赤色 1-3
「種を出しなさい」
彼は修道女が差し出したちり紙に口を寄せ、彼女の手に小さく触れて引き寄せながらさくらんぼの種を吐き出した。シスターエヴェルはちり紙を丸めてエプロンのポケットに入れ、まるでリーデルへ向ける声とは思えないような優しい声音で彼に話しかける。
「あれから変わりはありませんか?」
「はい、子どもたちも元気に変わりなく過ごしています」
耳触りの良い、優しい低い声で彼が返す。二人はとても親しげで、長い付き合いがあるのがわかった。パスは近くの、天井の絵画のよく見える席に座って上を眺めつつ耳を澄ます。リーデルオタクである彼だが、受けた教育の通りにリーデルと公衆の面前で会話をするなんてありえないと思っていたから、好奇心とともに、どっどっと心臓は緊張に早鐘を打っていた。
「……ふふ。今日はとてもいい日になりましたね」
「ええ、俺もこれから何かが変わるような予感がしています」
よく似た笑い方でくすりと同時にこぼし、それでは、と彼が話を切り上げた。
「必ず生きてまたここに来ます」
たっ、と駆け出すような足音に、パスは慌てて彼の方を振り返った。軽い足取りは聖堂の扉まで近づき、ドア枠を超える瞬間にふっと姿勢を下げて床を蹴る。
「イーセルだ! 行け! かかれ!」
「ははっ──」
教会から出た瞬間にばたばたと襲い掛かってきた若い男たちの上にふっと彼の姿が消え、「ぐわぁっ」という一際大きな悲鳴とともに数人がドミノ倒しのように倒れ込む。開けた視界の奥で、イーセルが敷居を区切る門の上に飛び移るのが見えた。追われるのはやはり慣れたことなのだろうか、呆れるように腰に手を置いてみせる。
「懲りないなぁ、君たちも。強盗なんかしようとするのが悪いんだろう」
「おい、銃だ、銃だ、撃ち落とせ」
「なんですって!」
強盗未遂たちががしゃがしゃとライフルを持ち出した途端、イーセルとほんわかと話していたシスターエヴェルがキッと怒鳴って外へ向かった。先ほどまでの柔らかな声とは打って変わって、低く冷たい声はその神に仕える衣装も相まって、雷のような心臓の竦む迫力があった。
「神聖な教会の敷地の中で銃を撃とうというのですか、あなたたちは!! そんな野蛮なことをわたくしが見逃すとでも!?」
まるで母親に首根っこを掴みあげられたような顔で彼女を振り返って、男たちは怯むまいと彼女を睨み返した。彼らは教会の中で暴れるとどんな目に合うか、その身でよく理解しているのだ。
「でもよぅ、修道女様……」
「そんなにも撃ちたいなら山で鳥でも捕って来るんですね。ここにいる者に、殺生は許しません。わたくしの手の届くところで人同士が争うことは許しません!」
屈強な男たちが揃ってもじもじし始める。「また地下牢で一週間断食がしたいみたいですね」とシスターエヴェルが脅すように言って、ひいい! と地面に座り込んで身を寄せ合い、がたがたと震えた。
「やめてくれぇ、空腹で自分を見失うのは嫌だぁ……」
「なにも見えない暗闇で自我を失っていく周囲の声を聞くのは怖いぃ……」
「では、今日はよい子にしてますね?」シスターはゴロツキたちがこくこくとしょんぼりして頷くのを見て、にっこりと笑みを浮かべた。「さ、良い子はさくらんぼを食べて帰りなさい。それから、ウェールン領の方で大規模な開発事業があるそうですよ。汽車を新しくもう一本通すそうなのです」
それとなく働き口の案内をされるのに、彼らはむっつりとさくらんぼを咀嚼しながら彼女から目を逸らした。シスターエヴェルはとくに気にしたふうもなさそうに座り込んだゴロツキたちを立たせ、優しく背中を押して帰らせる。パスはそれを見送りながら、いつの間にか門の上からイーセルの姿がないのに気がついた。ゴロツキたちが門を越えて塀の裏に姿を消すと、不意にイーセルがひらっと玄関の屋根の上から顔を覗かせる。
「シスター……危険ですから、あまり無茶はなさらないように……」
「あれはまだ無茶の範疇にありません」
きちんと背筋を伸ばして彼を見上げ、にっこりと笑って言うシスターに苦笑いを返し、イーセルが屋根の上に消える。ふっと軽い音を残して塀の上に飛び乗り、彼は超人的な身軽さでそのまま建物の凹凸に飛び移りながら去っていった。シスターが不意にパスの方を振り返る。
「さて、シア。約束をしていたのに後回しにしてすみません。次はあなたたちですよ」
「いえ、シスターエヴェル。気にしないでください」
うわぁ、とパスは思わず声を漏らして真横を見上げた。いつの間にかシアがすぐそばに立っていて、シスターエヴェルが二人の方へ近づいてくるのに、パスも慌てて立ち上がった。
「改めて、誕生日おめでとうございます、パス」
シスターエヴェルはこちらへ歩きながらごそごそと貫頭衣のような形のエプロンの中を探った。めでたそうにポケットからつやつやとしたさくらんぼを取り出す。あまりポケットも膨らんでいるようには見えないのにイーセルの分も元強盗たちの分もパスの分も出てくるから、魔法のポケットのように見えた。
「さぁ、どうぞ。あなたはお誕生日なので、みっつですよ」
「えーっ、ありがとうございます。わーい」
彼女が当然のように口元まで差し出してくるので、パスは促されるがままあーんと口を開けてみっつの小さな果実を頬張った。その際余った両手が恐竜のように中途半端に持ち上がっていたのを、兄の手に引っ張られて顎の下で器のように行儀よく構える。果実を噛むと、じゅわりと酸味の溶けた蜜が舌に流れ込んだ。
「もぐもぐ」
「種を出せますか?」シスターエヴェルはちり紙を取り出しながら頬を膨らませるパスにくふくふと笑い声を漏らした。「すみません、みっつ一気に食べさせるものではなかったですね」
「むぐむぐ」
パスはリスのようになった口元を片手で押さえながら、軽く首を振った。片頬に種、もう片頬に果実というように器用により分け、ちり紙を受け取って種だけを吐き出す。
「むふふ」できました、と言う代わりにこくこくと頷いて見せる。その間に甘い果肉を飲み込み、「おいしかったです、んー」と礼を言うついでに満足そうなため息まで吐いた。おいしかったですか、と微笑んで繰り返すシスターエヴェルの目に実際より幼い男の子が映っている気がしてならない。
「シスター、あまり甘やかすのは」
「あら、すみません、つい」彼女がパスからゴミを受け取りながらいたずらっぽく言う。「あなたも食べますか?」
「いえ」
シアがまた断ると、今度は気に食わなかったらしくって、シスターは「はい」と言って彼にさくらんぼを一粒差し出した。
「さあ、食べなさい」
「……」
無言の抵抗を試みるも、シアはにっこり笑顔の圧に折れて彼女からさくらんぼを受け取る。マイペースな兄が誰かに折れているところなんてなかなか見れなくて、パスにはとても可笑しく見えた。
そのとき、シスターエヴェル、と彼女の仲間が控えめに彼女を呼んだ。そろそろ炊き出しを出す時間だったのだ。
「せっかくみんなの顔を見られたのに、そろそろ仕事に戻らねばいけないようです」
シスターエヴェルが残念そうに言う。パスは兄がこんなにも親しそうに笑っているのを初めて見た。
「また今度顔を出しますよ、ごちそうさまでした」
そう言うと軽く脱帽の仕草をして挨拶し、パスを連れて教会を後にする。神経質な彼の珍しく考え込んでいない感じも相まって、パスはなんとなくつられてにこにこしながら太陽の暖かい街道に出、大きな緩いアーチを描く橋の上を渡った。