赤色 1-5
五歳のパスが、兄に内緒で出かけてやろうと思った経緯は簡単だ。ちょうどそのころ自分も外を歩きたい憧れでいっぱいで、それが受け入れてもらえなかったことがあった。子どもなりに閉じ込められていることを理不尽だと感じて、兄が二階で勉強をしているうちに、一階の窓枠を椅子を使って乗り越えたのだ。五月か六月の、暖かい夜だった。
家と家の隙間の路地に落ち、なんのクッション性もないレンガが足裏とお尻を受け止めたのに多少悲観的な気持ちになったが、パスは次に目に入った野良猫に目を奪われた。どこからか落ちてきた男の子に驚いて思わず飛び跳ねたその猫は、地域でかわいがられていたのかつやつやとした綺麗な毛並みをしていたのだ。自分はこの生き物を触ったりするために外へ飛び出したのだとむくむくと喜びが湧いてきて、パスは、わくわくとしながら暗がりにも目立つ白猫を追いかけて町に駆け出した。ちらほらと通りかかる背の高い大人たちときらきらと灯る街灯は綺麗で、パスはやがて野良猫にまかれてもそのまま歩き続けた。怖がりで泣き虫なのは生まれつきの性分だが、そのときは不思議と恐怖が近くにある感じはなかった。男の子は天下無敵と鼻息荒く町を闊歩した。
木の高い公園の外周をしばらく追いかけて、パスは明るい遊歩道からその中へ入った。柵をくぐって池に近づいたのは、さざめく水面の、月光の照り返しに手を触れてみたかったからだ。露に濡れた雑草の生い茂った斜面をよじよじと降りていると、掴んでいた草がぷちんとあっけなくちぎれて、そのままごくスムーズに斜面を滑った。
──だ、ぽん。ごぼごぼ。
パスは何も縋るものがないまま、天地を失った。泳ぎもできなかったから、手足は時々空気に触れるのだが、なかなか頭を出せずに呼吸が苦しくなって水を飲む。
水中でもがいていると、回転する視界の中でなにかがちかちかときらめいた。けれど光ではなくって、白から黒のどれでもない、〝色〟。
その直後、パスは誰かに抱きあげられて水面に顔を出した。
「……ハァイ、私はエルディア! もう大丈夫よ、私泳ぎは上手いんだからっ」
本当は彼女も声を出したくなかったろうに、彼女はパスを落ち着かせるために黄色の波紋を広げながら笑顔で言った。
「お、おえっ」
「大丈夫よ、すぐ岸に上がるわ」
呼吸を取り戻す前に水を吐き始めたパスを支えながら、エルディアは自負する通りの安定した泳ぎですぐ地面に肘を置いた。彼女は上の柵に向かってわっと小さく呟き黄色いインクを残して、しばらく外周に沿って移動する。パスが滑落したような天然の滑り台が池の四方を囲っていて、濡れた体では上ることが難しかったのだ。
やがて、エルディアは雨水を池に流すための大きなトンネルにパスを引き上げた。その迷路を三回曲がったところに二人で身を隠す。お互いの顔も見えない暗闇で、呼吸も落ち着いたパスを抱きかかえるエルディアがこっそりと耳打ちした。
「私ね、今かくれんぼの最中なの。だから黄色の髪の女の子に会ったかって誰かに言われたら、会ってないって答えるのよ」
「うん」
かくれんぼ! 初めて外遊びに混ぜてもらえたパスはほっぺをかっと温かくさせながら大きく頷く。そうすると、彼女はほっとしたように笑い声を漏らした。
「あなた、みんなみたいにリーデルを怖がらないの?」
エルディアが自嘲するように言うのに、パスはきょとんと首を傾げた。実のところ、乳母からリーデルのことは言われていたし、悪いことをした子どもはリーデルになる、という脅しはどこの家庭でもされていることだった。けれどパスはとっさに目の前の彼女と言い伝えが繋がらなかったし、なにより今夜のすべてが目新しい世界の中では、色彩はもっとも特別な存在で、素晴らしい冒険の成果だった。
「こわくないよ、すごい。どうやったらぼくもなれる?」
きらきらと憧れた声音に、エルディアは「変なの。リーデルになったらみんなに追いかけられるのよ」と言ってくすくすと笑った。
その瞬間、不意に誰かの悲鳴と水に落ちる音がパイプにくぐもって響く。
「なにやってる!」
「こ……このトンネルが濡れてるように見えたんだ」
外から小さく聞こえるやり取りに、エルディアがパスを抱きしめて硬直する。彼女を見つけようとする鬼がきたのだ、と思って、パスは安心させようと抱きしめ返した。
「んなもん、雨が流れたんだろうが」
「最近ここら辺は快晴だっただろ、クソったれ、昨日のことも覚えてねぇのか! おい、火ィくれや、奥まで見てくる」
「どーやって渡すんだよッ! 向こうの柵に絵の具があっただろうが、黄色はもう上がって逃げてる!」
「カモフラージュかもしれん」
ざぱりと水が動いて、重い足音がトンネルの中に上がってくる。かたかたと震える体に、パスは自分が男たちの前に出て行こうと思いついた。かくれんぼで、パスは一人でここに隠れていたのだ。エルディアから離れようとしたとき、その衣擦れの音を男の悲鳴がかき消した。ちいちいとコウモリが何匹も泣きわめく。
再度水の中になにかが落ちて、男の仲間が嘲笑うのが聞こえた。悪態をつきながら気配はトンネルの上に登り、離れていった。小さな子ども二人は思わずお互いの顔がある位置を見つめて、ひしっと抱きしめ合ったのだった。