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30.急流

「兄様、ありがとうございました。では組長室へ案内します。兄様がこれからお暮らしになるのがそこなので……」


 またまたされるがままに引っ張られて、連れてこられたのはおそらくは屋敷のなかでももっとも深奥部にあると思われる「組長室」だった。どうやらこのユキの組は組長が不在、ないしはユキが組長代行をやっており、今回の結婚(おれの意思ではない)により、組長に晴れておれが――三代目征五郎が襲名された、という筋書きのようだった。


 組長室はやはり組長室という名前だけあって、それなりの豪奢な部屋だった。調度品はことごとくハイエンド品で、椅子が一つに机が一つ、謎に豹の剥製が飾ってある。部屋の隅にはマージャン卓なんかもある。掛け軸には大きく「力無き大義は無力也」の文字。黒服が三人おり、一人はおれが組長の席に腰を下ろすやいなや、おしぼりとお冷やをもってきた。


 ユキは組長室へ入らなかった。そこは女人禁制らしい。その代わり、


「これから兄様が別の女に盗られないように、万全の体制を準備します」


 と宣言してどこかへ行った。


 おれは黒服の中でも、一番おれの世話をかいがいしくしてくれるやつの名前に、名前を聞いてみた。


「ヤスでごぜえます、征五郎親分」


 ヤスと言うらしかった。おれはヤスに訊く。


「ヤス、いいのか。こんなどこから来たのか分からんような胡乱な男がいきなり組長になって。案外、警察かなんかのスパイかもしれないじゃないか」


「征五郎親分の話は、ユキ姐さんから毎日聞かされていました。お顔も写真や動画などで知っておりました。ゆえに、征五郎親分はあっしたちにとって初めて見るお顔ではないんで。それに、お人柄も優れているということは、よく知っております。どのくらい素晴らしい人間か、これも毎日姐さんから聞いておりましたんで、へえ」


 どうやらユキは用意周到におれとの婚礼、すなわち組長襲名の準備を進めていたらしい。もう展開が早すぎて何が何やらという感じだ。


 *


 事実上おれは幽閉された形となった。このユキの邸宅は広く、敷地内の移動は自由で、暮らすには快適ですらあるのだが、おれは敷地の外へ出ることを暗黙の内に禁じられている。


 おれのそばには常にユキか黒服がつきまとい、何かと世話を焼いてくるがどちらかといえば監視の意味合いの方が強いように思われた。


 おれが外に出たいのは何も学校に行きたいから、などではなくて、ゆずりかの様子が気になるからだ。あれからゆずりか一人で取り残された状態で、果たしてちゃんと生活してゆけているのだろうか? あんなのでも一人の妹だ。妹の身を案ずる兄の気分がいや増しに増していくのだった。


 だから、何度目かおれがユキに抱かれている時、おれの感情をかなり敏感に読み取ることのできるユキは、おれに詰め寄った。


「他の女のことは考えないで下さい、兄様」


 だがそれは出来る相談ではなかった。考えたくなくても考えてしまうのだ。


「もう兄様は立派に私の夫なのです。だから他の女の心配など不要です」


「それが兄妹となれば別だろう」


「……では、ゆずりかさんのことは組員に任せることにしましょう。たぶん、家でひきこもって暮らしていることでしょうから、生存確認だけでもさせましょう。それを報告します。それでいいですか」


「そうだな……とりあえず最低限、生存確認だけでも」


「じゃあそういうことにします。話は終わりました。これから先、他の女のことは考えないでください」


 ユキはそう言うと、おれにいっそう激しく迫ってきたのだった。おれは急速に変化していく己の身分のはかなさに思いを馳せながら、ユキの肉体に事務的に応えた。


 その「事務的さ」すら頭の中を読み取られて、「本気で愛して」とぐいぐい来る。堂々巡りなのだった。ユキは怒ったりしなかったが、二人がわかり合うためには時間が必要だ、と言った。


 しかし、そのような悠長な時間はついぞ得られることが無かった。

 軍事委員会による組への襲撃の準備が、着々と進められていたのだ――。

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