運命共同体 6-7
「だから、よく考えるように努めよう」
しょきん、と頭の後ろでハサミの小気味よい音がする。イーセルは、そのページに顔をくっつけるようにしてもう一度その一節を読んだ。
「人間は一本の葦にすぎない……」
彼が俯いていると髪を切りづらいので、ノアがその顎を手で引っ張り上げて顔を上げさせた。暇つぶしとして与えられた本にイーセルが熱中したのに、ノアは半分くらい予想通りという顔をして、それ以来散髪中風呂場に持ち込むようなことをしても一度だけ『本来は行儀の悪いことだ』と注意したきりだった。それどころか時折新しい本を買ってきたり、感想を話すように促したり、なにかと協力的だ。
「……切り終わったわ。片づけるから、立ってちょうだい」
「はい」
イーセルが本を覗き込んだまま立ち上がって、赤い髪の散らばった新聞から降りる。そのまま湯舟のへりに腰を下ろして読書を続けるのに、ノアは呆れた顔をしながら新聞を小さくまとめた。
「シャワーで髪を洗い流しておきなさい。服も洗濯するから、新しい着替えを持ってくるわね」
「はい」
「待ちなさい、シャワーを浴びながら読書するつもり?」
「はい」
「はいじゃないでしょう……」
すぽんと手の中から本がなくなって、イーセルは思わず表情に不満をあらわにしながらノアを見上げた。その顔を見てノアがかすかに微笑み、男の子にも見えるようにゆっくりとブックマーカーを挟んで本を閉じ、なにげなく背表紙の表題を確認する。
「……ふむ。これはそんなに面白いの?」
「はい、母さん! うまく言えないんですが……」
イーセルがこの頭が澄んでいくような感覚をどうにか言語化しようと手を振り回しながらもごもごしていると、ノアがまた「ふむ」と言った。
「面白い分野を面白がるわね、お前は」
どこか誇らしげな声音で言って本を脇に抱え、浴室を出て行く。イーセルがシャワーを浴びて着替えたあとも、彼女はリビングでその本をそばの机に置いたまま、男の子を呼び寄せた。短く切って整えた髪で隠れなくなってしまった、黒い蝶のタトゥーと赤色の傷痕にハンカチを当てて結び、腰を曲げてじっくりと男の子の顔を覗き込みながら、ハンカチから飛び出してしまった蝶の長いしっぽに触れる。
「生きるために、悪意を、お前は理解しなければいけないわ」
「はい」
彼女の言葉を深く考えずによい返事をする男の子に、ノアはしかたなさそうにため息を吐いた。
「同時に、幸福と、善意と、愛と、ほかの素晴らしいこと全ても見えるようにならねばいけない。だけど、それは今すぐじゃなくていいわ。ただお前は、なにも逃さず、よく考え、母の言葉をいつも忘れずにいなさい」
「はい」
イーセルの返事に、彼女は多少呆れた感じで、ゆっくりと微笑んだ。子どもの丸い頬を撫で、赤髪に重たい手を乗せて撫でる。
「お前は賢いから、きっとたやすいことでしょう。お前ならできるわ」
それから、彼女は黒く残る首輪の痕に真っ白なスカーフを巻いた。この痣は大人になって消えたのだけれど、これってネクタイの一種なのかと知ってからは、〝品格は武器になる〟し、今もファッションとしてよくつけている。
彼女はよくイーセルに行儀作法を覚えさせた。身につけて損をしない。とくに教育を受けられないリーデルが人間と渡り合おうとするなら、品格はある種の武器になる。たしかに、とレイググルの物騒な住民と話す教会の人間を、品のある雰囲気が触れがたい膜のように覆っているのを思い出して、イーセルはすごく納得したものだ。
スパルタな授業はマイルドになって、託児院の子どもたちに引き継がれている。年上の子が弟妹へ、得意そうに習ったことを教え込んでいるのはかわいくってたまらない。
彼女の家に来て二週間ほど経って体の傷や痣がほとんど消えたとき、ある日ノアがいつものように、聞きなさいと言った。ある手紙を手に、「お前がいたギャラリーから手紙が来たわ」と厳しい顔をする。
「お前が私に買われたのは、手違いだったと書かれているわ。ついていた値段は表現の一部で、作家は実際に売るつもりではなかったと。近々別の展示に出すので、私にお金を返してお前を回収しにくると言っているけれど、私はけして、お前をほかに渡したりなどしない。お前は、ここから逃げなさい」
突然深い谷の上に差し出されるような、わけがわからない気持ちだった。まだノアと教会へ行けていないし、買ってもらって読んでいない本もある。いつものように読書に耽っていたイーセルは、思わず本を抱きしめて椅子の上に体を丸めた。
「ここから出て行かないといけませんか」
「ええ、そうよ」
「で、でも、また捕まってしまうかもしれません」
「捕まってはいけないわ。今回は奇跡的に知り合いに招かれたギャラリーにお前がいたけれど、次は見つけられないでしょう。また捕まれば、もう二度と自由になることはできないと思いなさい」
彼が恐怖に顔を歪めてもノアの表情が変わらないのに、恐ろしくなって彼女から目を逸らした。気圧されて口をつぐむイーセルに、彼女がつかつかと近寄って膝をつき、逃げる赤い目をまっすぐに覗き込む。
「私が好意的な返事をすれば、相手も安心して少し時間を稼げるかもしれないわね。だけど、相手は必ずここへ来るでしょう。なにができるか、なんでもいいから言ってみなさい。お前自身が考えなさい」
子どもの両手を包み込んで、ノアが言い聞かせるように優しく言った。イーセルはきつく彼女の手を握り返す。
「その日だけ俺は屋根裏に隠れておいて、母さんが『イーセルはもう逃げた』って、」
「そうしたら、そのあとはどうするの? お前はきっと捜索願が出されて、もちろんこの家の中もこの辺りもくまなく探されるでしょう。私の過去を調べられて、お前を育てていたとバレたら、私にはしばらく監視がつくか、精神病院に送られるかもしれない。その間、お前はずっとこの家の屋根裏にいるの?」
「きょ、教会で、シスターエヴェルにかくまってもらいます」
「それがいいわ。無理せず、人間のいないところも活用しなさい。そうやって生活してきたでしょう? 元の生活に戻るのよ」
「迎えに来てくれますか」




