22.転変
おれは思った。ああ、開戦の火蓋が切られたな、と。それからおれは――この争いの趨勢を黙って観察するしかないのだと悟った。犬のようにベッドに繋ぎ止められたまま。
「《怒髪極刑》――!」
リンの必勝の【能力】が発動する――かと思われた。しかし、
「アタシさぁー、知ってるよ。アンタの【能力】がどんなものなのか。教育委員会の情報網を舐めないでもらいたいよね」
言いながら、クリシェは両手を自分の首に当てた。自らの首を絞めさせる「極刑」が発動しようとしている……のではない。
にやにやしながら、クリシェは、
「自分で自分の首を絞めるなんて、アタシにそんなバカげた攻撃通用するわけないジャン。ようは《怒り》を抱かなければこの【能力】は活性化しない――アタシは、《怒り》なんかもってないよ、アンタに対して」
「戦闘の相手に《怒り》を持たないなんて……じゃあ、いったい――」
「狂ってるってことよ。アタシの情緒は。だから《怒らなくても戦闘できる》。狂ってる、これ、誉め言葉ね」
リンは自身の【能力】が通用しないことを見て取ると、すぐに戦術を変えた。ホルスターから拳銃を掴みとり即射、電気アンカーがバチリと発射される。
しかし、常人ならざる反射神経を発揮して、クリシェはその電気銃の一撃をすら半身になって回避した。そして、
「二つ目の【能力】――《獣王無尽》」
クリシェは自分の【能力】を展開した。
メキメキと音を立ててクリシェの身体が変化していく――それは変身そのものだった――腕はモリモリと筋肉によって盛り上がり、それはピンク色の分厚い毛皮で覆われた。脚も同様、顔も狼の形となっておれの――恐らくはリンのも――度肝を抜いた。
すっかり変身が完了したクリシェは、ガオウ、と獣の唸りをあげて、リンを不敵に眺めた。
不快な緊張感が場を支配する。クリシェの姿は――異様な、そう、異様としか言いようがない二足歩行の、ピンク色の狼なのだった。一回り大きくなって、人間状態だったときの被服はすっかり破け部屋に四散している。
クリシェの口は狼の、突き出したような、いわゆる犬型の口になっていた。その形から推量するに、会話によって意思疎通を成立させることは不可能だろう。言語を発音することが難しいからだ。
この状況――一つだけ確かなことは、獣化クリシェは肉食獣の瞳でじっとリンを見つめ、捕食者の野心を脳に抱いて襲撃のプランを組み立てているだろうということだ。
リンの行動は早かった。
接近だ――抜群の瞬発力で床を蹴り、クリシェに肉薄する。そしてその顎――獣化して獣の形となった顎――に肘鉄の一撃を与えたのだ。
およそ肘、ないし膝というものは、肉弾戦においては凶器に等しい――訓練を経た軍人が用いる肘の一撃は、易々と人を殺傷できるほどの威力を誇る。それをリンはためらいなく放ったのだ。相手が変身した怪物だから、手加減の必要を感じなかったのだろう。
事実、手加減は必要なかった。
クリシェはその肘の一撃を受けても、何の反応も示さなかった。
「――!」
少なからずリンの瞳に動揺の色が宿った。
ヴヴヴ、と獣の笑いめいた唸りがクリシェの喉から響いてくる。「人間の娘のか弱い腕から放たれた、か弱い一撃が、なんと惨めな威力をしているものか――なんと軽いものだろう――」。そんな笑い、だろうか(もっともクリシェも変身しなければ「人間の娘」なのだが――)。
リンはすぐに飛び退り相手との距離をとって、次なる一手を繰り出す。すなわち肘がダメなら膝。――ロケットのような威力の前膝蹴りだ。クリシェはその一撃を――腹部で受け止めた。そして、無反応。やはり、ヴヴヴ、と非人間的な笑い声を上げた。やはり効果がないのだ。獣化して肉体の組成を変更したクリシェは、その獣的な筋肉により、人間の格闘など受け付けない鋼の胴体、鋼の四肢を手に入れたのだ。
今度はクリシェが動いた。
リンの腕を――獣化クリシェと比してあまりに細い小娘の腕を、無造作に掴むと(指は奇妙なことに、五本あり霊長類のそれに似ていた。よって、腕を掴むという細かい動作をすることができたのだ)、まるで犬が餌をなんのためらいもなく食べるかのように、噛みついた。
「ぐっ――!」
リンはもがくが、まるで効果がない。逃げることができない。リンは腕の痛みに耐えながら必死に蹴る、殴る、などの抵抗を見せるが、ピンクの獣はまったく意に介さないのであった。
ほぼ勝負は決した――おれは止めに入るべきだと思った。このままではクリシェはリンの腕を噛みちぎりかねない。そんなことになっては寝覚めが悪い。おれに、人間の腕が引きちぎられる光景を見る趣味はない。血を見る趣味はない。
「もうやめろ」
意外だった。おれのこの言葉はすぐに効果を及ぼした。クリシェは瞬く間に噛みつくのをやめた。リンはその場に気絶して倒れた。堪えがたい痛みのためだろう。




