28.急流
なるほどフロントガラス越しに、前方に一人の少女が――それはクリシェだった――こちらを睨まえて立っているのが分かった。
この車に用事があるのは明々白々だった。自分で言うのも情けなくてなんだが、ターゲットはまず間違いなくおれだろう。おれを連れ戻すためにあそこで待ち伏せをしているのだ。
「かまわないわ。そのまま突っ切って」
ユキが黒服に指示を飛ばす。黒服はうなずくだけの返答をして、アクセルペダルを深く踏み込んだ。車の速力が上がる。このままではクリシェにぶつかる――。
クリシェは跳躍した。あたかもハードル走の選手がハードルを越えるように、このセダンを飛び越えたのだ。そして同時に【能力】を発動していた。
「《煉獄投影》!」
クリシェの【能力】は炎熱。
全てを焼き尽くす火炎を発生させる――車は一面火炎につつまれ、窓から見える景色は全てえ炎、地獄の中に突き落とされたかのようになった。社内の温度も一時的にサウナ状態になった。
しかしそのまま車は走行を続けた。ものの十秒もすると、火炎は無くなった。クーラーが自動的にゴーゴーと機能し、車内温度を適正に保とうとする。
「私の家の車は全部、あらゆる抗争に備えて完全防火防熱仕様なので、平気です。兄様。驚かせてしまいましたね」
驚いたところではなかった。
まあ、驚くべきポイントはクリシェがおれたちを襲撃していたことよりも、なぜユキがこんなゴツい車を所有しているのか、という点にあるのだが……。
それから特にトラブルも無く目的地に到着した。
立派な日本家屋。それが第一印象だ。
ユキが住んでいるのは周囲に庭園をもち、上質な木と紙とで造られた伝統的日本家屋――それも相当な大きさの――なのだった。明らかにこんな住宅に住むことの出来る人間は、俗世で悪い稼ぎ方をしているに違いない。
「うちは家族で会社を経営しているので……会社の部下の方たちも住み込みをしているのですが、どうかお気になさらず、兄様、自分の家だと思ってくつろいでください」
そんな説明がユキからなされた。《会社の部下の方》というのは明らかにソッチ系の柄の悪い人間で、身体に落書きがしてあったり指の本数が奇数だったりしていた。おれはそれを見逃さなかった。いわゆるヤクザだ。
おれはいままで知らなかったが、じつはユキはヤクザの娘らしかった。
おれが何か訊ねようとするまもなく、黒服の人相の悪い人間達がわらわらとおれに群がり、無理矢理おれを邸宅内の和室に案内、というよりほとんど押し込んでしまった。
「……」
おれは黙って座布団に正座するよりない。
和室は広かった――二十畳はあったろう。そこへ頑丈そうなちゃぶ台と、おれが座るための座布団が敷かれていた。壁には書道「任侠」の二文字が威圧的に飾ってある。
そろそろ手持ち無沙汰になりかけてきた頃、ふすまの一つが開いてそこから一人の瑠璃色の着物の少女が――ユキがやってきた。
「大変お待たせ致しました、兄様」
「あ、ああ……」
ユキは座布団をおれの隣にもってきて、そこへ坐した。ふわりと、キンモクセイのやわらかい香りがおれの鼻腔をくすぐる。
「むさくるしいところですみませんが、ここが私の家です。お越しになるのははじめてでしたね?」
「そうだな。むさくるしいというより、広くて開放的だと思うよ……」
おれにとって家や部屋のことはどうでもよかった。それよりも今のこの状況について、整理しなければならない。
「ゆずりかが家で待ってる。おれを帰して――
「ダメです」
想定通りの回答がユキの口から飛び出した。それはそうだ。すんなり帰すくらいなら手間暇をかけて誘拐を企てたりはしないだろう。
おれは確かにゆずりかの手によって、大変不健全な状態で監禁されていた。しかし、ゆずりかを放っておくわけにはいかないのは事実だ。寝ている間におれがいなくなったとしったら、どんな精神的なダメージを負い、また、どんな突飛な計画を実行するかわかったものじゃない。
それにクリシェのこともある。リンのこともある。あの二人はおれを狙っている――手近な敵として、もしかしたらゆずりかを襲撃、排除する事を考えるかもしれない。それは許すわけにはいかない。それは阻止しなくてはいけない。おれがそばに居て何か助力できるかと言われれば、答えは「否」だが……それでも、ゆずりかを一人にしておくことは大変ためらわれた。




