3.こんなにも思い返してしまう人は
「今日の『お散歩』はいかがでしたか?」
夕食が終わった後、客室に戻ってからニコラは、心ここにあらずといった態で窓の外に顔を向けているアレクサンドルに訊ねた。
「……もう一度、会いたい。
今度は二人きりで」
「は!?」
ぼそっと呟かれた言葉に、ニコラはたまげた。
「いやいやいやいやいや……二人きりはないでしょう!?
小宮殿の侍女と少し話しましたが、レディ・クリスティーヌは皇太后陛下と周囲の者達にものすごく大事にされているようでしたよ?
めっちゃくちゃに釘を刺されましたから」
「彼女と一緒にいると、心が凪いで心地よいのだ。
それがなぜだかわからないのが気にかかる。
……声が良いからなのか?
いやそれだけではない」
ニコラの言葉が聴こえているのかいないのか、アレクサンドルは呟く。
「え。
魅了持ちとかそういうことではなく?」
まさかとアレクサンドルは眉を顰め、首元のチェーンを引っ張って、常に身につけている王家の守り石を見せた。
守り石は、王族が15歳になったら自分で魔石を磨いて造るもので、魔力による干渉があれば曇ったり割れたりすると言われている。
細長いロケットに嵌め込まれた、アレクサンドルの瞳と同じく空色の石に曇りは一点もなかった。
「ニコラ。
なんとかならないものか」
熱を帯びた声で、アレクサンドルはニコラに訴える。
「いやいやいやいや……
ただの侍女くらいならとにかく、そんな交渉は秘書官の分を超えてますって!
あるとしたら殿下ご自身が、皇太后陛下に直球で乞う、それしかないんじゃないですか?
どこの蛮人かと思われそうですが」
「そうだな。
こうなっては気持ちを包まずお伝えするより道はない。
皇太后陛下に手紙を書こう。
明日の朝、一番で届けてくれ」
「はいい!?
私の言っていること、聴こえています!?」
聴こえている聴こえているとアレクサンドルはうっとうしそうに手を振ると、さっそく手紙を書き始めた。
予定された議案を少し修正した共同宣言を発表して、無事に会議が終わった後──
今度は、皇宮の別の庭をクリスティーヌに案内してもらうという名目で、2人は逢った。
アレクサンドルの希望通りとはいかなかったが、散策する間、護衛は会話が聴こえぬ距離を保ち、アレクサンドルは人の耳を気にせず話をすることができた。
「あの方を娶りたい」
客間に戻って2人になった途端、アレクサンドルが口にした言葉に、ニコラは仏頂面になった。
「そう来るだろうとは思ってましたが……
ですが、殿下よりも5歳年上で、庶出の皇女、書類上は貴族の養女という方ですよ。
少々、難しくはないですか?
それにレディ・クリスティーヌを嫁がせる気があるなら、とっくの昔に皇太后陛下が良縁を探して嫁がせていたでしょう。
手元から離す気がないのではないですか?」
レディ・クリスティーヌは、王弟という立場にある自分にとって、望ましい結婚相手ではない。
一方、皇太后の愛着が深すぎるのか、レディ・クリスティーヌは結婚から遠ざけられているようだ。
「……それはそうなんだが」
二重の意味で難しい縁だということは、アレクサンドルもわかっている。
肘掛け椅子に座ると、鼻から下を両手で覆って、深々と吐息をついた。
ニコラは呆れ顔で、強い酒を小さなグラスにどぼりと注いで持ってくる。
「今日は、ルイーゼの話をした」
ルイーゼとは、アレクサンドルの最初の妻である。
アレクサンドルが14歳の時に婚約し、21歳で結婚したルイーゼは、結婚の3年後、最初の出産で母子ともに儚くなってしまった。
産声をあげなかった赤ん坊は女児だった。
アレクサンドルとルイーゼは、熱烈な恋に落ちていたとは言えないかもしれないが、互いに深く理解し、慈しみあう仲だった。
ルイーゼは健康で、妊娠中も大過なかっただけに、アレクサンドルのショックは大きかった。
「そうなんですか……」
その頃のアレクサンドルの憔悴ぶりを思い出したのか、ニコラは眼を伏せる。
「……あの方は『おいたわしい』と言ってくれた。
生き残ってしまった私の辛さだけではなく、ルイーゼの無念、ただ一度息をすることも叶わなかった私達の娘の運命の哀しさ、ルイーゼの家族、私の家族、親しい者たちなど周囲の思い……
諸々をひっくるめていたわってくれるような言い方だった」
アレクサンドルは酒を喉に放り込むように呷った。
「……それから、ソフィアの話もした」
「ええええ!?」
ソフィアというのは二番目の妻である。
「気がついたら、洗いざらいぶちまけていた」
アレクサンドルの様子を心配した周囲は、17歳の侯爵令嬢ソフィアとなかば無理やり結婚させた。
ルイーゼとの死別後、一年も経っていない時期にだ。
ソフィアは、アレクサンドルの子供時代からの友人であるヴィクトルの妹だった。
だが、アレクサンドルとソフィアは最初から巧く行かなかった。
ソフィアはどういうわけか、アレクサンドルに妙に高飛車で、棘のある言葉をしばしば吐いた。
まだルイーゼと失った娘のことが忘れられないアレクサンドルは次第にソフィアを避けるようになり、軍務を口実に王都を離れ、どうしても王都に帰らなければならない時は、士官倶楽部に泊まるようなことまでした。
ある日、家宰のジーヴスが駐屯地に会いに来て、至急、王都の館に戻るよう懇願してきた。
先触れなしに戻ると、ソフィアは慌てて身を隠そうとしたが、その腹は人目につくほどはっきり膨らんでいた。
アレクサンドルはその場で吐いた。
即座に、アレクサンドルは侯爵とヴィクトルを館に呼びつけた。
このまま子が産まれれば、アレクサンドルの子ということになってしまう。
だが、王家の血を引かぬ不義の子を王族に加えることは許されない。
自分がソフィアをこの場で斬り殺し、出頭してなぜソフィアを殺したのか公表するか、この場で離別するか、どちらかを選べと突きつけられた侯爵は、当然離別を選んだ。
離別の理由は、ソフィアが回復不能な精神病を発症したからということになった。
いまだにソフィアは、精神病院の閉鎖病棟に入れられたままだ。
少なくともアレクサンドルが生きているうちは、侯爵家が出すことはないだろう。
子がどうなったのか、そもそも父親が誰だったのか、アレクサンドルは知らない。
後に、ヴィクトルが二枚舌を使い、ソフィアにはアレクサンドルがソフィアと結婚したがっていると言い、王家にはソフィアが昔からアレクサンドルを陰ながら慕っていたと嘘をついたことがわかった。
悲しみから抜け出せないアレクサンドルを助けたいという善意もあったと思いたいが、王族と姻戚関係を結んで利とする下心があったのは間違いない。
ソフィアには秘密の恋人がいたのに、兄に説き伏せられてしぶしぶ花嫁になり、その結果、最悪の事態を招いたのだ。
ヴィクトルは侯爵家から放逐された。
アレクサンドルは、二度目の妻と長年の友人を失った。
「それは……
レディ・クリスティーヌにお話するようなことでしょうか」
ニコラは困惑した顔で、もごもごと言った。
クリスティーヌも要は不義の末、産まれた子である。
そうだよなと、アレクサンドルはうなだれた。
「なんというか……
私という人間がどういう人間なのか、わかってほしいという欲が出てしまったのだ」
ニコラは微妙な顔をした。
「あの方には『毒』がない。
自分を人に良く見せようと、衒うところもまったくない。
まっすぐに見て、まっすぐに受け止め、そのまま言葉にする方だ。
私の昔をどう受け止められるのだろうと、ついお話してしまった」
「はぁ……
で、どうおっしゃったんですか?」
「『恐ろしいことです』と。
私は、自分があんなことができる人間だと思っていなかった。
ソフィアも、嫁いできた時はそうだったのだろう。
確かに、恐ろしいことだ」
自嘲するような笑みをアレクサンドルは浮かべて、グラスを突き出した。
黙ったまま、ニコラは酒を注ぐ。
さすがに言えなかったが、自分は実際に抜刀し、へたりこんで失神寸前のソフィアの首筋に突きつけることまでしたのだ。
恐れ慄く侯爵とヴィクトルを小突き回し、言わなくてもいいことまで口にしてしまった。
生まれて初めて知った、怒りにまかせて暴力で人を支配する快楽に負けて、止められなくなってしまったのだ。
ジーヴスが巧く鎮めてくれなかったら、実際に誰かを傷つけ、自分が流した血に逆上して妻や舅を殺していたかもしれない。
その言えなかったことも察した上での「恐ろしいことです」という言葉であったように、アレクサンドルは感じた。
「まあ、確かにそうですが……
それにしても、お会いして2度目でそういう話をしたら、振られますよ普通」
ニコラは苦い顔で言った。
そうだよなと、アレクサンドルはさらに深くうなだれた。
「で、どうするんですか。
あと4日で出立じゃないですか」
「……どうしようもないだろう。
帰るまでに、皇太后陛下にご挨拶に上がれられれば、非礼の詫びと、感謝を伝える機会もあるかもしれないが」
はーっとニコラはため息をついた。
「それくらいなら、私の方でなんとか交渉しておきます。
あまり期待しないでほしいですが」