表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
しじまの指  作者: 加藤
1/9

第一話

 家を建てる場所について相談しているとき、二人同時に「山のてっぺん」「海のそば」と言ったものだったから、中間を取って林に囲まれた湖の畔に平屋を構えた。

 インテリアはおまえに任せるよ、おまえのほうがこういうのセンスあるだろうし、と言っていたはずのソラだったが、ハヌルが決断する瞬間になぜかいつも隣にひょっこり現れて、その材料はアレルギー反応がうんたらだとか、経年劣化が綺麗なのはそっちだとか、あれやこれやと口を出すものだから、結局いつも通り中間を取ることになった。

 はたして完成した家は、黒やグレーを基調としたシックな雰囲気の中二階つき平屋一戸建てで、フィリップ・ジョンソンのグラスハウスを彷彿させるガラス張りの造りをしており、ハヌルは「映画『メッセージ』に出てくる家みたい」と嬉しそうだった。

 車を持っていないと少々不便な、市街地から離れた軽い丘のうえに、その家は建っている。車庫は家とは別棟に建っていて、二車線道路から入ってそのまま駐車できるよう、余裕を持った造りになっている。

 道路側に面した玄関は小振りで、中へ入ると、そのままひらけたリビングへ繋がっている。背丈以上ある窓からはいつでも湖を眺めることができて、部屋中の明るさが天気に大きく左右される、自然と共存しているような建物だった。

 奥へ移動すると、静かに炎を揺らす電気暖炉がある。それさえも真っ黒で、ほとんどの調度品が黒かグレー、ソファーからベッドまで黒で揃えていた。

 玄関の正反対に位置する大窓から外に出ると、湖をぐるりと囲む木々から、葉のこすれるさやさやという音が振ってきて、読書や昼寝にもってこいの環境がある。波のない水面は常に穏やかに揺れていて、ときおり葉を浮かべて、エメラルドブルーだったりグレーだったり様々な色に染まりながら、たおやかに佇んでいた。

 遠くには山々のゆるやかな峰が低くあり、空との境界をぼかしていた。林の行く先には森がある。雲が太陽を覆いがちなせいで、風景には大体ざらりとした灰色のフィルターがかけられていて、切ない情景になっていた。

 静かな家だった。見た目も音も。ソウルの喧騒に疲れた自分たちには、休息の場として申し分なかった。

 三十代に突入して、二十代の頃同様しゃかりきに働き続けている。

 ソラは基本的に在宅で仕事をこなしていて、作詞作曲プロデュースときには指導、あるいは執筆をし、インタビューや対談や講演など、まれに現場に赴くこともあるものの、ほとんどインターネット経由のコミュニケーションで全うしていた。

 音楽領域を専門とする芸能事務所に所属していて、現在はそこお抱えの音楽家、プロデューサーを務めているが、外部からの依頼を個人的に受けることも当然あるので、仕事の種類は多岐に渡った。しかし出不精な性格もあり、人前にはまず出ない。

 ハヌルは真逆だった。世界中を飛び回っているという表現がこんなに合うアーティストも他にいないくらい、地球の端から端まで飛んで歌とダンスを届けている。だからあまり家には帰ってこない。

 関わる形は違うものの、音楽は二人の強い共通点だった。

 思えば、出会いだって音楽の場だったのだ。

 ソラが曲を提供した歌手が、フィーチャリング相手にハヌルを抜擢したことが発端だった。その頃のハヌルはまだ世に見つかっていなかったから、さすがのソラも彼を知らず、どれどれとなんの武装もなく収録現場へ顔を出し、無防備に歌声を聞いてしまったのだ。

 後悔という言葉が最もしっくりきた。この声帯を知らずに生きてきてしまったこれまでの人生への後悔だ。

 走馬灯のようなものがあった。あの曲はこいつにあげるべきだった。あのサビは泣く泣くキーを下げてあの歌手にあげたりせずに、あのままこいつに歌わせるべきだった。あの歌詞はこいつに叫ばせればよかった。……。

 次にソラを襲ったのは焦りだった。

 こいつはなんでこんなところで燻っている? 大衆はなぜ今この瞬間も、このとんでもないものを知らずにのうのうと安い音楽を聞いている? この才能を羽ばたかせるべきプロデューサーはどこにいる?

 ――俺か。

 ソラは一介のレコーディング室で雷に打たれた。

 ここにいる。

 俺だ。俺しかいない。

 当時のハヌルはまだ幼く、つい先日まで小さなアイドルグループの練習生だったこともあり、緊張しいで人見知りをよくした。だからなんだかぶっきらぼうな初対面のプロデューサーに見初められて名前を聞かれても、ボソボソと本名を名乗るくらいが関の山だった。

 ソラはまるで、狙った獲物を見る目をしたネコ科の動物のようにじっくりと、おまえ、歌い始めて何年だ。と聞いた。

 ハヌルはまんまるの目だ。に、二年くらいです。二年? ソラの眉間が迫る。ボイストレーナーは誰だ? 誰もいません、独学です。嘘だろ、じゃあ、おまえなんでこんなところで歌ってる、おまえ、自分がどれだけなのか自覚してるのか。な、なんのことでしょうか。ああもどかしい、事務所はどこだ、おまえさえ良ければおまえのために曲を書きたい。

 それはプロポーズに等しかった。ソラを知る者なら誰だってそう言っただろう。ワンフレーズだけでも書いてほしくて毎日世界中から連絡がくるのに、無名の若者にそんなたいそうな宣言をしてしまって、もう世間は後には引けない。

 ハヌルは、当時構想されていたアイドルグループから一人抜け、ソロの歌手としてデビューが決まった。事務所も移籍することとなった。

 ソラは、いつか歌える誰かが現れたときのためにと眠らせておいた曲のストックの中から、とっておきの秘蔵っ子を引っ張り出してきて、その荒削りのメロディーラインとビートを丁寧に磨き上げて、ハヌル本人と会話を重ねながら生の歌詞を書いて、レコーディング時にはずっと現場にいて、なにからなにまでプロデュースした。最高の音楽を韓国のみならず、米国のチャートにまでランクインさせた。

 幸いにしてハヌルは、声帯以外の多くの部分にもカリスマ性があった。世間は彗星のごとく現れた歌手に度肝を抜かれた。

 そこからの数年間はハヌル当人にとっても、ハヌルにずっと曲を書いてきたソラにとっても、電光石火の出来事だった。

 ふと気がついたら、韓国へ移住してから十年もの月日が経過していた。

 人生の転機はそんな節目に訪れたのだ。ソラは十八歳の頃に母国を去ってきたから、そう、あの夜にはほとんど三十歳になっていた。あの晩は家でひとり、ホットワインをのんびり楽しんでいたのだった。

 零時に近かった。ハヌルが急に電話をしてきて、今すぐ会いたいですと静かに言った。

 彼が突然連絡を寄こしてくること自体は珍しくなかったものの、時間が時間だったので、何事かと身構える。

 彼はそれからすぐに、ソラが当時住んでいたソウルは聖水洞のマンションにやって来た。外は雨だった。玄関先に出たソラはシャワーを浴びたばかりだったので、ほかほかに清潔な体で湿気を含んだじんわりと水臭い外気を浴びて、早く玄関閉めたい、と思った。

 そのとき、肩を濡らしたハヌルがその場で告げたのだ。

 約束をください。お互いこんなに忙しくて、僕はすぐ不安になります。だから僕があなただけというあかしをください。

 ハヌルはそう言った。あかしという言葉がしっかりケアされた唇の間から漏れ出てきたのを見て、ソラは、こいつもまだまだ子どもだな、と自発的に思った。

 彼がゲイであることは、ずいぶん前に本人からカミングアウトを受けていたので知っていた。ハヌルは「あなたはきっとずっと僕の面倒を見てくれるだろうから、知っておいてほしいんです」と前置きして、ぽつりと告げたのだった。数年前までは彼氏がいたことも聞いていたし、その彼と別れたときに、一大決心をしたかのような目でソラに報告してきたことも覚えていた。

 後になって思えば、あのときの決意の表情は、自分はもうソラしか想わないと心に決めた顔だったのだ。ソラは雨の深夜の玄関先で、静かにそれを納得した。

 なんで俺がおまえを縛る約束をおまえにしなきゃいけないんだよ、そんなものいらないし、おまえが俺だけでありたいのなら勝手にそうあればいい、俺がなにかを約束する必要はない。そう断る返事を聞いてもハヌルはしばらく受け取らず、いじけたような口先でいいふうの返事をねだった。

 かわいかった。ほら、年下過ぎるだろと言い訳をした。自分に。

 正直に言うと少し怖かった。ハヌルを楽器だと思っている自分がどこかにいそうだったからだ。それを見つけてしまうのが怖かった。

 それに、チェ・ハヌルはこの世界にとって、ただのチェ・ハヌルだけではもうなくなっている。グローバルなファンを大量に抱えたスターは、ともすれば、たったひとつのちっちゃい恋愛だけでそのキャリアの崩壊を迎えることすらある。ソラは、自分がそこの部分の責任を持てる自信がなかった。

 たとえハヌルに惹かれていることが事実だと認めるにしても、付随する恐怖は並大抵の重量ではなかった。

 それに、堂々と僕はゲイですと言えるハヌルに対してソラは、自分のセクシュアリティに明確な名前をつけることができずにいたから、ハヌルへのなにか、彼の世界を壊さないためならなんでもしようという忠誠に似た荘厳な気持ちに、好きだとか愛だとかきっぱりとした名前を認めることに、違和感があった。名前をつけようとすると怖くなり、向き合わないことで逃げ続けていた。

 ハヌルの情熱は、ソラのそんな恐怖をずいずい上回ってきて、楽器でもアイドルでもないたったひとりの人間の姿で、あなただけですと何度でも言った。

 鍵盤を叩いていても、ヘッドフォンをしていても、ギターを弾いていてもやって来て、あなただけですと何度でも言った。雛が最初に見た動物を親だと認識するのと同じではないかと言い返した。なんとかという先輩アーティストに心酔しているのとなにが違うんだと言い返した。そもそも俺たちは忙しすぎる、そんな暇なんてないと言い返した。

 そうやってソラがいちいち張る予防線を、ハヌルは指先で一つずつ器用にほぐして、ほどいていって、気付いたときには二人は指を絡めていた。

 許したのはたしかにソラだった。愛していると自覚して、それで、湖畔の約束の地が建ったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ