26.急流
浴室の鏡には小さな生傷だらけのおれの身体が映っている。どれもこれもゆずりかの【能力】によってできた傷だ。まるで中世に鞭で刑罰を受けた男のようだ。実際、おれにとってゆずりかの【能力】はおれを拘束し、支配するための「鞭」なのだ。
そんなことを考えていると、脳内に電流が走った。
(――兄様、聞こえていますか)。
すぐに分かった。これはユキのテレパスだ。ユキはこうして言葉を交わさなくてもおれと意思疎通をすることができる。これもユキの【能力】なのか――それはまだ未解明の領域だ。【能力】だと結論する教員もいるが、ユキ自身は「前世の縁が深かったから」と主張している。本当のところは不明なのだ。
(聞こえている――)
おれもその心の声にそっと思考で応答する。ユキは、
(――助けに行きますから待っていて下さい)
とだけ言って一方的にテレパスを解除した。
*
おれは再びベッドに拘束されていた。もっとも、ゆずりかもおれが脱走する心配がないと見たのか、あるいは自分の【能力】のおかげでおれが脱走することなどできるはずがないと踏んでいるのか、それはわからないが、とにかく拘束は緩くなった。
いまおれは手錠を、左の手首だけ、ベッドの柵に繋がれている。他の身体のパーツはフリーだった。
そしてゆずりかはおれの右側にひっついて、おれの胸に顔を埋めている。あたかも離ればなれになった親子が数十年ぶりに再会するかのように、万感の思いを込めた抱擁を毎日プレゼントしてくるのだからけなげという他ない。
おれは毎日がこの調子であることと、全ての行動がゆずりかに管理されていることのストレスが勝って、とても甘い気分になるどころではなかった。おれはゆずりかを家族として庇護したい、守りたいという気分でいる。軍事委員会や教育委員会など、政府の手先には傷一つつけさせるわけにはいかない。しかし、こう、おれに向かって攻め立ててくるゆずりかは、狂気じみていた。有り体に言って。
「なあ、何がそんなにお前をおれに執着させるんだ? 何をしたらその執着は無くなるんだ? 執着は苦しみの原因だ。おれはゆずりかに苦しんで欲しくないと思っている。ついでにおれも苦しみたくないと思っている。お互いのために、執着の原因を取り除きたい」
おれはこのようなことを言ってみた。ゆずりかは不機嫌そうに、
「わたしはお兄ちゃんのことが好き。愛に理由なんてない。それじゃだめ?」
と答えた。おれは少しだけ考えて、
「愛に理由……か。じゃあその愛というのは、どういうものなんだ? おれとゆずりかが仲睦まじく暮らすことが愛なのか? それとも、親が子どもを見るように、子どもが――相手が幸せに暮らしてくれていればそれでいい、という類のものなのか?」
「当然、前者だよ。ゆずりかとお兄ちゃんは結ばれているの。分かるでしょ? たくさん、心でも身体でも分からせてあげたでしょう?」
「ゆずりか。それじゃあおれがゆずりかの意図に反する行動をとったら、愛は実現しなくなるわけだな。つまり、愛が成立・成功するためには相手の行為に依存するわけだ。とても脆い」
「そんなこと言うお兄ちゃん嫌い。ゆずりかのものなの。お兄ちゃんは」
ゆずりかがおれの胴を抱きしめる力は、万力のようになった。その行為には、是が非でも肉体的におれをゆずりかに結びつけておきたいという意思が感じされた。
「ゆずりか。これだけは言っておくが。おれは自分の忌まわしい【能力】のことで、いつまでもくよくよしていたくない――すくなくとも、妹の人生を狂わせたくないと思っている。だから同情のためにこんなことをするなら、その必要はない」
「だから。違うもん。好きだから。好きに理由は無いから」
それに、とゆずりかは続けた。
「お兄ちゃんがいなくなったら、わたしはこの地上でひとりぼっちになっちゃうから。それはとても怖いことだから。だからお兄ちゃんにはずっと近くに、ぴったりと近くにいて欲しい」




