第三話 せめてこの世界で、貴女と生きていけたならば
あ、深呼吸忘れてた。ひっひっ——
「エヴァンぼっちゃま」
——ひゅっ。
「うぇへっ、げほっ、かはっ!」
「ぼ、ぼっちゃま——?」
初対面(いやエヴァンとしては初対面じゃないけど)からむせてしまった。
涙でにじんだ視界には、一見すると無表情ながら、どこか戸惑いを隠しきれていないメイド見習いの少女。
窓から差し込む陽の光を受けてきらきらと煌めく蒼く長い髪。清涼感すら感じさせる色をしたその髪は、人々の視線を捉えて離さない蜘蛛の糸。
顔に宿した瞳という名の二つの宝石は、紫とも灰色ともつかなくて。つかみどころがない本人の性格を象徴している。
ずっと見てみたいと思っていた。話してみたいと願っていた。そんな存在が、知っているより遙かに幼い姿でそこにいる。
鋭く全てを見透かすようだった目つきは、今はまだ柔らかくて。内に秘めた彼女の愛情深さを感じさせる。
女性らしさを十分に表していた肢体は、今はまだ未成熟で。触れれば壊れてしまいそうな、けれど抱きしめたくなるような繊細さがある。
そして冷徹かつ冷静に発せられる透き通った声は、今はまだ甘やかで。幼さと共に、彼女が真に「私」を心配していることが伝わってくる。
……なんだこの天使。
「あの……大丈夫、ですか?」
おっと、呆けている場合じゃない。
彼女からすれば主人がひとしきりむせたと思ったら真顔で自分を見つめてきてるわけで。普通にまぁまぁ意味不明な状況ですね。説明責任を果たさねば。
いや、そんな理屈じみた考えはどうでもいいか。
わたしは今、この天使に、話しかけられているんだ!
さぁ、質問に答えるぞぅ!
「あ、ひゃい大丈夫でしゅ!」
——時が止まる。
全然、大丈夫では、ない。
あぁうん。やらかしました。めっちゃやらかしました。どうしたらいいんですかねこの空気。穴掘って埋まってたい。ていうか誰かわたしを埋めてください。
「エヴァンぼっちゃま、やはり頭を打った影響が……」
あぁー心配されてるぅ―。さっきのとは別の方向性で心配されてるぅ―。頭おかしくなったって思われてるぅ―。いや別にあながち間違いでもないんですけど。
でもこれ、どうするのが正解なんだろう。前世の記憶を取り戻したって素直に話すべき? 話すにしてもこの世界をゲームとして知っているってことまで説明する? ラノベだったらまずは秘密にするよね。それにどこまでこの世界がゲームと同じなのかもわからないし、混乱は避けた方が良いかも。あっでもわたし嘘つくの苦手! 嘘つくたびに親に生暖かい眼で見られた記憶がある!
あわわわわわいったいどうすれば。
パニックになっていると、いつの間にやら二つの宝石が近づいてきてこちらを見つめていた。
ふぁさりと、下ろした長い髪が揺れる。
「あの、ぼっちゃま。私のことはわかりますか?」
——正直言うと、複雑なんです。
わたしは、あの何気なくいつも通りに寝転がって、ゲームして、ご飯を食べて、眠りに落ちた日のことを。堕ちてしまった日のことを、昨日のことのように覚えている。
でもあれは昨日じゃなくて、9年以上前の「わたし」の記憶で、最後の日で。眠る前に両親に会えなかったことは、やっぱりどうしたって心残りだしぐるぐると私の中で渦巻いている。
それでも、わたしが今楽しもうって思えているのは。
よりにもよってエヴァンとかいう、何考えてるんですか神様、みたいなキャスティングに文句はありながらも前向きな気持ちでいられるのは。
憧れていたこの世界で生きていけるからで。
憧れていたあなたと生きていけるからで。
つまりは。
「うん。わかるよ——シャノンさん」
【シャノン・ルークラフト】
《フィッツジェラルド家でメイドとして勤める。フィッツジェラルド兄妹の兄、エヴァンと同い年ではあるものの、基本的には妹のエステルのお付きをしている。》
直接あなたの名前を呼べることが、いったいどれだけ嬉しいことか。
「ぼっちゃまがさん付けを……? やはりあた、いえ、どこかおかしいのでは」
あぁぁぁこの言い回し! やっぱり! 今頭おかしいって言おうとしましたよね! 幼くてもシャノンさんはシャノンさんなんだなぁ。この毒が好きなんだよなぁ。
いえいえ決してわたしはMなどではありませんが? 綺麗な顔してなんでもないことのようにサラッと毒を吐く子が大好きなだけですけど?
というかその首こてんってやるの、ずるくないでしょうか。口元にね、こう手を持ってきてね、首をこてんってするの。可愛い子がやるから許されるムーブ。で、シャノンさんはもう疑う余地なんてまるで残ってない可愛い子なわけで。
はー惚れる。
「ぼっちゃま、昨日のことは覚えてらっしゃいますか?」
え、なに? 生シャノンさんの刺激が強すぎてトリップしてた。いかんいかん、折角の推しとの会話イベントをもっと大事にしないと。
で、昨日。「私」にとっての昨日。
記憶を手繰る。
あれ、昨日って——
昨日の「私」、エヴァン・フィッツジェラルドは、生まれて初めて魔法の授業を受けました。
魔法というものに初めて自分の力で触れられる! そんなドキドキやワクワクがあったことを、わたしは確かに覚えています。
しかも昨日までの「私」は9歳の男の子。女の子として生きた十数年の記憶なんて、「私」の中にはありませんでした。
ここで「私」の昨日の発言を振り返ってみましょう。
「ふんっ、私は天才なんだ! だから魔法だって簡単に使えるに決まっているだろう?」
あぁぁああああぁぁいたい。
ものっっっっっ——すごくいたい。
そう、これが「エヴァン・フィッツジェラルド」です。昨日までの「私」です。信じたくなんてないけれど。さっきわたしの記憶が戻るまで、「私」はこんな感じでした。
で、こんな感じの結果なんですが。
「うわぁぁぁぁあ!」
はい、お察しですね。
クソガキがやることなんてだいたいそういうことです。
教えられてもいないことを調子に乗ってやって大・爆・発☆
先生が魔法で守ってくれて重症にはならなかったものの、頭を打ったせいか、はたまた心理的なショックによるものか、今の今まで寝込んでいた——と。
そしてもひとつおまけに前世の記憶を取り戻した——と。
うん、おまけってレベルじゃないですね。むしろ記憶を取り戻したせいで負荷がかかって寝込んでたのでは? まぁ結果は変わらないしどうでもいいけど。
とにかく。
「えっと、初めての魔法の授業で調子に乗って大暴走して大爆発かましました……?」
「はい、客観的でよろしいかと思います」
「ありがとうございます……」
嬉しくない、嬉しくないよ!
そらそうだよ今のわたしにとっては他人事みたいなものだもん。というか、他人事ということにしておきたい。できることなら、記憶を取り戻すまでの「私」が、あぁもしっかり「エヴァン」だったって事実を認めたくない。客観的にもなろうものです。
しかして改めて何気なく自分の身体を見ると、握りしめた右の拳の小さいこと。少年のそれでしかなくて。……現実は厳しい。
「でも、記憶はしっかりされているのですね、お医者様が頭を強く打っているので何か異常が出るかもしれないとおっしゃっていましたが」
「うん、記憶を失ってたりはないです」
むしろ取り戻しました。なんてことは言えません。
「身体の方も特に影響はございませんか」
腕をぐるぐると回してみる。
足をバタバタとさせてみる。
これといった不具合もなく自由に動かせます。
「……特に問題ないようですね」
「もーまんた、ごほん、大丈夫です」
無問題とか言っても通じないですよね。
「もーまん?」
「ごめん、シャノンさんは気にしないで……」
そしてここで表情が凍りついたシャノンさん。
元々表情が出づらい方ではある子だけどこれは凍りついています。シャノンさんの立ち絵差分を幾度となく見まくってきたわたしだからわかる。幼くなっててわたしの知ってるシャノンさんじゃなくてもわかる。
だってその分は「私」が、シャノンさんを見てきたから。
「ぼっちゃまが、謝罪を——!」
そこに驚いてたんですね。どんだけだエヴァン。いや昨日までの「私」は事実そういう奴だったわけですが。
「ぼっちゃま、やはり頭のほうに何か良くないことが——いえ、ぼっちゃまが常識的になられたならばそれは良いこと?」
混乱してらっしゃる。
「私のことも『さん付け』されてますし、さっきはもーまん? とか仰ってましたし……」
もーまんは忘れてください。
「とりあえず良いこと、とゆーことにしといて……」
「『とりあえず良いこと』、ですね。了解しました」
記憶を取り戻したことが、「私」にとって良いことかは正直わからないけれど。
それでもわたしや、エヴァンの被害に遭う人達にとっては、とりあえず悪いことではないだろう。
きっと。
「それで、シャノンさんは『私』の様子を見にきてくれたの?」
そう話を振ると、シャノンさんは思い出したような顔をした。
「あっ、えぇ、はい。おか——メイド長から申しつかりまして」
メイド長というのはシャノンさんのお母さんでもある。シャノンさんが今「私」やエステル付きのメイド(見習いだけど)であるように、元はフィッツジェラルド家の令嬢、つまりは「私」のお母様付きのメイドだった。
その親同士の関係性が、そのまま子供達に受け継がれているというわけ。
それはそうとして思わずお母さんって言いそうになるシャノンさんに萌え死んでしまう。
「エヴァン様のご様子を確認し、もし目を覚まされていれば昨日の件について説明をするように、と」
「あーうん、昨日の件はもう大丈夫です。ちゃんと覚えてます。できれば記憶から消し去りたいけど無理っぽいからせめて触れないで……」
心の傷口が開いちゃう。
「はい、承知いたしました。では最後にご連絡だけさせていただきますね」
ご連絡。はいはいなんでしょう。
「昨日の件で家庭教師の方が、自分の『かんとくふいきとどき』であって、責任を取って辞職させていただきたいと——」
監督不行届、ですね。うん、可愛い。本当可愛い。
大人のシャノンさんだったらスラスラっと言えちゃうんだろうけどね。うん、ロリっていいなぁ。
……やっべ、今のは危険な思考だった。
アレですよ? 別にわたしはロリコンではありませんですよ? こうね、あくまでもわたしは「シャノンさん」が好きなのであって。その上でロリであることによって見える新たな一面もこれはこれでいいなぁと、そう噛みしめていたわけでして——ってちょっと待って今なんて言った?
「ごめん待ってシャノンさん今なんて?」
「えっと、昨日の先生が辞職なさりたいということで、って、ぼっちゃま!?」
ごめん、シャノンさん、これは無意識だ。急にガバッてベッドから起き上がって手を握られたらびっくりするよね。
いや初めて推しに触れるのが無意識で、なんてのはわたしとしてもちょっと勿体無い気がしてる。
どうせならちゃんとこうね、意を決して触れたかった。心構えもなしに触れるとか、どうよわたし。でも「私」にとってシャノンさんは、それができる距離感だったんだね。スカートめくりとかもしちゃってるわけですし。
と、そんなことは今はいいのです。
聞き逃せないことがあった。
そこだけは聞き逃したらいけなかった。
「シャノンさん、その家庭教師さん、絶対に辞めさせちゃダメです!」
「——はい?」
これはフラグだ。
運命というルートの分岐点だ。
ゲームにおけるエヴァンがあぁなった理由の一つは、きっと「彼」を手放したこと。
逃がしてなるものか。
ここから全てを覆すんだ。
貴方には協力してもらいますよ、未来の学園長——!
というわけでヒロイン登場回です。
淑やかなタイトルですがただ梓が荒ぶっているだけのお話となります。