコンクリートの床にこすって、もたつきながらクロックスを脱いで、スリッパに履き替えた。
もしかしてと思った。唾液を飲む音と一緒にゆっくり部屋に入ると、アイランドキッチンの横で、電気もつけずに立ったまま飲み物を煽り、なにかを食べているハヌルがいた。
数ヶ月ぶりに肉眼で姿を見た。少しふっくら――ふっくらというよりあれは、筋肉か? おおよそ一生懸命トレーニングに励んでいるのだろう。――したように見えた。
ダンスの練習後なのかスポーティなシャツをゆるく着て、セットされていない髪をくしゃくしゃに跳ねさせていた。
物音でソラの帰宅に気付いたハヌルが、もぐもぐしながら顔を上げる。
「あー、ヒョン(※韓国語で「兄さん、お兄さん、兄貴」の意。男性が兄や親しい年上の男性を呼ぶ際に使用する。)。このカップ麺にお肉入れたいんですけど、牛ありますか?」
昨日もここでご飯を食べていましたみたいな感じで話しかけてくる。
「……ちょうど今買ってきた。焼いてあげるよ」
ソラはそう言ってとぼとぼ近寄った。動揺を見せないのはお手のものだ。
キッチンテーブルに買い物袋を置いて、底のほうから肉を取る。
フライパンを握ってIHの前に立つと、ハヌルがふらりと横に来て、ソラの頭を軽く撫でた。
「元気でしたか」
と、頬に触り、頭を擦りつけてきた。
犬と思った。
「ん」
「報道、見ました?」
「なんの」
「僕の」
「おまえの? どの?」
ハヌルは言葉では答えず、ポケットから携帯電話を取り出して、指紋で少し汚れた画面をぐいと見せてきた。
数日前から世間を賑わせているスキャンダルの記事だった。ハヌルと某女性俳優が付き合っているだの同棲中だの結婚間近だの、うんたらかんたら、見出しだけ見てスマートフォンの端末を手から離したから、ソラは詳細を知らない。
「何も言わないんだ。それが答えってことですか?」
ハヌルは言い、熱せられて溶けていく肉しか目に入れないようにしていたソラの視界にずいと侵入してきた。伸びた前髪が海面のようにキラキラした深い瞳に重なって、ちょっと刺激を緩和させていた。
しかし、眩しいことには変わりがない。ソラは意識的に肉に集中する。
「ここに来るまでの飛行機で、あなたがどんな反応をするか予想するゲームをひとりでしてました。第三位は、このニュースを小馬鹿にして『ハッ』って笑うヒョン。準優勝は、無表情で『なに、おまえあの役者と結婚すんの』って聞いてくるヒョン。優勝は、全部無視して俺はなにも見なかったみたいにするヒョン」
「残念だったな。どれも当たらなくて」
「優勝のヒョンがなんか言ってる」
「肉が焦げる」
手でしっしと払うとハヌルはすごすごと退いて、鼻歌をふんふん言わせながら箸を二膳用意した。皿も二枚。
それからテーブルに並べて麺もよそって、あとは肉を待つだけの格好になると、突然がばりとシャツを脱いで上半身だけ裸になった。暑いらしい。
ソラが肉を分けてからチラと見ると、知らないタトゥーがまた増えているのが目に入った。
どれだけ離れていても、「ちゃんと食べてるかな」とか「ちゃんと眠れてるかな」みたいな心配はない。
それなのに、今日も無事に生きて彼自身の人生を全うしていることが嬉しくて、というか普段も自分の人生に夢中だから相手が気になって何も手につかない、みたいなことはないけれど、こうして久しぶりに再会するとあーと思うところもあって、今日はここで寝ていくのか少し気になった。ソラは自分の指先をもじりといじる。
これを伝えるべきか考えていると、焼きたての肉を頬張ったハヌルが、ふは、と笑って鼻の付け根にシワを寄せた。
「疑いもしないんだから。動揺くらいはしましたか?」
馬鹿か。するか。……したけれど。
「ハヌラ※、ところで」
「今日はここで寝ていきますね」
こんなやつに敵うわけがなかった。
※親しい間柄の相手の名前を呼ぶ際、名前の語尾に「ア」や「ヤ」をつける(または音を変化させる)。「ハヌリ」のように「イ」の音をつけ、口語調で言いやすくしたりその場にいない人の名前を言い表したりすることもある。
その夜は、家のリビングのソファーで、そのときたまたまテレビでやっていた恋愛映画をぼんやり見た。
ソラはハヌルの隣にだらりと座って、食べていた菓子をむにゃむにゃ噛みながら半分目を閉じていて、起きているのか寝ているのかよくわからない状態だった。
「ヒョン、今日はヒョンの部屋で寝てもいいですか」
何の脈絡もなくハヌルが聞くと、ソラはやっぱり口をむにゃむにゃさせながらぽっくり頷いた。
「おまえの好きなようにしな」
ハヌルはさらに質問を重ねた。
「ヒョン、この映画おもしろいですか」
「おもしろいよ」
「今日は抱きしめて寝てもいいですか」
「明日もそうしていいよ」
たまには拒絶の意思がほしいとハヌルが思っていることを、ソラは知っている。でも肯定しかするつもりはない。
ハヌルはソラにとっていつまでもかわいいダイヤモンドの原石で、甘やかされるべき存在なのだ。
「そのお菓子少しください」
「ん」
と、迷わず袋の口をハヌルに向ける。
ハヌルは下唇を突き出した。
「僕を甘やかし過ぎないでください。もう子どもじゃないんだから」
「子どもだよ。おまえはずーっと、かわいいハヌル」
映画に集中しているふりをして顔は向けなかったが、視界の端に入っているハヌルの顔が、ぶすくれて丸くなっているのがわかった。
この男は普段、グループで活動することが多い韓国アイドル業界の中でソロの歌手としてひとりで立って、物怖じしない態度で歌ってはファンに手を振り、根っこに度胸と知性がある回答でインタビュアーを唸らせ、爽やかな笑顔で人々を魅了しているくせに、ソラの前でこのように丸の形になることがある。
ハヌルはしばらくソラの横顔をぼうっと眺めていたが、やがてテーブルに置いてあった何かの美術展の図録を持ってきてソファーに沈み、パラパラと読み始めた。映画は一定のリズムで進んでいく。ソラは眠い。
ああ、そういえばあの事務所からのメールに返信しないとなと考えていると、ハヌルが唐突に話題を振ってきた。
「ヒョン、結婚ってどう思いますか」
「……」
奇妙な沈黙を作ってしまったことを若干悔やみつつ、ソラは慎重に口を開いた。
「どうって」
「うん」
「状態というより現象って感じがする」
「へ? 意味がわからないです」
うははと誤魔化すように笑うと、横から膝を小突かれた。
「まあ、僕には関係ないけど」
と、ハヌルがこぼす。
「でも、ああいう風に報道されると、人を異性愛者だと決めつけてインチキなこと書く暇があったら、同性婚ができる社会にするために少しは動いてくれよって思います」
「うん」
「ずっと違う僕を生きろって命令されてるみたいで、気分が悪い……」
現在の韓国では、同性婚は法制化されていない。ソファーの上で膝を抱えて頭を垂れたハヌルのうなじを撫でてやった。
そこで言葉が途切れた。
ハヌルは腰を浮かせて、座るソラに向き合う体勢で太ももを跨いだ。決して軽くはない体重が膝にかかる。
ハヌルの背中側に映画が流れたままの明るいディスプレイがあったので、その光源の影響で、ソラの顔に淡い影がしんと落ちた。ハヌルを見上げる瞳だけに光の球が浮かんでいて、人形みたいに瞬く。
その目の見る先がゆっくり下りていって、ハヌルの顔から首、シャツを着た胴体、そしてソファーの生地についている膝まで移っていった。
「触ってもいい?」
ソラが小さく言う。はいと答える代わりに、ハヌルは、ソラの手首をそっと掴んで手のひらを脇腹に触れさせた。手首を持ったハヌルの手が震えていたことに気がついた、そのソラの手も震えていた。
ソラの手のひらが、ハヌルのシャツを捲り上げながら背中を上がっていく。ハヌルは見上げてくるソラの瞳から目をそらさないまま、背中を撫でられる感覚に集中して静かに呼吸した。
背骨のでこぼこのひとつひとつを、ソラの指が下から順に撫で上げていって、両方の小指が一番上の凸に触れたとき、本日初めてのキスをした。ハヌルはソラの髪ごと頭を腕で抱え込んだ。つむじから爪先まで、全身がぴりぴりして、炭酸の汗がにじみ出てくるようだった。
このままセックスをしてもよかったが、結婚の言葉がまだ脳裏に残っている状況だと、少し気が引けた。湿度のある息を鼻から漏らし始めたハヌルを受け止めながら、ソラは体を強張らせる。
どうして突然結婚がどうなんて、そんな話をしてきたのだろうか。あのスキャンダルのせいだろうか。
軽い気持ちで指をほどいてはいけなかったのではないか、と思うことがあった。
もちろん、適当な思いで応えたわけではない。あんなに切羽詰まって何度もあなただけですと告げるハヌルに、軽い返事で応じたわけでは決してない。
立場も立場だし、会社の権力関係で言えばどうしてもソラのほうが上になってしまうから、暴力にならないよう細心の注意を払う必要があった。それに年齢も上で、自分が「ヒョン」だった。
それでもと思ったから今、こうして二人でいるが、例えば男性と女性のカップルの場合には最初から無条件に与えられている結婚という「ゴール」が、同性同士にはない。帰るべき家が同じであっても、家族とは認められない。
では、結婚できない二人が、最終的に目指すべき「ゴール」はどこなのだろう。わからない。
なぜそれがわからない世の中なのだろう。こんな風に行き先もわからないまま進む関係性に、ハヌルを巻き込んでしまってよかったのだろうか。
指をほどいた決意に意味はあったのだろうか。
「ハヌラ」
シャツを脱ぎ始めたハヌルを、ソラは静かに止めた。
「ごめん。今日はちょっと、気分じゃない」
「あ……そうでしたか。ごめんなさい」
「いや」
脳みそがぐわんぐわんと鳴ってくる。
ソラはこめかみを揉んだ。
「いや、俺こそごめん」
呟くように続けた。
「ごめん」
「なんでヒョンが謝るんですか」
「ごめん、ごめんハヌリ。本当にすまなかった。俺のせいだ。全部俺の――」
「謝りすぎですけど、一体……?」
ハヌルにも思うものがあったのかもしれなかった。
こめかみを押さえながら歯を食いしばるソラを見て、彼ははたと口をつぐんだ。ソファーに座り直す。
「僕、結婚したいなんて言ってませんからね」
「わかってる」
「それに、例え同性婚ができるようになったとしても、僕達の場合は現実的に難しいでしょう。お互い仕事に夢中すぎるし、僕はまだ兵役にも行ってないのに」
「わかってる」
「じゃあ一体どうしたんですか」
「いや、ただ、……なんでもない」
「なんでもなくてそんな顔しますか?」
「……。たまに思うんだ。おまえと付き合ったこと、俺はちょっと軽率だったかもしれないって」
「え?」
発言に失敗したことに気付くまでタイムラグがあった。
はっとして慌ててハヌルを見ると、怒っているような、しかし悲しんでいるような、複雑な表情をして静かにソラを見つめていた。
「後悔してるってことですか? 僕とこういう関係になったことを」
「違う、そうじゃなくて。どこまでいったらいいかわからない状態で進むべきじゃなかったかもって思って」
「どこまでいったらいいか?」
「結婚もできないのに、どこにいけばいいのか。なんのためにって……」
「ヒョン、もしかして、僕が結婚にこだわってるとでも思ってるんですか? 結婚したがってるって?」
「そうじゃない。そうじゃ……」
「そうじゃないなら、なに?」
「ハヌラ、落ち着いてくれ」
「じゃあ教えてあげます、ヒョン!」
ハヌルは勢いよく立ち上がった。
「僕はヒョンと結婚したいとは思ってません! だってできないんですから! 当たり前じゃないですか? 同性婚もできない社会で、カミングアウトもさせてもらえない会社で、世界中に彼女がいると思われながら、それでもこうやってヒョンと内々でお付き合いしてるのに、馬鹿みたいにあなたにプロポーズすると思ったんですか? 最初からそれをゴールにして付き合うべきだったって? それとも、僕がかわいく結婚を望むのを期待していましたか? それは僕を見くびりすぎです!」
ハヌルの怒りは正しい雷鳴だった。
部屋から一切の音が消え失せた。
ソラは四肢の感覚を失い、言語を忘れた。
ハヌルは動けないでいるソラに背を向け、思い出したように部屋のカーテンを閉め、ふらふらと肩を揺らしながら振り返って額をこすった。何度も。今にも泣き出しそうな表情だった。
ソラには唇を動かす力さえない。足の裏が異常に痛いことだけはわかった。軋む関節でなんとか立ち上がると、目眩がして口の中に唾が溜まった。違う。そうじゃないんだと言いたくても、言えなかった。
額をこする腕の下で、ハヌルの両の目がソラを見たり見なかったりする。その拒絶の空気にソラは足が竦んだ。
直径一メートルの範囲で行ったり来たりしていたハヌルが、ふらふらとソラのほうへ歩み寄ってくる。彼は、ソラが立ち尽くしている狭いソファーの間にまで入り込んできて、ソラの目の前に到着すると、魂の抜けたような真っ白な顔で囁いた。
「僕がどんな気持ちであなたに思いを伝え続けたかなんて、あなたにはきっと、わからないんでしょうね」
「……え?」
徐々に距離を詰めてくるハヌルから、もう逃れられない。
ソラは指一本動かすことも出来ないまま、ただそこに突っ立っていた。息だけが異常に上がる。
気が付いたときにはハヌルの顔がすぐ鼻先にあって、シワの寄った眉間が、睫毛の一本一本が、暗く深い裸眼が、全てが見えた。
「僕は僕の思いを伝えただけなんですよ。ヒョン」
やっとハヌルが笑ってくれた。
しかしその笑みは胸が締め付けられるほど悲しく、取り返しのつかない濁ったシャドウブルー色だった。
耳元で、ぶくぶく、ごぼごぼと音がした。透き通った輝くブルーに部屋が染まり、ソラの視界の端を、潰れた楕円の泡が次々にのぼっていった。重力が消える。体が、髪や服だけ浮遊する。見つめる先のハヌルの虹彩に、頭上の水面から降り注ぐ帯状の太陽光が優しく触れていた。
唇が一秒だけ触れて、すぐに離れた。
その瞬間、深海の世界だった二人の部屋が、世界ごと抹殺されたように現実に戻った。
ハヌルが後退し、スローモーションでこちらに背中を向け、音もなく家から出て行く。
「ハヌラ、待っ……」
カチャ、と扉が閉まると、今度は部屋中が血の色の炎に包まれた。
ソラは頭の中で、目の前に転がっているクッションをビリビリに破いて思い切り蹴った。照明器具を床に叩きつけた。髪を掻きむしり、ソファーの生地をぐしゃぐしゃに引き裂いて、マットレスに顔面を押し付けて腹の底から大声を上げた。
違う、違うんだ。待ってくれ。ゆっくり話を聞いてほしい。
結婚もできない社会が気付いたときにはすでにあって、それはどう考えても俺一人のせいではないのに、どうしても、俺のせいでおまえを「ゴール」に連れて行けないのではないかと考えてしまって、それで勝手に反省してしまうことがあるんだ。
軽率だったかもしれない。どこまでいったらいいかわからない状態で進むべきじゃなかったかもしれない。そう迷いながらおまえと一緒にいることが、おまえにふさわしいのかどうかわからないんだ。
最初から俺たちにも結婚の「ゴール」が用意されていたらよかったのに。
結婚ができたらよかったのに!
「……」
身勝手な怒りととめどない後悔に追い立てられて、本当に叫びを上げてしまいそうだった。ハヌルが去ってから微動だにしない部屋を、力なく見渡す。震えの止まらない指を、もう片方の自分の指で押さえた。
強制的にひとりになったこの部屋が、こんなにも広くて狭くて息苦しいことを、ソラは初めて思い知った。
ソラはハヌルのように瞬発的に言葉を使えない。じっと考えてぐっと堪えて、相手が去ってからやっと声が出てくることもある。扉が閉まって数分経過してから「待ってくれ」と言えた。
この世界にはいくつもの分岐点が転がっていて、ひとつ違う選択肢を選べば全く異なる未来が待っている。
翌日、珍しく事務所から今すぐ来てくれと連絡が入ったので、ソラは何かあったのかと焦り、高速鉄道を使って急いで駆けつけた。
会社の廊下を進んでいると、小綺麗にしたハヌルがそこにいて、なにかの打ち合わせを終えて横のミーティングルームから出てきたタイミングだった。傍のスタッフらが揃って神妙な顔つきだったので、これは、とソラは訝る。
ハヌルはサングラスとマスクで顔を覆っていたので、表情はわからなかった。
彼はすれ違いざま、スタッフ達からの死角を狙い、ソラの空いた手の指を軽くすくっていった。ソラは触れられた指を一瞬見たあとすぐに振り向き、去って行くその後ろ姿を目で捉えた。
凛と、細い背中が人影に消えていく。なんでもいいから俺と一緒にいてくれと伝えるならこの瞬間だった。
だがソラは何もしなかった。ただ、焦がれる背中が去りゆくのを眺めていただけだ。
ソラはこのあと数年間、このときに正直になれなかった自分の臆病さを、何度も何度も後悔することになる。
翌週、ハヌルが韓国陸軍への入隊に向けた手続きを開始したと報道があった。