8.異変
……まるで盗むみたいに、頬へキスしてきやがった(注:おれたちは血縁関係のある兄妹だぜ)のだ。
おれは生ぬるい感触を手のひらでこすりながら、自分の教室の自分の席に座る。目前の席には見覚えのある女子がすました態度で座っている――ユキ。おれとユキは同じクラスなのだ。
ユキはその宝玉のような黒髪をキラリ輝かせながら、まるで猫のごとく素早い動作でおれの方へ振り向いた。椅子に座ったまま、脚をはしたなく広げる格好で。
「おはようございます」
どことなく仏頂面のユキ。おれは挨拶を返した。昨日の件については、ユキもゆずりかと同じく、まるで無かったことのように考えているようだった。おれたちは短くない付き合いだ。表情でなんとなく読み取れる。
その事は、おれにとっては救いだった。おれの心労――心の重い枷が一つ減るわけだから。おれが昨日の乱痴気騒ぎを止めるために、「指」を使ったことを――ユキは気にしていない。少なくとも表面上は。
「なんだか不機嫌そうだな」
「実際、不機嫌なんですよ」
おれが問うと、ユキは即答した。
「兄様から薄汚い血の匂いがします。それが私には気に入らないのです」
「血?」
「そう。だから私がそれを上書きしようと思うのですがどうですか」
「どう、と言われても。なんのことやらさっぱりわからないが」
「じゃあわからせてあげますから!」
ユキは急に立ち上がり、有無を言わさぬ形勢でおれに迫って抱きついてきた。クラス内にどよめきと歓声の沸くのが聞こえる。
そしてユキはおれの耳元で、
「ctrl+s上書き保存です」
ささやくと、おれの頬に唇を押し当てたのだった。
不意打ちのキス。
ゆずりかのシナモンとは別の、まるでキンモクセイのような甘い香り。めまいがしそうな甘い香り。
おれはすぐさま突き放すようにユキを払いのけ、
「正気か!」
「兄様、私は頭脳明晰です」
ユキは成績がとてもよい。全国模試で上位10位に入る。だが、
「そういうことを聞いているんじゃない」
しかし問答はそこで途切れた。おれたちのキッスをはやしたてるクラスの連中がおれたちを囲い、やんややんやと騒ぎ始めたからだ。ユキは嬉しそうに祭りの中心人物になり、おれは哀れな神輿となって沈黙を貫いた。
この茶番のあとに教師が来て授業が始まった。学園生活が日常通り正常に――いまのところは不穏の陰もなく――開始されたのだった。
不穏の陰だって? たいてい、禍事というのは、みだりにしっぽを出したりしないものなのだ。いつだって人間は、不意打ちに泣かされるものなのだ。
ああそうだ。――これからおれが味わわされようとしている苦汁も、そういう奇襲の類に他ならなかった。
*
異変は思わぬタイミングでやってきた。
体育の授業――と称しながら実際は「格闘」の授業――の最中、おれはトンマなことでもっぱら生徒から嫌われている、あるオッサン教師から急な呼び出しを食った。すなわち、「至急、体育準備室に来い」と。
おれはてっきり、至近距離対人格闘戦の際に準備すべき物品(化学救急救命器具など)を、運ばされるのかと思っていた。そういう雑用を生徒に押しつけるのが、このオッサンの職業上の唯一の楽しみらしい。そう思っていたからだ。
しかし事情は180度、違った。
体育準備室と言っても、この学園の準備室は埃まみれの物品置き場と化した単なる物置などではなく、しゃんと手入れの行き届いた、むしろ「応接間」と呼んでもいいくらい気取った調度品の並べてある空間だ。教師たちはそこでコーヒーを飲んでおサボりをする。
この日この時、その応接間のソファーには、おれが初めて見る人物が並んで3名腰掛けていた。
おれはそれに気がつくと硬直した。まずもって思い出されたのがあのメール――政府からのメールだ。明らかに応接間もとい体育準備室に腰を据えている人物は、政府関係者だと推察できた。
一人はいかにも官僚風だが尊大な顔をした男。
一人は高位の軍人。カーキの軍服と大佐の徽章でそれとわかった。
そして最後の一人は――珍妙ながら、これも軍人――軍人でありつつ、おれと同い年くらいの少女だった。
少女は大佐と同じカーキの軍服を身にまとい、中尉の徽章を佩用していた。アッシュ(灰)・ブロンドの金属的な光を放つ髪――これはおそらく、強力な【能力】の代償だ。そういう「能力医学的症例の典型」を、生物の科目の時間に勉強した記憶がある……。
そしてこれは特筆すべき事項だが、軍人のくせして、彼女はそこいらのアイドルやモデルなど鼻息で吹き散らすほどの、可愛さ、美貌と、男に媚びない魅力的な釣り目――男の心を射止める目――を持っていた。そしてその髪色の珍しい点も、当然ながら、彼女の魅力のスパイスとなっていた。