薪ストーブが燃え尽きるまで
ぎ、ぎ、と足音が階段を降りてくるのに、エルディアははっと猫の人形から目を上げた。慌てて毛布で目元を拭い、なんでもないような顔でリビングの入り口を振り返る。
「……ん? どうしてまだ起きてる」
それはこっちのセリフだと言い返したかったけれど、それが湿った声になるのはわかっていたから、彼女はなにも言わずにちらちらと炎の揺らめくストーブに向き直った。遅くまで仕事をしていたのか空のグラスを持ったシアは特になにも言わずにその後ろを通ってキッチンへ行く。グラスを洗いながら、まだ起きるつもりなのか同時になにかを火にかけ始めた。その控えめな生活音が気を紛らわせて、エルディアは少し落ち着いた気分になりながら、ぱち、からん、と爆ぜる薪を眺めた。手の中の猫を人に見せては損をするように思えて、隠すように握りこんだ。
甘いミルクの匂いが近くで香ったかと思うと、不意につやっと灯りを返す陶器のマグが炎の中に現れた。彼女の斜め前に屈んだシアがいつもの無表情でエルディアの顔を覗き込む。
「どうした?」
「……、…………」
なんでもなく訊ねる声が今は一番話しやすくて、彼女は小さく首を振りながら差し出されたマグカップを受け取った。
「……こうしてるとすっきりするって、最近気づいただけよ……」
火にあたっていても冷えていた体に、ふわりと柔らかい熱が広がる。まだ彼のことはよくわからない。リーデルを好くパスの影響か、思っていたよりエルディアへの対応はいい、弟至上主義者というだけ。それなら今彼女を気にかける必要はないはずだ。
「……ストーブを勝手につけてごめんなさい」
それでも、自分が弱っていても無関心にされないのだということが耐えられなくなって、彼女はじんわりと目に涙を溜めた。それを嬉しく思う悔しさもあった。
「本当は泣きたくないのよ」
だってそれは、まだ自分は自分を奴隷だと思って切り離せていない証拠だ。
「今までのことは忘れたことにしたいのよ」
思い出しても苦しいだけで、せっかく恵まれた今──ただの普通の生活──もくすんでしまうなら、いっそ割り切って忘れたかった。リーデルになった自分を囲む幼い友達の恐怖に歪んだ顔や手を振り払われたことは、もう過ぎたことだから傷つくのをやめにしたかった。やっと声を取り戻したから、声を出せない間のことはもうずいぶんと前のことにしたかった。
「『今の私は過去の私とは関係ない』って言えるようになりたいの。でもうまくいかなくて、あの子やメイデイさんたちが眩しい……。あの子たちは一目見ただけで過去を勘繰られたりしないし、そうされるのに怯えるような後ろ暗いことなんてひとつもないのよ。赤茶と青緑と黄色は同じだって思ってくれてるけど、けしてそうじゃないの」
声にして吐き出すとまた苦しくなって、彼女はううー、と子どものように素直な嗚咽を漏らした。こんなことをパスが知るのはあんまりにも残酷だから、彼女は誰にも言わないつもりだった。けれど、本当は誰かに聞いてほしかったのだと初めて気づく。
「……お前の境遇に比べればたいしたことのない話だが」
すとん、とシアが改めて床に座り込んで話し出す。
「母親はパスを産んだあと風邪をこじらせて死んだ。弟は別の部屋で寝ていて、僕は母親の世話をしていたけど、目の前で死んだ。それからたくさんの人を頼って、たくさんの人に親なしを同情されたけど、僕はけして『母親を亡くした』傷だけがあるんじゃない。誰にもそれを理解されないまま生きていくんだと思った」
一本調子で語りながら、シアはストーブの中を眺めて自分の分のホットミルクに口をつけた。遠く離れたところから言葉だけ交わしているような、不思議な気配でまた口を開く。
「何年経っても、あのたった一日がなかったらきっと考えもしなかったことを思いついては一から順に恨み直すんだ。だから僕には、忘れようとけじめをつけられるお前が充分眩しく思えるよ。……ずっと、どうして君がそんなにも早く笑えるのか不思議だった」
エルディアはくすんと鼻を鳴らしながらシアを見た。親身なことを言いながら興味もなさそうに火を眺める彼は、しばらくして思い出したように振り返った。彼女は思わず目を逸らす。
「つまりお前はよくやってる。過去に対して結論を急ぐ必要はないし、この話ができるのは僕だけじゃない。もっとお前に似た経験をしてるやつもいるだろう。でも僕に話して気が済むことならなんでも言え」
そう言われて、エルディアは自分の手の中を覗いた。「見て」とガラスの猫を彼に突き出す。
「これをストーブにかざすと燃えてるみたいで綺麗なの」
冗談っぽく言うエルディアに小さく笑って、シアはこくりと頷いた。
「それが一番出来がいい」
「でっしょ~」




