2.ただ一度きり触れただけなのに
翌日、アレクサンドルは、昼餐の席に現れたアマーリエ皇太后の付添として甲斐甲斐しく動き回るクリスティーヌを認めた。
80歳を超えているアマーリエ皇太后は、近年足腰が衰えたとかで車椅子を使って移動している。
小柄な身体がますます小さくなっている皇太后が居心地よく過ごせるよう、また客人が気を使わなくてよいように、クリスティーヌは立ち働いていた。
夜会で出会った婦人と昼に再会して興が醒めることもあるが、陽の光の下でも、クリスティーヌは美しかった。
珍しい、赤みがかったブロンドをきっちりと結い、化粧はごく薄い。
そばかすが愛らしく散っている。
瞳は深い緑。
肌には艶があるが、目尻には笑い皺があり、微笑むと穏やかな雰囲気がさらに柔らかくなった。
こうしてみると、アレクサンドルと同世代なのかもしれない。
「……あの女性は、どういう方なのだろうか」
自分の接遇を担当しているウィノウの文官にそっと訊ねる。
文官はクリスティーヌの方を見ずに、詳しくは後ほど、と言葉を濁した。
午後の会議の後、自室にいったん戻ったところで改めて訊ねると、文官はしぶしぶ口を開いた。
婉曲に婉曲に語られたことをまとめると、クリスティーヌは皇族の庶子である。
誰の子かは公表されていないが、今は亡き先代皇帝と名もなき踊り子かなにかの子であるらしい。
この国の先代皇帝といえば謹厳実直な人柄で知られているので意外ではあったが、ままあることではある。
年は40歳になったばかり。
5歳も上と知って、アレクサンドルは驚いた。
幼少の頃から皇太后の膝下で育ち、成人してからは「皇太后の話し相手」として侍女ともなにともつかぬ形で宮廷で暮らしているとのことだった。
ド・ロズレーを名乗っているのは、先代皇帝の側近が養女にしたためだそうだ。
「なるほど。
そういうことか」
クリスティーヌの挙措は美しく、ビエト語も、自分のぎこちないウィノウ語よりはるかに洗練されていた。
ウィノウとビエト2国の関係自体は、離れていることもあってそれほど深くはない。
アレクサンドルにしても、ウィノウを訪れたのは初めてだ。
ウィノウの者が最初の外国語としてビエト語を習うはずはなく、おそらく4ヶ国語か5ヶ国語、同じくらい流暢に操るのだろう。
つまり、皇族に準ずる教養を身につけているということだ。
だが、彼女は舞踏会には出ても、宝飾品の類は簡素なものしか身に着けておらず、客人達に紹介されはしない。
顔立ちは美しいが、万事控えめに振る舞うために目立たない。
どこか謎めいた女性だと感じていたのは、そういう事情から来ていたのだ。
「レディ・クリスティーヌがどうかされましたか?」
文官が遠慮しながら訊ねる。
「なにも。
昨夜、少し言葉をかわして、18年前に同じ夜会に出ていたことがわかったのだ」
40歳かと考え込みながら、アレクサンドルは答える。
もう少し若ければ、と一瞬脳裏によぎって、今更そんな思いがよぎった自分に戸惑った。
不審そうにこちらを見ている文官に、眼を合わせる。
「いずれにしても、もう少しレディ・クリスティーヌと話してみたい。
可能だろうか?」
え、と文官が視線を泳がせた。
同席していたアレクサンドルの秘書官ニコラも驚いて目を剥く。
「皇太后陛下のご意向次第ではありますが……
なにしろずっと、男性と関わらないようにされている方ですので」
文官は難色を示した。
母の出自が低い庶出の皇女とはいえ、わざわざ貴族の身分を与え、宮中に留めているのだ。
そこまでするなら、良縁を探して嫁がせてもおかしくない。
「男性と関わらないようにされている」とは、なにか事情があるのだろうか。
「庭を少し、案内してもらう程度でかまわない。
私が『是非に』と望んでいるとお伝えいただきたい」
「……承りました」
文官が下がった後、秘書官のニコラがずいっとアレクサンドルの顔を覗き込んできた。
「どうされたのですか、閣下」
不躾な視線をアレクサンドルは避ける。
最初の妻は亡くし、二度目の妻とは早々に離別してからもう6年経つが、アレクサンドルに浮いた話はない。
アレクサンドルは末っ子の四男である。
兄弟の仲は良く、国王である長兄にも、次兄三兄にも次代を支える子どもたちがいる。
もう独身のままで良いと、自分も周りも諦めているところがあった。
「いや? どうもしない。
もう少し、話してみたいだけだ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
3日後の午後、昼餐の後に設けられた中休みに、ようやくアレクサンドルの願いはかなった。
皇太后から茶会に招待されたのだ。
皇太后は、皇宮の外れにある小さな宮殿で隠居している。
ニコラを伴って小宮殿を訪れたアレクサンドルは、まず皇太后に挨拶をして、鳩羽色のデイドレスを着たクリスティーヌに庭園を案内してもらった。
さすがに2人きりではなく、後ろに護衛騎士が付かず離れずでついてくる。
皇太后の宮殿の近辺の庭は、自然に任せた風に見せているが、実際は巡る者の感覚を深く揺り動かすような、精緻な設計になっていた。
歌劇の話などをしながら、ゆるやかな斜面を弧を描くように、ほの暗い木立を下っていくと、睡蓮が花咲こうとしている池の水際に出る。
風が吹くと、地を掃くほどに柔らかな枝を伸ばしたウィローの大樹が水面に映っている。
静けさが妙に心地よかった。
やがてウィローの枝に小鳥達が遊びに来る。
しなやかな枝に掴まって鳴き交わす、色鮮やかな小鳥の名をクリスティーヌは教えてくれた。
アレクサンドルは最初は軍人、後に外交の道を選んだが、学生の頃は建築に興味があった。
母国の有名な建築物や庭は幾度も訪れているし、他国に赴く時も、優れた城や庭があると聞くと遠回りしてでも立ち寄っている。
この庭も名だたる造園家の作品であろうと訊ねると、皇太后とクリスティーヌが2人で少しずつ整備して、10年かけてこの姿にしたと聞いて驚いた。
ここに移ることになった時、クリスティーヌが小宮殿周辺の精密な模型をまず作り、遊歩道はどう巡らせるべきか、どこになにを植え足すべきか2人で試行錯誤したのだそうだ。
池とした湧き水とウィローだけは最初からあったが、池の形もだいぶ変えたという。
風が吹くとさざなみが立ちやすいよう、池の大部分はあえて浅くしているそうだ。
衒うことなく、苦心した点を語るクリスティーヌの声は耳に心地よく、ずっと聴いていたくなるほどだった。
「そんなに手をかけられた庭に降りられなくなったとは、皇太后陛下がお気の毒ですね」
車椅子では遊歩道を下るのも登るのも難しかろうと、アレクサンドルは同情した。
ゆるやかではあるとはいえ、曲がりくねった坂道では輿も事故が怖いし、騎士に抱きかかえられてというのも庭を楽しむには不向きだろう。
皇太后という立場の方を背負うわけにもいかない。
クリスティーヌは、そうなんですと眉尻を下げた。
「ですから、今後は車椅子で御覧いただける範囲で、なにか楽しんでいただければと思うのですが。
季節の移り変わりを楽しむには、このあたりは常緑樹ばかりで変化に乏しくて。
花の寄植えを植え替えてという手のかけ方は陛下のお好みではないので、どうしたものかと悩んでいるのです」
「ううむ。
低木か灌木でなにか花が咲くもの、香りが良いもの、そのあたりを、車椅子からご覧になる視線の高さに合わせて植える……
と言っても、ちょうどよい樹形のものを探すのが難しそうですね」
身体の悪い者が楽しめる庭など、考えたこともなかった。
視線がだいぶ低くなる分、低く低く作らなければならないことくらいは想像がつく。
良い知恵を思いつかぬまま苦し紛れに言ってみると、クリスティーヌはぱっと顔を明るくした。
「ああ、そういえばガーデニアの木が少し離れたところにあります。
かなり育っていますし、斜面に植えて樹冠だけ見えるようにするのがいいのかしら……」
クリスティーヌは、眼を伏せて一心に考え込む。
妙に無防備で、アレクサンドルはつい、その頬に手を伸ばしかけてかろうじて思いとどまった。