1.今もあなたの声が胸から離れない
Unforgettable (Duet with Nat King Cole)
https://www.youtube.com/watch?v=MKCyUe4syc4
※文中の歌詞は、この曲の訳詞ではなくオリジナルです
ある初夏の夜──
大陸南部にある聖ウィノウ皇国は、近隣の国々の代表を集めて開催された国際会議のレセプションとして、「薔薇宮」と呼ばれる瀟洒な宮殿で、大舞踏会を催していた。
ドレスと宝飾品で着飾った淑女達。
テールコートの胸にここぞとばかりに勲章を飾った紳士達。
浮き立つようなワルツと、金色に泡立つ酒。
ビエト王国特使であるバイルシュタイン公爵、王弟アレクサンドルは、一通り挨拶を終わらせると、少し疲れを覚えた。
舞踏用のホールは広壮なものであったが、人いきれにシャンデリアにゆらめく無数の炎でいささか蒸し暑すぎる。
涼し気な夜の空気に誘われて、アレクサンドルは細長いグラスを手に露台へと出た。
宮殿の2階をぐるりと囲む露台には、若い恋人達が幾組も、互いの邪魔にならないように距離を置いて欄干にもたれ、語り合っている。
身長が高く、鍛え上げたアレクサンドルは意図しなくとも周囲を威圧してしまいがちだ。
彼らの邪魔をせぬように、そっと歩むうちにアレクサンドルは宮殿の裏手へと出た。
高台にある宮殿の裏手からは、木立の間に、月の光で銀色に輝く海が見える。
内陸の国で育った自分が、初めて海を見た少年の日のことを思い出しながら、アレクサンドルは欄干にもたれ、喉を少し潤した。
あれは、17歳の時だから、もう20年近く前のことになるのか。
今は亡き母に連れられて、伯母が嫁いだ海辺の国カザルを訪ねた。
黒い艷やかな髪、濃い色の瞳、褐色の肌の者が多いその地では、淡い金髪に空色の瞳を持つ自分は随分珍しがられた。
夜会では、扇で口元を隠した娘達に視線をやたら送られて、必死で貴公子らしい顔を作りながらワルツに誘った覚えがある。
確か、あの夜だ。
不思議なことがあったのは。
夜半、さすがに疲れて、ふらふらっと庭へと出た。
ところどころ篝火が焚かれてはいるが、暗い庭をさまよい歩く。
なんの花の香りなのか、嗅ぎ慣れない甘ったるい匂いがしたのを覚えている。
しっとりした夜の空気は濃く、手で触れられそうなほどだった。
そこでアレクサンドルは、当時流行っていた歌劇の曲を何の気なしに口ずさんだ。
さほど大きな声ではなかったつもりだ。
だがそれに、女の声で唱和する者がいたのだ。
少ししゃがれた、深みのある声で、互いに姿が見えぬまま、ひとしきり共に歌った。
曲が終わると、そのまま声は絶えた。
アレクサンドルは近くにいるはずの歌い手を探したのだが、いくら探しても誰もいなかった。
その後、カザルの令嬢達に訊ねても、自分だと言う者はおらず、南国の森に棲むという精霊にでも化かされたのかと思ったほどだったが──
ああそうだ、あの曲だ。
その時歌った曲を思い出したアレクサンドルは、思わず歌い出した。
──忘れがたき人よ
──今もあなたの声が胸から離れない
──忘れがたき人よ
──あなたはいずこの空の下にいるのだろう
あの頃よりも低くなった声で口ずさむと、不意に女の声が入ってきた。
──忘れがたき人よ
──ただ一度きり触れただけなのに、いつまでも忘れられない
あの時の声と同じく、少ししゃがれた声だ。
まさか、あの時の女なのだろうか。
そんなことがありえるのだろうか。
20年近い時が経っている、
場所も、同じ海に面しているとはいえ、国一つ挟んだ距離だ。
アレクサンドルは動揺しながら、続く節を女の声と共に歌った。
──忘れがたき人よ
──こんなにも思い返してしまう人は、この生涯、あなたただ一人
歌劇ではここで別の役の台詞が入り、歌は一度途切れる。
あの時はたしか、そこは適当にハミングでつないで共に続きを歌い、歌い終えてから相手を探したら見つからなかったのだ。
だが、今度こそ、誰が歌っているのか知りたい。
必死で庭のあちこちを見やるアレクサンドルの眼下、花壇に囲まれた芝生に、白っぽいシュミーズドレスを着た婦人が露台の下から現れた。
手を庇にして、まばゆげにこちらを見上げている。
「ご婦人!
今、歌を歌われましたか?」
「……はい」
少ししゃがれた穏やかな声で、婦人は答えた。
「しばし、そこを動かないでください。
すぐに向かいます」
「……はい」
よし!と欄干を軽く叩くと、アレクサンドルは階段を見つけ、全力で駆け下り、婦人の下へ急ぐ。
視線が切れた瞬間、婦人が消えてしまうのではないかと焦ったが、そのまま芝生の上で待っていた婦人は、アレクサンドルの服装で身分を察したか、綺麗に裾を広げ、腰をかがめて礼をした。
「わたくしは、クリスティーヌ・ド・ロズレーと申します。
お名前をうかがってもよろしゅうございますか」
ド・ロズレー。
この国の古い貴族の家名だ。
しかし、幾人かド・ロズレーの名を持つ者を知っているが、クリスティーヌという女性は聞いたことがない。
「アレクサンドル・バイルシュタイン。
ビエトの特使です」
惑いながら、アレクサンドルは差し出された手を取り、腰をかがめて唇をつけた。
左手の薬指に指輪がないから、未婚なのだろう。
首元を飾るのはシンプルなペンダントだけ。
髪も、うなじの上で丸め、夜光貝を散りばめた櫛をひとつ刺しているだけだ。
どういう立場の女性なのか、いまひとつ測りかねた。
いずれにしても、物腰からして貴族の女性であることは確かだが。
「つかぬことを伺いますが、あなたは18年前、カザルにいたことはありますか?」
あらゆるものから色彩を奪う月明かりだけでは、髪の色が明るい色味であること、整った顔立ちであることくらいしかわからないが、クリスティーヌは若い娘ではない。
35歳のアレクサンドルより、少し年下あたりか。
あの舞踏会にクリスティーヌが出席していた可能性はぎりぎりあると、アレクサンドルは見た。
「はい。
18年前、今の皇太后陛下のカザル訪問に随行いたしました」
流暢なビエト語でクリスティーヌは答えた。
そういうことだったのか、とアレクサンドルは納得する。
カザルは風光明媚な保養地として知られ、各国の王族・大貴族もよく訪れる。
他国の王族と夜会で一緒になることは、幾度もあった。
「やはり!
その折、今の歌を私と一緒に歌ってくださったのではありませんか?」
「ええ、そうです。
そんなこともあったなと思いだしていたところに、同じ歌が聴こえてきて、思わずまたお邪魔してしまいました」
アレクサンドルは破顔した。
「いやいやいや、あなたのような素晴らしい声の方に2度も合わせていただけるとは、望外の喜びです。
あの時は、ずいぶんあなたのお姿を探したのです。
いったいどこにいらしたのですか?」
「今とは逆、露台にわたくしはいたのです。
探してくださっているお姿は見えていたのですが、こちらからお声がけしてよいものか迷っているうちに呼ばれてしまいまして。
あの、わたくし、もう行かなくては……」
アレクサンドルは思いがけぬ再会に興奮していたが、クリスティーヌは冷静だった。
しきりに、屋内の方を気にしている。
「いやその、もう少しお話を……」
「本当にもう、行かないければなりません。
またお目にかかることもあるでしょうから」
会議は明日の朝から始まり、5日間の日程となっている。
その前後にも間にも、当地の人々と交流する機会は設けられている。
思わず前のめりになったが、また会うこともあるかと、アレクサンドルは思い直した。
「では、またいずれ」
クリスティーヌは深々とお辞儀をすると、アレクサンドルが手を貸す隙も見せずに足早に立ち去った。
急いでいるのは確からしい。
アレクサンドルはなかばあっけにとられたまま見送った。
18年前も前に共に歌った女性と、違う国で、だが同じ曲で再会する。
こんなことがあるのだろうか。
やはり、これはこれで精霊のいたずらなのかもしれない。