運命共同体 6-2
その昼食のあと、イーセルはなにかいいものが捨てられていないか路地裏のゴミ箱を漁っていた。狙いは布類だ。バターや塩などの調味料はシアから、服の上下ひと揃えはシスターから分けてもらえるけれど、上着や毛布を探して回るのはイーセルの役割だった。そのころにはシスターエヴェルに習って文字も読めたので、新聞なんかもあればしめしめと拾った。
彼が調べに行く場所はだいだい決まっていて、回る順番もなんとなく習慣ができていた。それを知らぬ間に調べられていたのか、普段は見回りもいない焼却場で、その日は唐突に縄と麻袋を持った男たちと出くわした。
普段ならサルかリスみたいなすばしっこさで高いところへ逃げるのだけれど、イーセルは建物の屋根の上やゴミの山の上から見下ろす人影の集団に驚いて思わず立ち竦んだ。次の瞬間には押し倒されて倒れ込み、二人がかりで手足を掴まれる。剣の片方を口で咥えてささやかな反撃をしたのも怒りを買って殴られただけで、死ぬ直前に気絶した。
*
シアは夕暮れどき、いつもの川のほとりで待っていたけれど、友達がなかなか来ないのに狩りの調子でも悪いのだろうかと的外れな心配をしていた。しかしすっかり日が落ちてもイーセルは姿を現さず、やがてシアは小石を土にうずめて『探してる』と短い文を書き置くとその場を離れた。
始めは、小動物用の罠があるところをめぐった。長い時間放置されたのだろう、弱り切った動物がかかっているのに、レイググルのシスターのところにいるのかと会いに行った。でも彼女も知らなくて、もう一度山の中に戻った。けれどまだ着いていなかった。シアはそこでパニックになって、もう当てもなくやみくもにイーセルを探し始めた。
そうして町の片隅で見つけたのは、親友でなく意外な人物だ。彼じゃないんならなんだってよくって早く目を逸らしたかったけれど、のんだくれが行き交うその歓楽街にひっそりと佇む母親の姿はあまりにも異様で、シアは拒否感に目をすがめながらも見つめ続けた。
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「──……」
狭い、犬の檻の中のような場所で目覚める。それからすぐ、自分はまだ生きているのだと思って、イーセルは鉛のように重い体を起こすこともできずにとろとろと涙を垂れ流した。すぐそばの毛布から乾いた糞尿の臭いがする。それから、気を失っている間に吐いたらしくって、頬と肩の皮膚が胃液に焼かれて痒かった。毒薬に侵された内臓が別の生き物になったようにうごめいて感じた。
商人たちは最近、おもむろにイーセルを牢から引っ張り出すと、その首輪と手錠を外して床に放り捨てるのだった。軽くなった体で逃げ出さないというのはまるで諦めてしまったみたいで、赤色の男の子は必至に立ち上がって剣を握る。だけれどもう充分に時間が経ち、すっかり中身のなくなった体は軽く、遅く、日に日に抵抗は意味をなさなくなっていった。
息を荒げて、泣きわめいて、もうそれらもできなくなったころに冷たい鉄の塊が喉にのしかかり、かちんと軽い音で錠がかけられる。
勝てない。
逃げられない。
そういうことばかりを考えるようになる。
最後に毒物を──日によって酒か、薬か、液体かというのは違った──流し込まれて、初めの狭い牢に押し込まれて、苦しんでいるうちに一日が終わる。
ただの鉄の壁を見つめていると、ぷつんと糸を切った静寂のあと、甲高い耳鳴りが始まった。ぼんやりとした音が近づいてきて、部屋の明かりがつけられ、ふと光が差し込んだ牢の中に大きな影がかかる。牢の扉が開き、ぬっと大きな手が伸びてくる。
ガシャンッ、と弾かれるように逃げた体が牢の奥にぶつかって大きな音を立てた。無理やり引き出され、蝋人形のように動かない首から首輪が落ち、不意に吹き込む冷えた空気に彼は体の熱さを知る。
「……」
誰か不気味そうに舌打ちする。今や動きすらしない男の子のその憎悪と怒りだけに輝く目に、誰か嘲笑うのが写った。
*
あれから母親が妊娠したと言って、シアは彼女がコウノトリという言葉を使うのに思わず苦笑いした。母親は妊婦になってから、妙に機嫌がよかった。赤ん坊の名前を考え出すもんだからああついに気が触れたと思ったけれど、彼女がシアの部屋のもう幼すぎる家具を売って新しくベッドを買い直したのにはとてもほっとした。
ある家の乳母になって、彼女は今度こそ楽しそうに働きに出るようになったし、物を売って暮らすような生活からは抜け出していた。様子を見に行くと穏やかな声が話し、シアに問い、静かに笑みを浮かべるのはまるでまどろんで見た景色のようで、彼はゆっくりとほだされ始めていた。その隣で寝落ち、翌朝揺り起こされて、一緒に朝食を食べるようなことがだんだんと増えた。
腹にいる子どもは、体を売ってできた子どもではないのか。
ずっと肉親というものに縛りつけられて、シアもいまだそれがわからない子どもではない。
もう一人のシアみたいな愛しがたい存在ではないのか。
……本当に産んで育てる気。
本当に?
それなら、今度こそ幸せになってほしいと思った。生まれてくる赤ん坊が。それから、生き直すと決めた母親が。
そこにシアがいなくっても構わないから。
*
夢見がちな男の子が陰気な奴隷に変わったころ、イーセルはオークションにかけられた。希少な原色のリーデルは特別高く値がついて、いかにもお金持ちそうな老人のところへ買われた。
新しい主人はイーセルをなにか病院のようなところに連れて行って、右側の額から右目を挟むように広がる蝶のタトゥーを入れさせた。その細工は美しいものだ、健気にのびのびと羽を広げたアゲハ蝶は、今でも彼の額に静かに止まっている。主人は彫り終わった浅い色のそれを見て満足そうに帰り、屋敷の大きな部屋でその蝶の片羽を抉り取れとイーセルに命じた。
「お前の、筆の剣でだ。インクを出して切れ。そうしてやっと『イーセル』は完成するんだ」
手のひらを覗き込んで、彼はあまりに激しい鼓動に体が大きな手に揺さぶられているように感じた。それでもモノクロームの命令だから、必死に力の入らない震える手を押さえてやっと双剣の片方を掴み、鏡を探して、つやつやの床に俯いた。大理石にこれだけ怯えてもぼんやりした表情の自分が見えた。
「……」
きれいな羽を伸ばすその片翼に刃を差し込んで、痛みもよくわからずに淡々と額の肉を抉った。べちょ、と赤く濁った黒い肉が床に落ちる。とぱとぱと血が流れたが、それは傷口に塗りこまれた赤色のインクと混ざり合って油絵具のように重たく床を叩いた。
「……っ、……」
なにかが喉を締めつけて、不意に視界が滲んだ。過分に幼い嗚咽が部屋に響き始める。
額の傷の赤が流れ出していく度に、唯一残っていたものも体から流れ出していくような気がした。体温が失せていく。涙が熱湯のように思えて、握りしめた両手は氷のようだった。
わかっている。これは服従の儀式だ。悔しかった。獣のように捕らえられて、牙の翼もなにもかもこちらのことなどひとつも考えられずに奪われた。そのうえで、まるでイーセルが望んでいるみたいに自分の色で隷属を誓わされるのがどうしようもなく許せなかった。煮立った怒りが体中に広がって、きっと火が空気を求めるようにより広い場所へ膨張しようとしたのだ。心臓が痛くて、体が熱を発しているのがわかった。それでも頭の中は燃え尽きた灰でいっぱいになってしまったみたいに虚しくて、そのうち、人間とはいったいなんなのだろうと考え始めた。腹を満たして排泄をして眠り、それ以外の時間は全部頭を満足させるために費やす。みんな一様にそうして、それがどうしてリーデルに自傷させる劇なんてくだらないものに行きつくのだろう。簡単に潰れてしまう柔らかな内臓をして、こんなふうにくだらないことを考えて、お互いの表層をうぞうぞと蠢く蛆虫なのに、もっとくだらないことをしでかしてどうしようもないのなら、それなら全員早めに死んでしまえ。
そんなふうに考えていると、投げ出した手の中にあった赤色の剣が砂粒のように崩れて消え始めた。ちらちらと瞬く光が宙に昇っていくその光景を、イーセルはなぜか今も鮮明に覚えている。




