赤色 1-6
「ね、あなたの名前は?」
二人はもうしばらく身を潜めたあと、トンネルから顔を出した。池にもう一度落ちないように気をつけながらトンネルの上に登り、そろそろと道に出る。
「ぼく、パス」
「パス!」囁き声を明るく弾ませてエルディアが言う。「ここでお別れしなきゃいけないわ、もう池に落ちちゃだめよ。さ、おうちにお帰り。きっと家族が心配してる」
「うん」
家に帰る道など知らないことにも気づかず、パスはこくんと頷いた。エルディアがそっと公園の植え込みの陰に隠れるのに、パスは遊歩道を道なりに行くことに決める。そうやって歩き出そうとしたとき、喉が池の水でざらついて、少しせき込んだ。
「けほっ、……ごほっ、ゔ、」
粘っこい音の混じった咳が小さな体から繰り返される。パスは金属をひっかくような音を喉から漏らしながら、自分の咳に体を揺さぶられてその場にうずくまった。頭が地面につく直前に抱きあげられる。
「パス! 大丈夫!? あなた病気なのっ!?」
パニックになって泣きそうな彼女の姿に安心したけれど、ぜぇぜぇとざらついた咳をするのが精いっぱいでなにも話せなかった。パスの真っ白になっていく顔色につられて、エルディアも息を詰めていく。
「──誰か!!」
エルディアは突然、往来を振り返って叫んだ。金切り声が静まり返った木々を染め、街灯を染める。
「誰かぁっ!! 友達が倒れたの! 助けてぇっ!!」
二人の周囲が燃えるような色彩で塗られても遠くで輝くアパートの明かりに、女の子は息を震わせた。ひとつだけ、パスを救う手段があった。モノクロームがリーデルになった瞬間から、教えられたでもなくできるとわかったある手段。パスを救ってエルディアを犠牲にする決死の一手。
「黄色のリーデルは‼ 私はここにいるからぁ──────ッ!!」
その瞬間、公園を染めた黄色がほとばしるように立ち上がった。立体として形を持った木の幹のような黄色の柱が、一本の糸となるようにねじれ絡み合いながら夜の町に輝く豆の木を作る。
それは誰も知らなかった、色の三原色が持つ力。黄色の『庇護』は、自分以外の誰かを守るときだけ色が平面を脱する強大な力だ。二人を幹の中に閉じ込めた黄色の木は確かに質量があり、ぎしぎしと幹が擦れ合う音を空に響かせた。町中から見上げることができるような大木は、擦れ合う音が止み完成した直後、ばしゃばしゃと滝のように都市にインクを降り注ぎながら消える。
「はぁっ、はぁっ」
パスに聞こえるのはエルディアの荒い呼吸だけだった。優しく抱き上げられ、目を開けて、と言われたままにまぶたを持ち上げる。
「目の色を見て! この子は、普通の子ども!!」
パスの目に飛び込んだのは、こちらに畏怖の表情を向ける、衣装のバラバラなモノクローム(一般人)たち。うわあぁああっ、とエルディアがパスをきつく抱きしめて泣きじゃくる。
「この子! 池に落ちたの! 喘息もあるみたい! 助けてあげてッ!!」
黄色の少女はパスを彼らの方に差し出しながら、怯えた声で泣き叫んだ。
*
それからパスは病院に連れて行かれて、迎えが来るまでの間にシャワーでインクを落とし、服は黄色に染まったままのものを着た。兄に泣きながらこっぴどく叱られてパスも泣き出し、黄色の服は家に着くなり着替えさせられて捨てられた。その間、初めて会うたくさんの人にかわいそうだと繰り返された。その日一日のできごとは、男の子に反抗的な執着心を植え付けるのに充分だった。
それから、十二年が経った。
主人がいなくなり、動物の弱々しい声だけが時折聞こえるテントの中を急ぐ。ジャケットを腕にかけてゆっくりと歩くシアのあとを絡まりそうな足取りで追いかけながら、パスはせわしなく兄の前を覗き込んでは「もっと早く歩いて!」と文句を言った。
別の垂れ幕の中にはやせ細ったライオンが檻に入れられていたけれど、それより小さな檻の中に彼女はいた。天幕から透けて落ちる格子状の陽光に当たりながら身を丸め、黄色と黒に汚れたシーツを申し訳程度に被っている。
「エルディアさん!!」
シアの隣をくぐりぬけ、パスは急いでその檻に駆け寄った。テントの中の団長室のようなところで見つけた鍵束の中から必死に合うものを探し、ばちんと大きな錠が跳ねるように開いたのに驚いて鍵束ごと取り落とす。
騒がしい気配に目覚めたのか、黄色い髪が持ち上がって、檻の中に飛び込んでくるパスを見上げた。そのわけもわからなそうな表情を見て、パスの真っ白な瞳から涙があふれる。
「エル、ディアさん」とっさに手で包み込んだ両手は小枝でできているように華奢で、力ない。「僕です、パスです。わかりますか? 助けてもらった、」
布切れを継ぎ合わせて作ったようなワンピースは汚れて擦り切れていて、むき出しの手足や鼻の上を横切る鋭い傷痕は目を逸らしたくなるほど酷かった。
自分が情けなくって苛立つ。あのときパスが外にさえ出なければ、彼女は逃げ切っていたかもしれない。インクを自在に操るあの強力な力を持っていれば、それも可能だったはずなのだ。どうしようもない過去を今なら別の状況にできると言って、心臓がどくどくと体を震わせる。それなら今はなにができるのだとせめて思うけど、今パスがエルディアの前に立っているのすら、彼女を傷つけていないかと頭のてっぺんまで涙で浸されたような気持ちになった。
パスがなにも話せずに座り込んで泣いていると、手の中の冷たい肌がふっと温かくなった気がした。彼女がパスの手の中から手を抜いて、次の瞬間、そうっと男の子の抜けるように白い髪を撫でる。
昔よりくすんで暗い黄色の瞳が、それでもパスを掬いあげてくれたあのときと同じように笑みを浮かべる。彼女がまたパスのために選択をしたことに気づいて、彼は慌てて涙を強引に腕で拭った。
「いいえ、エルディアさん、僕はもう大丈夫だから」