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緑色 2-4

「帰りましたー」


 最近靴擦れをしなくなってきた革靴を脱ぎ、パスは家の中に声を投げた。玄関のすぐ隣の階段を上がり、みっつの扉と階段が行儀よく四角形に配置されているうちの、階段から斜めにある扉がパスの部屋だ。その正面がシア、右隣が元々母親の寝室で、今はエルディアの部屋となっている。

 クローゼットのコートをかけた下にカバンを置いて、パスはいつものくたくたした部屋着に着替えた。きしきしと古い床板を鳴らしながら一階へ向かって、リビングで洗濯物を畳んでいたエルディアを見つける。彼女自身に〈することが欲しいから〉と説得されてしまって、それから掃除や洗濯を分担することになっていた。


「エルディアさん」


 話しかけると、にこりと笑って体のそばに置いている手帳を取る。新しい服を買うときに一緒に買った、ペンと一緒に持ち歩ける仕様のものだ。話すと口の向いた方向が黄色で塗られるその性質上、彼女は筆談しかできなかった。


〈大丈夫だった?〉


「もちろん。大丈夫でしたよ! それで、ちょっとお話があるんです……」


 イーセルは、『インクは制御できるものだ』と話した。実際に〝筆〟──リーデルの顕現自在な持ち物であり、それを振るったりすることでインクを扱う──、イーセルで言うところの赤一色で構成された剣が緩く振られても緑色の芝生が塗り変わらなかったのを見たし、それは簡単にできることのようだった。


「ユクラ山はすでに緑色に塗られていて訓練をしても痕跡が簡単に消せるので、エルディアさんも連れて来たらどうかと誘われているんです」


 シアが帰ってくるまでの一時間ほどしか堂々と内密な話をできないから、パスは時計を見ながら思わず早口にまくし立てた。彼女はしばらく考え込んだあと、手帳を開いてかりかりとペンで紙を引っかく。


〈行く価値はありそうね〉


「ええ! そうでしょう? 僕も、昔みたいにエルディアさんとお話したいなぁー……」


 パスが精いっぱいかわい子ぶって小首を傾げると、エルディアはしかたなさそうに微笑んだ。サムズアップして『了解』の意を表し、もう一度なにかを書き始める。


〈わかった、行くわよ。でも、外を歩くなら首輪は必要〉


「んーっ」


 そういえば、とパスは思わずうなり声を上げた。鎖の繋がった首輪、というのがリーデルが隷属している証であり、主人がいるという表示だ。サーカスにいたときの彼女も、重たくて鍵のさびたそれを首にはめていた。


〈主人のいないリーデルだと思われると、目立っちゃう〉


 彼女の手帳を確認して、パスは「やだやだ」とわめきながらその場に大の字に寝転んだ。ぶつぶつ文句を言いながらしばらく代替案を考え、やっぱり命の恩人に首輪をさせなければ危険な目に合わせるこの世界が悪いというのに着地する。


「マフラーを……して首元を隠してもらえれば、首輪はしなくても大丈夫ですよね? それで怪しんでくる人がいたら、僕が家族ですって言えば……」


 天井を見つめてパスが打診すると、少しして目の前を手帳が遮った。


〈リーデルを庇うとあなたも危険。そもそも隣に人がいて突っかかってくる人は〝おせっかい〟だから、無視して逃げて〉


「……うう~」


 世間知らずを冷静に止めて、エルディアは〈いいから通行許可証をちょうだい!〉とパスの目の前に突き付けた。彼女なりのやり方、と言えばそうなんだろうけれど、パスは納得できなくてもうしばらくごねた。エルディアが折れた。



 結局ユクラ山へ行く日はマフラーを顎の下までぐるぐると巻きつけたものの、山登りの最中は暑くって、エルディアは周囲をきょろきょろしたあと少しマフラーを緩めた。森の中らしいすっきりとした新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで、緑色のインクは植物の空気穴を塞いでしまわないのかと考える。


 なめらかな肌触りのいいマフラーに、彼女は改めて自分が身に纏うチェック柄のスカートを見下ろした。金持ちの人形として買われると飾り立てられることもあるそうだけれど、身綺麗なリーデルというのはめったにいない。しかし、エルディアもほかのリーデルの様子というのは詳しいわけではなかった。もっとも同類を見かけたのは奴隷商の檻にいたときだ。十二年のうちに二、三度商品に戻ったけれど、一番多いときはむっつある檻が全て埋まって、ひそひそと情報交換が行われていた。けれどそこから出るととたんに世界が小さくなって、決まった人、決まったことしか見られなくなる。


「こっちです、エルディアさん」


 パスが言って、獣道のような細い道に入る。彼女は服のすそに緑色が擦れるのにためらいながら森の中へ入ったが、すぐに目の前に現れた小動物や花の彫刻に目を奪われた。すでに木に飲み込まれかけているものも、まだ新しいのだろうとびきり精巧なものもみんなギャラリーに飾ってあってもおかしくないのに、くっついた木にとどまって気ままそうにしている。


 しばらく斜面を登ると、やがて開けたところに出た。ここが目的地らしい。


「イーセルさん!」


 パスが声をかけると、小屋の周辺の台所でなにか作っている赤髪が振り返って、小さな小屋の屋根に伸びていた人影に呼びかけるのが見えた。平たい円錐形の笠をかぶった人影も体を起こし、身軽そうに地面に降りる。


「こんにちは、パス。それからエルディアだな」


 イーセルは二言目に、水はいるかと二人に勧めた。でこぼこしたふたつの小鍋のうちの片方、湯冷ましを山小屋から引っ張り出してきたカップに入れて差し出す。パスは飛びつくようにそれを受け取って、片方に口をつけながらエルディアにもカップを渡した。


「……女だ」


 緑色のリーデルがパスの肩越しにエルディアの顔を覗き込んで、感慨深そうに言う。それから男の子の肩を揺すり、なにかをポケットから取り出させて上機嫌にそれを取り上げた。そうするとイーセルのそばから小鍋のもう片方を持ってすぐに小屋の中へ入っていく。


「……?」


 エルディアが首を傾げて目の前で行われた怪しい取引に困惑していると、パスが「ビアーさんの場所を借りるので、僕がお礼を渡したいと言ったんです」と満足そうにしながら言った。「そしたら、紅茶が飲みたいとのことだったので、紅茶缶を」


「俺は水を汲んで沸かせと言われた」


 石のかまどにもたれかかりながらイーセルがカップを傾けて、エルディアににこりと笑いかけた。


「声は出るか?」


 そう言われて、エルディアは誰もいない方向に顔を背けて「ええ」と小さな声を出した。パスがぱあっと表情を明るくして、「よかった」と独り言のように言う。


「次に、パス。リーデルは奴隷商に捕まったら何をされるか知っているか?」


「ええと……」まるで家畜に使うような言葉に、パスは口ごもった。「……ぼ、僕は言いたくありません」


 イーセルは構わないというように軽く笑みを浮かべた。


「調教。リーデルの武器になってしまう『筆』を使えなくするために、筆を出せばひどい目に合うと躾けるんだ」


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