29.急流
「兄様」
「――!」
ユキのきゃしゃな手がおれの肩をがっしりと掴んだ。そしておれの目を真っ正面からのぞいてくる。
「いま兄様は、他の女のことを考えていますね。やめてください。いま、兄様は私の屋敷にいるのです。私の家族として迎え入れたのです。ですから、女のことを考えるのはどうかやめてください。兄様に許されているのは――もし女のことを考えたいのだったら、それは、私です。私のことを考えるのです。妻である私のことを考えて下さい」
「だが
おれの返答は封じられた。唇を封じられたのだ。ユキはおれを押し倒していた。そしてその唇をおれの唇に押しつけていた。柔らかくも温かく、快楽をもたらす感触が口腔から広がってくる。おれは理性がなくなる直前でユキを押しのけることに成功した。
「こんなこと……!」
「兄様。私と兄様は前世からの因縁があります。だから不思議な力、通じ合う力があります。私はこれまで兄様の身に何が起こったかなんとなくわかります。あの汚い女たちに何をされたのかが……!」
「……」
「ごめんなさい。……《拒絶宝剣》!」
ユキの四方八方に、七色に輝く光の宝剣が浮遊する。おれが回避行動をとるよりも宝剣が動く方がよっぽど早かった。宝剣のいくつかがおれの胸に突き刺さり、おれの感情のいくつかを砕いていく。ユキの【能力】はこの光の宝剣で、獲物の精神にダメージを与えるのだ。
おれは抵抗力をすっかり奪われた。
おれは仰向けになって脱力した。天井の木目がゆらゆら動いているように見えた。
それから何がどうなったのか、おれははっきりとは覚えていない。
「好きです兄様……今世では結ばれましょうね」
ユキがおれにのしかかってきて、おれを貪った。おれは抵抗の意思を抱くことすら許されず、されるがままになった。ユキは簡単には満足せず、おれを何度も抱擁した。そしてひたすらに、前世で結ばれなかった無念と、今世では必ず二人で一つになるのだということを、繰り返し聞かせてきた。ただぼんやりと、そうした記憶だけが脳裏に、薄くだが、焼き付いている――。
*
夜が明けた。
黒服に浴室に案内され、下にも置かない扱いを受けて身体を清めたおれは、ユキ手作りの朝食をふるまわれていた。
ザ・和食という感じのラインナップだがそのどれもが下拵えから完璧で、作り手の「愛情」の重さが推し量れるというものだった。実際、味も美味で文句のつけようがないのだった。
おれは空腹だった。恥ずかしながら食事をとることを我慢できなかった。そしておれがかつがつ食べる様子を、ユキは幸せそうに見つめていた。
「奥様になる気分って、こんなに幸せなのですね……」
ユキは恍惚の表情を浮かべているのだった。
食事を終えると、ユキは言った。
「申し訳ないのですが、少しだけ会社関係のことでお願いがあるのです」
「会社?」
「来て頂ければわかります。すぐ済みますので……」
わけもわからず、おれはユキに案内されるがまま邸宅の中を移動した。そして屋敷の奥まったところへ足を踏み入れた――そこはホールのようになっていた――ホールというよりも、寺の本堂と言った方が雰囲気は近いかもしれない――恐ろしいことに、そこには強面の黒服が100人以上が集結し、着座しているのだった。
おれは圧倒された。
「おはようございます、みなさん」
ユキは黒服たちにあいさつをした。黒服たちは一斉に、
「おはようございます、お嬢」
と声を張り上げた。凄まじい統一感、そこに秘められたのは強い忠誠心。三桁を超す構成員たち――規模が大きく実力もあるヤクザ組織の証だ。
「きょうから私の夫になる方です。こちらの男性が三代目征五郎を襲名します」
おお、と会場からざわめきが漏れた。おれは状況の理解に時間がかかった。つまり――おれはユキの配偶者にされ、ヤクザ組織の一構成員になるということか……?
「本来なら古式ゆかしい正式な手続きを進めたいところですが」
とユキは言う。
「目下、われわれ極道者をとりまく環境は厳しいのです。お上――そしてその犬たちである軍事委員会や教育委員会――こうした連中が三代目征五郎 (おれのことだ)の命を狙っています。他の組の者、客人を招いて婚礼の儀を交わすにはあまりにも時間的猶予がありません。故に、簡略ではありますが、ここに夫婦関係にあることの事実を示すことで、お前達には納得をしてもらおうと思います」
立派な口上を述べ立てた後で、ユキは唐突におれの顔を両手で捕まえて、おれの口に接吻した。
「「おお」」
会場に参席する黒服たちは雷撃のような拍手でそれに答え、賛意と祝福を示した。
「三代目征五郎親分に万歳!」
「万歳!」
万歳の三唱までも始まった。でたらめだ。そもそも征五郎ってなんだ。おれは征五郎という名前ではない。
「申し訳ないのですが、兄様、会社では征五郎という名前を名乗って頂きたいのです……それが慣習なので。征五郎というのは一代で裏社会の全てを掌握した伝説的ヤクザの名前なのです」
ヤクザの慣習はよく知らないが、とにかくそういうことになっているらしい。いまさら「やっぱり結婚はなしです。おれはしたくないです」とか言ったら殺されそうな勢いだった。




