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運命共同体 6-3

「シア!」


 ある夏の日、母親が仕事を終えて、夕方に帰ってきた。地味なサマードレスとバッグ、それから、なにかの箱を両手で大切そうに水平に持って、リビングに入ってくる。シアはそれを新聞──興味はなかったが、家の中の娯楽と言えばそれくらいしかなかったのだ──ごしに見上げた。


「これはなんでしょう~?」


「……?」


 ぽかんとするシアに、母親はじれったそうに彼の座っているダイニングテーブルまで来て箱をそっと置いた。家のような形をしている箱の上部を開いたあと、思い出したように皿をひとつ持ってきて置き、箱の中からなにかを持ち上げる。


「じゃーん! 九歳のお誕生日おめでとう!」


 そんな掛け声とともに皿の上に乗せられたのは、小さな丸いケーキだった。自分の誕生日を今知ったくらいだから、シアは突然寄越された綺麗なお菓子に困惑してじっと見下ろしていた。その間に母親がストライプ柄の細いロウソクを三本取り出して、ずぶりと繊細なケーキに突き立てる。


「えっ」


「えっ?」


 彼女ははっとした顔をして、「本当は九歳だから九本だけど、ロウソクだらけになっちゃうし……九本がいい?」と肩を竦めて提案する。そんなに刺したらせっかく綺麗なものが針山みたいになってしまうと思って、シアは急いで首を横に振った。母親が頷き、キッチンからマッチを持ってきて、ロウソクに火をつける。燃えるロウの煙っぽい匂いがした。


「火をつけたら、お願いごとをして吹き消すんだよ」


 みっつ灯されたロウソク明かりを見つめていると、なんとなく喜ばしい気持ちがした。願いごとを考えていると、母親がシアの後ろに回ってきて肩に手を置く。


「あなたの一万年に幸せがたくさんありますように」


 本当は、この文句は一万年ではなく一年に幸せを祈るらしい。シアはそれを合図とするように、ふう、とロウソクを吹き消した。願ったのは最近の心配事である家族の幸せで、おめでと~! と本人よりはしゃぐ母親に後ろから抱きしめられながら、もそもそ体を捻って腕を伸ばし返した。彼女の腕の中で、せきを切ったように絶え間なく話す声に耳を傾ける。


 ──あなたは朝早くに生まれて、そのときは北離宮の……ソルハヤっていう町に住んでたの。


 私は前日の夜から近所の人に頼んであなたを取り上げてもらったけど、あなたが青い髪をしているのがわかったとき、みんな帰っちゃったから、私はベッドの上で芋虫みたいにうねうねしながらあなたのお世話をしたんだよ。


 だけど夜通し起きてたから、私、あなたを入れてた洗面器に頭から突っ込んじゃって。


 そしたら、あなたが『寝てたのにいったいなんだよー!』って泣くから、それがすっごくかわいかったんだよ……


     *


 正面に飾られた抽象画をじいっと見つめ続けていると、ピントがぼやけて、ただでさえぐちゃぐちゃな絵が乱雑にかき混ぜられるように思えた。イーセルはなにか展覧会のようなところで作品のひとつとして並べられていた。後々考えると、あの老人は芸術家かなにかだったのだろう。着飾らせられて、慣れない硬い椅子にずっと座っていると足の感覚がだんだんなくなっていった。

 ゆらゆらと客が前に立っては離れ、魚釣りみたいだと思ったけれど、それ以上に食いつく者はいなかった。巨匠だかなんだかの作品とはいえリーデルに大金を出すなんて、誰もプライドが許さなかったのだ。ずうっと座っていたが正面の絵画は延々と飽きなくて、左右の絵には目もくれずにその絵を見つめ続けた。

 その視線を邪魔したくないみたいに少し離れたところにいつのまにか人が立っていて、その初老ぐらいの女性がじっとイーセルを見つめていることに気がついたのは、彼女が近くを通ったスタッフを呼び止めてからだった。


 ええ! あれは売っていますよ。


 そう言いながらスーツの男が白い顔をこちらへ向けたので、自分のことかとわかった。

 その展覧会が終わったあと、イーセルは彼女の家へ送られた。改めてピントを合わせて新しい主人となった彼女を見ると、白髪の混じった頭に黒ずんだ肌をしていて、老婆のようだ。けれど年にしては小さなアパートに住んでいて、どうやら配偶者も子どももいないようだった。


「お前の名前は?」


「……? ……イーセル」


 あの絵画には額縁のそばにプレートがあったけれど、自分にはなかったのだろうか。イーセルが答えると、彼女は続けて、「私にその名前で呼ばれたい?」とチェロを弾いたような低めの声で言った。彼はその意味が分からず、ただ自分の名前はイーセルだから、頷いて返す。


「では、イーセル。その首輪を切るから、そこの椅子に座って」


 彼女が指差した小さなスツールに腰掛けたあとも主人がなにを言っているのかわかれずにいた。彼女が細長いハサミを持ってイーセルの首元に近づける。

 びくっと反射的にイーセルが体を遠ざけるのに、彼女ははっとして彼からハサミを引っ込めた。「……首輪を切るだけよ、お前に加害しない。私はけしてお前を傷つけない」と一息に話し、それでも赤い目が落ち着かずに彼女を見つめるのに、「なぜなら」と続ける。


「私はお前を知っているから。お前を奴隷だとは思っていないということよ。その首輪を外して、ここから逃がしたいから首輪を切るの」


「……」


「私が信じられないのなら、自分でこのハサミを使ってもいいわ」


 疑いの目を向けるイーセルに、ハサミの持ち手を差し出した。喉が詰まったような感覚に襲われながら、イーセルは呼吸で言葉を押し出すように「根拠を」と返事をする。


「いいでしょう」


 そばの机にハサミを置き、彼女は一度背中を向けた。リビングの中から別の椅子を持ってくると、彼の正面に座る。


「お前の生まれを話すわね」


 そう言って、彼女はイーセルの母親の知り合いを名乗った。


「お前は先天性の……生まれつき、色を持ったリーデルとして生まれた。お前の両親はお前を売ることにしたけれど、子どものできない体質の私は羨ましくて、お前を両親から買い取った。自分の子どもとして育てたかった」


 唐突で、信じがたい告白だった。それでは、目の前の冷たい目をした節っぽい女性がイーセルの養母なのか。彼女が赤ん坊を生かした人なのか。


「私はお前を誰にも奪われたくなくて、そのころはリボンで首輪を作っていたわ。けれどそのうち、どうして私の子を奴隷と呼ばなくてはならないのだろうと思って、私はお前を一人で生かすことにした。お前は賢い子どもだったから、まるでお前なら、一人で森に置いてもなんでもできるように思えたの。


 ……。


 お前は私の嫉妬と、私のエゴによって今ここにいる。その点についてごまかしたりしないわ。そのハサミで私を刺してもいい。なにをしてもいいから、その首輪を外してちょうだい」


 その冷静で事実だけを連ねる声に、なぜか、とても安心して。イーセルははっと口を開いたあと、机からハサミを持ち上げた。痣の残る首に回った華奢なチェーンを襟の中から引っ張り出し、刃にチェーンを噛ませると引きちぎるように切る。脆い鎖が床の上で跳ね、まるで死んだ蛇のように体を丸めて動かなくなる。


「たとえば」


 彼女なら、きっと有意義な返事をしてくれるだろうと思った。


「ご主人様の前で売られようとしていたのが、普通の赤ん坊でも同じことをしましたか?」


「……ノアと呼んで」


 ノアは、少し考えてから答えた。


「たとえモノクロームでもリーデルでも、私は買い取って育てようとするでしょうね」


「では、リーデルにも普通の赤ん坊と同じ愛情を注げるということですか?」


「そう言えるでしょう」


「では、なぜリーデルは疎まれるんでしょう?」


 彼女は口をつぐんで、なにかを思い出しているようだった。イーセルは思わず自分の考えを言い連ねてノアを説得しようとする。


「ノアは俺を自分の子どもとして育てたんですよね? そして、今助けてくれました。それなら、リーデルは愛されることができますよね? どうしてリーデルは奴隷となってしまうんですか?」


「……私が正しく答えることはできないわ、イーセル」


 それでも、彼女は誠実だと思った。あしらわない。ごまかさないし、嘘を言わない。


「私たちは法で縛られている。たとえリーデルに対し愛情があっても、肉親は庇うことができない。そうでなければ、殺してやるというのがせめてできることと言えるわね」


「……」


「ふたつに、教育があるでしょう。私たちはあらゆる場所でリーデルに対する差別を見聞きするわ。かく言う私だって、お前に出会うまでリーデルを得体の知れない悪魔だと思い込んでいた。みな、聞いたことしか知らないのよ。自分の目で見て確かめたこともない。その必要がないのだから」


 ノアはふと立ち上がって、部屋から出て行った。イーセルは椅子に座って待ちながら、新たな問いを整理して時間を潰した。ノアは皿とナイフを持って戻ってくると、椅子に座って机上のバスケットから梨を取る。


「みっつに、今いるリーデルのことがあるでしょう。もし私たちが我が子以外のリーデルを見たなら、……それはまるで死体のように痩せて恐ろしい顔をした彼らだわ。たとえ以前どんなに美しい人間だったとしても……」


「ノア、だけど、学校では『立場の違う人でも助け合わなくてはいけない』と習うはずです」


 梨の皮を剝きながら、ノアが「誰かから聞いたの?」と問い返した。イーセルは早口にシスターエヴェルのことを話して、彼女の言葉を思い出しながらそらんじた。彼の声に紛れて、皿の上で梨が細かく切り分けられていく高い音が響く。


「そのかたが言っているのは、善きサマリア人のたとえね」


「さまりあ?」


「食べなさい」


 むやみに高揚している男の子を止めるように、ノアは透き通るように白い梨の乗った皿をイーセルに差し出した。彼はびっくりして、反射的に皿を受け取る。梨の甘い蜜の匂いが鼻をくすぐるのに、かけらをひとつ口に運んだ。


「疲れたでしょう。お前は休みなさい。傷が癒えて、なにか、したいことができるまで、この家で休みなさい」


 そう言われると、体からくたくたと力が抜けていくようだった。イーセルは頷いて返して、震える指でもうひとつ白い果実を口にした。

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