運命共同体 6-6
体から力が全て抜けてしまって、泣きじゃくって小さな体が揺れた。滲んではクリアになる視界の中に、さっきまで部屋にいなかった男が現れてシアに手を差し出す。男の子が動きもしないから、彼の腕を掴んで無理やり引き起こした。本当は立たせたかったようだけれど、床にへたり込んでぐったりと脱力するシアにしかたなく腕を離す。
「私、あなたにひとつだけしてあげられることがあるの。約束してくれる? これから先ずっと、けして王様の息子だって誰にも言わないって」
その男の手を借りながらベッドに座り直し、トメアリーが疲れた声音で言う。
「彼はユリウス。お父様がご病気になられて来月からここを離れ、私たちとは無関係な人間になるわ。今後あなたの保護者として、学校で必要なサインだとか、大人が必要なときは彼を呼んで頼りなさい」
緊張している様子の若い召使いは、王妃に頷き返してシアを見た。
「ただしあまり頻繁には会えないかもしれません。両親はリノクォルから離れたところに住んでいるんです。僕のことは、叔父としてください」
泣き疲れてぼうっと二人を見上げるシアに、ユリウスは心配げな表情を見せた。それにどれだけぞっとしたことか。今年で十の子どもと赤ん坊だけで生きるのに、シアに支えが必要になれば生活は崩壊する。優しさを、甘さを向けられるのが今は、重りのように感じて、恐ろしかった。
「……最後に、これを見てくれる?」
トメアリーがメイドに片手を差し出すと、彼女がいつのまにか持っていた平たい箱を開いた。その中に収まっていた、きらきらと豪華絢爛に輝く大きなネックレスを王妃が持ち上げる。プラチナの鉤に無数の透明な宝石のはまった、見るからに最上級のものだ。
「これをあなたのお母様に。これは婚姻の祝いに前妃陛下が懇意にしていたブランドが贈ってくださったものなんだけれど、私の趣味じゃなくて困っていたの。宝石をひとつ外して売っても百五十万はくだらないわ、しっかりお墓を立てて弔ってあげて、あとは自分のことに使いなさい。きちんとしたお店で、ユリウスを連れていって、安く買われそうになったら『嘘だ! 母さんが百五十万は下らないって言ってたぞ!』って言うのよ」
メイドがネックレスの入った箱を閉じると、シアに差し出し、しかたなさそうに彼の膝の上に置いて離れる。これを売って、母親の墓を立てる、と王妃の言葉を反芻すると、黒く変わった瞳にまた涙がたまってこぼれた。
「……かわいそうな子。うちに帰る時間よ。ユリウスについて行きなさい、彼が送ってくれるわ」
トメアリーがため息交じりに言った。彼女がメイドとともに部屋を去り、ユリウスがシアの近くで中腰になって困ったような表情をする。
「……、立てるかい」
シアをリーデルとして扱うか、モノクロームとして扱うか、迷った末にかわいそうになった、そんな優しそうな声音だった。これ以上座っていたら手を差し出してくれそうな気配が気持ち悪くなって、シアは俯きながら立ち上がる。彼がついてくるよう仕草で示して歩き出すのに、少し後ろをついて行った。
地味で目立たない馬車に乗って王宮を出て、シアの家まで向かう。きらきらと明かりの灯った家々の隅の、唯一真っ暗な家に入って、シアはくすぶるような小さな泣き声にはっと顔を上げた。
「パスっ」
シアの声に呼応するように、火が付いたような泣き声が毛布の中から上がった。慌てて赤ん坊をかき抱いて、シアはよろよろと立ち上がった。驚くユリウスから無意識にパスを遠ざけながら暖炉に向かって、火を起こしたそばに椅子を引き寄せる。時計を見ると家を出てから二時間ほどしか経っていなくて、ミルクの時間ではなかった。おむつも汚れていないし、それじゃあ、なんだろう、一人にさせていたことに怒っているのかもしれない。
「な、なぁ、その赤ん坊は? 父親は誰だ?」
「……帰って」
小さな火をかき混ぜたあと、重たい赤ん坊をゆらゆらと揺らしてあやす。
「明日はもっとまともに喋るので、もう帰って」
むずかる弟に、笑わなきゃ、と思うほどに顔が強張った。ユリウスが家から出て行くと、最後の気力も失って、シアは赤ん坊をカーペットの上に横たえるとその隣に寝転んだ。家に帰ってきて、張り詰めていた体に疲れが押し寄せてきていた。なにも感じられない、自分を遠くから眺めているような重い感覚が体を包む。悲しくもない。悲しさのようなものが心から遠いところにあるのには気づいているけれど、頭がぼんやりとして、それを思い返したって鈍い感触しかわからなかった。
そういえば、パスは色を失ったシアに驚いていないだろうか、とふと思いついた。泣き止んだ弟はまだなみだの残った瞳をくりくりとさせながらシアを見上げていて、なんとなく黒髪を気にしているふうではある。シアが熱い真っ灰な頬に頬を擦り寄せると、くすぐったそうに顔を逸らしてふんわりと笑った。その笑顔を見ているとなにもかもが眩しく塗りつぶされるようで、シアはやっと薄く笑えた。
弟は、弟だけは、シアを置いていかないでここにいてくれたのだ。
「……お前は、絶対誰にも傷つけさせないから」
だから、お前だけはどこにも行かないで。
ミルクの匂いのする赤ん坊の頭に頭をくっつけたまま、泥のように眠った。パスの泣き声に起きて、たどたどしい手つきで牛乳を温めて飲ませる。それまでも母乳を飲ませられなくてほかのものを代用したことはあったけれど、やはり食いつきは悪くて、赤ん坊は嫌がって泣きながら顔を逸らした。
「ダメだ、これしかないんだから……」
なだめすかして牛乳を飲ませているうちに朝になって、パスをベビーベッドに寝かせると、玄関扉からシアを呼ぶ男の声がした。どうにもパスを外へ出せなくなったのはその瞬間からだ。自分を唯一必要としてくれる存在が、自分以外を第一にして行くのが怖かった。




