14.異変
もうおれにはリンを拒む意思がなかった。快楽はおれから意思をはく奪した。もしそんな意思があったとしても、もちろんおれはリンに勝てたとは思えない(リンは鍛えられた軍人である)。しかし、抵抗しないおれの態度を、リンは、明らかに、「夫婦関係成立」と受け取ったようだった。
おれは天井を見ることにした。天井のしみの数を数えようとしたがしみ一つないきれいな天井だった。
衣擦れの音がする。リンが服を脱いでいるらしかった。リンはおれの手をつかんで、何かに触れさせた。それはとても温かかった。きめ細やかな感触だった。
「っん……」
リンの声はなまめかしかった。おれはもうどうでもよかった。快楽だけがそこにあった。
その時――。
《精神感応》が生じた。
(記憶が――前世と結びつく記憶が――そうだ――おれの生まれる前の記憶が――来る!)
聞こえてきたのだ。精神の声が。奥底から。心の二十次元向こうから、聞こえてくる。
『兄様。聞こえますか。ユキです』
ユキが――ユキが近くにいる。
『いますぐに助けに行きます。前世では妹だったユキですが、今世においては――兄様のフィアンセになるのはユキです――そこのところを、お忘れなきよう!』
ユキが――助けに――?
『ちなみにいらないとは思いましたが、いちおう、念のため、援軍として今世の兄様の実の妹である――すなわち絶対に恋人にはなれない負け犬の――ゆずりかさんをつれてきています。今回は共闘です』
ゆずりかも――来ている――この――軍事委員会の基地内に?
そして――けたたましい破砕音。
そうだ――ドアノブが破壊される音。
リンの反応速度はさすが軍人だった。
おれから身を離すとたちまちサイドテーブルに置いてあった(おれはそれにいま気がついた)二丁の拳銃に手を伸ばし掴んで、この部屋への闖入者二名へその銃口を的確に向けた。
闖入者――それはまさしくユキとゆずりか、その二人であった――は、銃口を向けられているにも関わらず、たじろぐ様子ひとつ無く半裸のリンを睨まえている。
そして二人は、おれがベッド上にいることと、リンほどの美少女が半裸であることを見て取った。二人の感情に「良くない」火がついたことは――怒りが着火したことは――明らかだった。
ゆずりかは言った。
「お兄ちゃん。浮気だよねこれは」
ユキは言った。
「今世で結ばれるのは私たちのはずですが、この『ハレンチ』な状況はいったい――?」
リンはほくそ笑んだ。
「《怒髪極刑》」
【能力】の発動――リンの能力は、「怒り」の感情を抱いた人間の腕をコントロールし、自らを「絞首刑」に処する――そんな残酷な――性能をしている。
ゆずりかもユキも、術中にはまった形だった。二人ともおれたちを見るなり、まず「怒り」を覚えたのだから。
【能力】は抜かりなく作用した。ゆずりかとユキの細い手指は――自身の喉にそっと触れ、やがて包むように力が込められて、ついには万力の締め上げが始まろうとしていた。
絞首刑、開始――!
「よせ!」
おれはリンに掴みかかろうとしたが、リンは、先ほどまでのおれへの甘美な態度を捨てていた。完全なる戦闘モードだ。銃底でおれのあごをぶん殴り、追撃の前蹴りを入れ、ついでに床に這いつくばったおれを踏みつけて一言、
「浮気はいけませんよ。邪魔な女は私が片づけますからおとなしくしていてください」
ゆずりかとユキは苦悶していた。しかしそれよりもマズかったのは、リンが拳銃の銃口を再び二人に向け、容赦なくトリガーに指をかけようとしていることだ。
おれは――目の前の、リンの細くて白い足首を掴んだ。つまり、おれの5本の「指」はリンの足首に全て触れる形となった――●●●●【能力】が発動する条件がそろったのだ。これは切り札だ。
リンはおれを見た。
「……」
既にわかっていた。リンの視線にはいささかも恐怖が含まれていなかった。それはそうだ。リンはおれがこの●●●●【能力】を発動しないであろうことを、感づいている。そこにはいびつな信頼があった。「私には危害を加えないでしょう」という、信頼が――。
だが、
「いまだ」
おれは合図をした。いまの、おれとリンとで行われた無言のやりとり――その間に生じた隙――それで十分だった。ゆずりかとユキの二人にとっては。
ユキは自身の首を締め上げる両手に苦しみながらも――自らの能力《拒絶宝剣》――七色の、浮遊する剣を自在に操る能力――を活用して、開かれていたドアを閉じた。剣でドアを押し込んだのだ。
ドアが閉まった。