11.異変
「《怒髪極刑》」
聴く者をハッとさせずにはおかない、その魅力的な声で詠じられた能力の名。
効果はたちまち現れた。
「ぐあっ…………!?」
《センセー》の身に不気味な異変が起こった。
おれはとっさにソファを蹴って立ち上がり、《センセー》から距離をとった。
不可解な光景だった。
《センセー》はあろうことか、まるで正気を失ったかのように、自分の両手で自分の首をがっちりホールドし、そのままセルフ・絞首刑に処そうとしていた――。
「おぉ……ごごご……」
《センセー》の顔色は赤くなり、青くなり、白くなる。まるでフランスの国旗、ロシアの国旗のカラーのように変化していく。《センセー》は自分の腕をコントロールできていないのだ。これが《リン》の【能力】――。
《リン》はこの局面を前にしてもなお、妖術的な響きのこもった小鳥の声で、さえずった。
「私の【能力】は――『怒り』の感情を抱いた人間を、自ら絞首刑に処す。つまり、自分の手の自由を失わせ、自分で自分の首を絞めるように動かしてしまう。いま《センセー》は《タイサ》に対してその裏切り行為に『怒り』を覚えた。故に――《絞首刑》。『怒りは人を滅ぼす』」
《センセー》は死ぬほど苦しんでいる。それを見かねたのか、あるいは単に不愉快だったのか、《タイサ》はホルスターから拳銃を無造作に取り出し、撃った。
《センセー》の頭蓋骨に穴が空いた。血液が噴出する。体育準備室の片隅にある全自動化学生命救急装置のランプが点灯して起動し、即座に《センセー》のもとに赴いて緊急救命対応を開始したが、助かるかどうかは大変怪しい。
「う、うわああああ」
今度は、一連の場面を目撃しており、かつ、唯一の部外者だった、かわいそうな体育教師が、この体育準備室から逃げだそうと走り出した。先ほどの発砲で割れた窓ガラスの破片を踏みながら、がしゃがしゃと音を立てて、ひたすらに逃げていく。
「もう一匹だ」
《タイサ》は狙いを外すことなく、体育教師の後頭部に銃弾をぶち込んだ。
体育準備室においてある全自動化学生命救急装置は一台だけだ。そしてその一台は《センセー》の救命に必死になってとりかかっている。体育教師は――ほったらかしだ。後頭部から赤い血液がどばどば出ている。びくびくと床の上で痙攣している姿は痛ましい限りだ。
「同情する必要は寸分も無い」
と、《タイサ》は吐き捨てるように言った。
「この体育教師はスパイだ。われわれ軍事委員会の敵だ。そもそもわれわれが訪問時間を放課後ではなく、この、中途半端な時間に急に変更したのも、このスパイの密告を恐れてのことだ」
スパイ? この、トンマな体育教師が……?
「ああ、教育委員会の手先だ。貴君は知っておられるかわからんが、教育委員会は、わが国家が国際的に軍事的優位を確保するために、貴重な若い人材を早くから軍事的施設で訓練させるべきだというまっとうな意見に――強く反対している。この体育教師もそのクチだ。だからこの会見を妨害し、見張ろうとしていた。前々からな。きょうはちょうどいい機会だったので、『排除』した」
「……《タイサ》」
《リン》はたしなめるような目で、《タイサ》の顔を見上げた。《タイサ》はうなずいた。
「すまない。この国の腐敗した政治情勢全体図と官僚組織諸派閥間の争いなどという退屈極まりない話よりも、貴君にはもっと目の前の重大な仕事があったな」
正直なところ、目の前の重大な仕事とか言われても、目の前に死体が転がっている状況を脳が処理しきれずにフリーズするしかない。この《タイサ》という人物もおれにとっては敵か味方かわからないし――いや、少なくとも、この人が良心の呵責なく殺人を決行できるタイプの人種という時点で、心理的な拒絶反応が半端ないのだった。
「貴君にはいまから転校してもらう。この学園も『格闘』や『政治学』にカリキュラムに組み込んでおり決して悪くはないが……エリートを創り出すのには不足だ。貴君には軍事的エリートになってもらわなければならないのだから」
「私はたくさん子どもを産み、育てます。それが私の役割だから。だから、私の代わりに、私の分まで、強い人間になってください。私の旦那様」
はい、そうします、とは当然言わなかった。頭が追い付かない。
「もちろん今回のこの会見は、形式的なものだ。貴君の同意などあてにしていない。初めから強制的に貴君を誘拐し、強制的に転校させ、強制的に結婚させ、強制的に子孫を残させ、強制的に軍事委員会の任務に服してもらうつもりでいるのだよ」
《タイサ》の手には拳銃が――先ほど使ったのとは違う、非致死性の電気銃が――握られていた。そしてその雷撃の矛先は、もちろんのこと、おれに向けられていた。
「目が覚めたらまた会うことにしようじゃないか。貴君、これからの活躍に期待している」
何かが光った。
おれの意識はそこで途切れた。