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赤色 1-2

「そこで立ち止まるな」


「うわわわ」


 そんな感激も束の間、パスはシアに押されてどたばたと街道の中心までたたらを踏んだ。しかしパスはめげない。顔を上げると、頰をりんごに染めながら八方を眺める。白から黒の無限のような階調で構成された町は色がなくとも、今日は素晴らしく輝いて見えた。こっくりと深い屋根と白い塗料でぴかぴかと塗られた可愛らしい色調の家々に、まだ明かりがついていなくて、くすんだガラスの中身の見える街灯。街道を包む色ムラのふくふくと愛おしいレンガタイル。そのざらつきにできた陰影や触り心地さえもパスには物珍しくて、幼い子どものように近くまで寄って見つめた。


「バカ、なにしてるんだ」


 ぐい、とシャツの後襟を引っ張られ、「ぐえ」と彼はカエルが潰れたような声を漏らした。レンガの間のセメントをぞりぞりとなぞって汚れた手をはたき、早足に離れていく不機嫌そうな後ろ姿を追いかける。しかたないでしょ、と口にはせずに唇を尖らせた。外に出るのは五歳のとき以来だし、そのときは夜で、周りもよく見えなかった。もう少しくらい感動に浸らせてくれてもいいのに。


 パスはずっと外に出られなかったが、五歳のとき数時間だけ、兄に反抗して外へ冒険に出かけたことがあった。そのときもとても興奮して、見るもの全てが特別製に見えて……


 ──この子! 池に落ちたの! 喘息もあるみたい! 助けてあげてっ!!


 そのせいでぽろぽろと怯えて泣くリーデルの少女に、自ら奴隷商の前に姿を現させた、人生最悪の日でもあるけれど。


 路面電車にしばらく乗っている間に、パスはシアからこの辺りの地図を教わった。ヨーロッパ側に開いた港町・カナネルから南、島の奥に行くと緩い丘になっており、その頂点に君臨する宮殿を中心に広がる都市・リノクォルがパスたちの住む地域の名前だ。教会のあるレイググルはその中で最も南にある小さな町だった。大きな川に断絶されほかの町から孤立しており、そこを通り過ぎると工場地域があるため、中央区からは治安の悪い安い娯楽の街として有名だとシアが説明する。


「趣味が悪い人間が多いからかリーデル(奴隷)も多い。そのせいか警察もほとんど動かない街だ」


 アデイラ──この国ではリーデルが特に多く生まれる。また、『魔女の子ども』と由来もなく呼び、奴隷商売が成り立つのもこの島国くらいだった。それが、学校で教わるわけでもなくみんなが了解するこの国の汚点でもある。


「えと、えと、」


 用がないものでめったに触らないコインを数え、財布代わりのポーチから摘まみ上げて運賃箱に入れる。パスはこのレベルの世間知らずなので、電車から降りたあと、ふんと一仕事やり切った顔をした。


「教会って、あれ?」


 太い川を挟んで全く違う街並みを見せるふたつの町を繋ぐ橋の前で、パスは向こう岸すぐに見える屋根に十字架の立った真っ白い建物を指差した。そうだ、とシアが頷きもせずに平坦な声で言う。


「離れるなよ。橋のこちら側は気が緩んでるからスリや強盗に狙われやすい」


「うわぁ」


 冗談とは思えない注意に、パスは兄の隣をぴったりとくっついて橋を渡った。なんとも言えぬ悪臭が鼻につく。これとわかりやすい不快な匂いや、刺激臭、みたいな感じではないけれど、この街の暮らしの粗雑さが見ずとも感じ取れる匂いだった。さいわい教会はとても清潔にされていて、気分が悪くなっていたパスは兄を追い越して喜んで開かれた扉をくぐる。


「──はぐッ、」


 ホールの一番後ろで壁にもたれて立つ男性に、変な声が飛び出す。その声を聞いて振り返り、図らずも視線が合ってしまったその目は、輝くような〝赤色〟。


 パスは思わず彼をじろじろと眺めた。年齢は兄と同じくらいに見える。それより若いと言われても、年上だと言われても頷ける年齢感のわからない童顔はそれでいて隙がなく、敵地と言えるような人の目に触れるところに立ちながらも、余裕がある。

 服装は案外清潔でこざっぱりとしていて、シャツの中に巻かれたアスコットタイと額を覆い隠すようなスカーフが特徴的だ。


 かっ……


 さらに。赤色の捉えどころのない雰囲気は年齢だけでなく、性別にすら一瞬疑いを持たせた。背格好はどう見ても男性なのに、ふとした動きに性別の曖昧な色気がある。

 相手が壁にもたれていたのから体を起こし、パスに用事を訊ねるように軽く首を傾げるのを、パスは釘付けになって見つめていた。


 かっ……か、かわ……?


「ぷえっ」


 次の瞬間、パスはシアに横から顔を掴まれてその場から動き出した。パスの肩を握り潰さんとし、もはや殺気じみたもので威圧してくる兄に背筋を凍らせて大人しく歩きながら、それでも我慢できずに彼を横目に振り返る。

 赤色の彼はにやにやと口元を隠して笑いながらパスの少し前──兄の方だろう──を見ていたが、パスに気づいて男の子に目を合わせた。にっこりと笑い返して右手の人差し指をそっと祭壇の方へ向け、すぐにパスから目を逸らす。


 かっ……


 パスは前を向きながら、目をきらきらと輝かせた。


 格好いいにも程がある、〝赤色の英雄〟様!!


 そんなふうに興奮状態で迎えたミサはその神聖さと新鮮さで、気の逸れた男の子を集中させる効果が充分にあった。座って話を聞いたり、立って話を聞いたりした後、細々と心地よいオルガンの伴奏でラテン語の聖歌が歌われる。ラテン語はすでに学んでいることなのに、また違う側面をもってパスに触れてくるのはとても面白かった。


 ぷつぷつと兄にあれがどうだのこれはなんだだのと小声で喋りかけていると、突然神父がなんちゃらかんちゃらと言って、椅子に座っていた人々がみんな立ち上がって内陣へ向かい始めた。これはなに? とパスがわくわくしながら聞くと、「聖体拝領だ。信者はパンを受け取り、洗礼を受けていないものは祝福を受ける」とシアが答える。好奇心あふれる男の子は「え、じゃあ僕たちも行っていい?」とうずうず腰を浮かせた。


「面倒くさい、僕はわざわざ祝福なんて受けたくない」


 シアはいーっと口を横に引っ張って椅子に余計深く座るので、パスは「じゃあじゃあ向こうでどうしたらいいか教えて?」と兄の腕を引っ張りつつごねた。だだをこねられるのがよっぽど面倒だったらしく、シアが顔をしかめながらとある方向を見て、立ち上がる。


 その先にはオルガンがあり、革張りのスツールに座って聖体拝領の様子を眺めている修道服の女性がいた。シアが立ち上がるのが目の端に見えたというように眉を持ち上げながら二人を振り向いて、シアがパスの肩に手を置いて軽く礼をするのに、にっこりと笑ってこくこく頷く。


「?」


 パスがきょとんと兄と修道女を交互に見ていると、彼女は二人のそばまで来て「ごきげんよう」と二人に挨拶をした。優しく細められた瞳は透き通った水に墨を垂らしたような深みのある黒で、若々しいが細かい皺もあり、三十代半ばくらいか。光の中にいるような透明な雰囲気を持った女性だ。


「すみませんシスター、弟を前まで連れて行ってやってくれますか」


「あなたも行きましょう」


「僕は価値を感じないので」


 シアが無遠慮に断ると、彼女はくすくすと笑った。そこで、シアがパスを振り向いて、彼女を手で指し示す。


「パス、話していた恩人だ。彼女はシスターエヴェル」


「初めまして、パス。つもる話をしたいところですが……」


 パスはついついと手招きされて彼女の隣へ向かった。背中に手を添えられ、シスターエヴェルに導かれるようにして聖体拝領の列のほうへ歩き出す。引き渡しの済んだシアはまたぐったりと椅子に体を預けた。


「とりあえず、歩きながら……今日で十七歳になったそうですね。おめでとうございます」


「ありがとうございます、シスターエヴェル!」パスは声を弾ませて返事した。「ええと、向こうに行ったら、どうしていればいいですか?」


「はい、あなたは洗礼を受けていないので、ご聖体……先頭の方の様子が見えますか?」


 そう言われて、パスは彼女と列の最後尾で立ち止まりつつ、前のほうを覗き込んだ。講壇の前に立っている真っ白い服の神父から、信者がひとつずつなにか受け取っているのが見える。


「あのパンを受け取ることはできません。先頭に立ったら、両手を合わせて、『祝福を』と神父様にお辞儀しなさい」


「ふむふむ」


 パスが手を合わせ、軽く体を傾げてみると、「そうそう」とシスターは頷いた。


「そうしたら、神父様が祝福を授けてくださいます。終わったら横へどいて、そのまま席に戻りなさい。今回はわたくしが付き添いますからね」


 列が進み、すぐにパスの順番が来た。神父の前に歩み出て、パスは教わった通りに「『祝福を』」と伝えた。そうすると、神父が持ち上げていた平たいせんべいのようなものを器に戻し、パスに十字を切る。


「さ、行きましょう」


 いつ終わったのかわからないでいると、シスターエヴェルに背中を押されて慌ててはけた。パスはなんだか不思議な気持ちだった。全然神様に詳しくはないけれど、それでもしわしわした丸い手が自分にかざされると、なんだか温かいものに触れられたような感触がしたのだった。

 男の子は新しい体験をして大満足である。パスはシスターエヴェルに途中まで付き添ってもらい、オルガンの前で彼女と別れた。兄の座る席まで戻りつつ……聖堂の一番後ろにいる、赤色の彼になにげなく目をやる。


「……!」


 見られていたのか、偶然こちらの方向を見ていたのか、ばちんと目が合ってなにかバツの悪い気持ちになった。見慣れない鮮烈な色彩に射すくめられるようで、パスは思わず目を逸らそうとしたけれど、ふと思いついて『いいえ、怖がっていませんよ、あなたたちの味方ですよ~』と念を込めながら一生懸命に見返した。相手は眉を寄せた。


「パス」


「ひゃあ」


 と、そんなことをしていたのがバレて、シアの硬い声が飛んでくる。パスは慌てて席に戻って兄の隣に座った。それからはとっても冷ややかな視線のもと、ミサが終わるまでよい子に座って過ごした。

 その後しばらくして、ミサが終わる。周囲の信者が立ち上がったり談笑を始めたりする中、二人はそれに交じってまだ立ち上がらずにいた。


「先客がいるな、少し待とう」


「先客?」


「シスターエヴェル、こんにちは」


 兄がちらりと振り返った先を見て、パスはその初めて聞く声にくりっと子どものように目を丸くした。


「ええ、こんにちはイーセル。今日も上手にお祈りできましたね」


「……こほん、けほ。兄さん、ちょっと座り疲れたから歩いてきてもいい?」


「……好きにしろ……」


「ご褒美のさくらんぼをあげましょう。いただいたものですから、味わって食べなさい」


 パスはすっくと立ちあがって、大げさにきょろきょろしながら教会の聖堂の中を歩き始めた。カモフラージュにステンドグラスの美しい内陣の方へ行くのも煩わしく、赤色の彼とある修道女の話す隅の方へゆっくり近づく。


 残されたシアはベンチで足を組み、眼鏡の下の目元を押さえて天を仰いだ。


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