1.日常
「お兄ちゃん、キスしよ!」
「お兄ちゃん、えっちなことしよ!」
バカなこと言うな――と――妹の要求を断る【能力】が、おれには無かった。
*
一人の少女が、リラックスしきった表情でおれにのしかかってくる。
「お兄ちゃん好き。大好き。くふふ。えへー」
おれを「お兄ちゃん」と呼ぶこの少女の名は、ゆずりかと言った。甘いシナモンの香りがおれの鼻腔をくすぐる。
ゆずりか。
ゆずりかはおれのことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。
言葉の通り、ゆずりかはおれの妹である。
で、妹であるからして、大好き、くふふ、えへー、なんて言って血縁関係にある者同士いちゃいちゃくっつくのは生命の禁忌に触れる行為だ。
なぜそれがわからないのか――それはおれの知るところではない。
ゆずりかはおれが「兄」であることなどおかまいなしに、いつも人並み外れた愛情表現をぶつけてくるのだった。それが日常なのだ。
そしておれはそれを受け入れる。
おれの膝にのっかっておれに抱きついてくるゆずりか。
このあとおれは何をされるのか。あまりに酷ければ押しのけよう。別にそんなに酷くなかったら放っておこう。おれはそう決めていた。
なぜって、妹の過度な愛情の嵐をやり過ごすにはそれしか手段がないことを、おれはよく知っているからだ。
おれはこの場から逃げることができない。
できるのならとうに実行している。逃げられない確固たる「理由」があるのだ――。
おれの妹ゆずりかは、小柄でショートカットの栗色の髪の毛をした、美人というよりも「かわいい」という評のぴったりなおれより2つ下の少女。
ご多分にもれず世の男子たちには絶大な人気がある。
しかし妹ゆずりか自身はそんなことには無頓着、というか気づいていないふりをしているのか、おれのことばかり追いかける毎日だ。
おかげでおれは逆に、日常一般普通の人間関係にも支障を来すことがあるから困る。そりゃそうだ。一日中変人の妹におっかけまわされている変人兄に、積極的に関わりたいと思うヤツはそうそういないだろう。
「ねー、お兄ちゃん、ちゅーしよ」
と、唐突にばかなことを言い出したゆずりか。
おれは目を見開き驚愕を示す。
いまおれはソファに座っている。おれの膝の上にゆずりかはまたがっている。ゆずりかの顔面は文字通りおれの目の前にあり、呼吸の度に少しだけ生暖かい吐息が感じられるのだった。
そしてゆずりかの表情にあらわれているのは深刻、真面目、平静の色。
ゆずりかの言葉は冗談ではなく、「マジ」なのだ。
「断
「断ったらどうなるか、お兄ちゃんわかってるよね? 前にさんざん、たっぷり、これ以上ないほどに、ねえ、わからせてあげたんだから」
おれは反論、というより言い訳、のための言葉を探したがそんなものはなかった。
おれはゆずりかにはどうあっても抵抗することが出来ない。おれはそれを経験を通じて知っている。「痛み」と「傷」を通じて知っている。屈服感を通じて知っている。次におれがゆずりかの機嫌を損ねたら、いったいおれにどんな責め苦が待っているのか、それは本能的に、わかる。きっと容赦はしないだろう。
「ファーストキス同士、だね?」
ゆずりかは嬉しそうに笑って、目を閉じた。おれの肩をそっとつかんで、ゆっくりと迫ってくる。
おれも目を閉じた。キスするときのマナーとして――ではなく、もうどうにでもなれという一種の諦めのために、目を閉じた。
妹とキス。人生初。この素晴らしい経験がはたしておれの今後の人生にどんな影響を残すのだろうか。きっとトラウマとして脳みそのしわに刻まれて、定期的に髪の毛を勢いよくかきむしって死にたくなったりするんだろう。たまにカッターナイフで手首を切ったりしてみるかもしれない。……そんなつまらないことを考えながら、一秒、二秒――。
爆発。
まさしく爆発だった。隣室の客間とこのリビングルームを遮る壁は、木っ端みじんに破壊され切り刻まれていた。もうもうと白い埃があたりにまきちらされ、そして、凜としたたたずまいの一人の少女が怪しい体勢のおれとゆずりかをを――正確にはゆずりかだけを――睨んでいた。
「兄様。ゆずりかに何かされませんでしたか――ていうか、明らかに何かいかがわしいことをされかけていたので助けました」
その少女の瞳は勇壮、勇敢な光をたたえていた。
女子にしては長身だがスマートな体型。黒髪のきれいなストレートロング。そして不思議なのは、少女の周囲に浮かぶ七つの七色に光る細身の剣――そう、両刃の剣。見る者にはホログラムめいた非現実感を与えるが、そこにはたしかに光の刃が存在した。
ユキ。
この少女――七色の刃を操り、おれとゆずりかが超えてはいけない一線を一歩超えようとするのを妨害した少女の名は、ユキ、と言った。ユキはあくまで戦闘的な相好を崩さずに、かといってその美しさをみじんも損なうことなく、ゆずりかに向かって宣戦布告を発する。
ユキは言う。
「いますぐ《わたしの》兄様から離れてください。気持ちが悪い。《現世の》実の妹が実の兄とべたべたするのがどれほど異常なことかあなたわかっているんですか? わからないからそんなことをしているのでしょうが。わからないならわからせるしかないですね。わからせるしかないですねといいつつも、わかってもらえるような脳をあなたはお持ちですか? お持ちでないですね。だから多少、若干、いや、大いに、痛めつけて教訓を与えることにします」
ゆずりかはおれにまたがった姿勢のまま、顔だけユキに向けて、
「邪魔。消えて」
おぞましいほど冷たい声でそれだけ言った。
先ほどまでの甘ったるい粉砂糖みたいな声とは対照的な音調。ゆずりかもまた戦闘態勢に入ったのだ。そしておれはそうした状況の変化を情けなくも諦観のまなざしで追うことしかできないのだった。おれは無力だ。
「っ――」
「――っ」
両者の間にはもはや一瞬のためらいもなかった。攻撃がどちらから仕掛けられたのか、それを見極めることがおれにはできなかった。
おそらく両方同時に攻撃をしたのだろう。部屋の中の空気が甲高い音を立てて刃を形成し、小さな颶風を形成して暴れ出した。
ゆずりかの【能力】が発動したのだ。その【能力】は《隔絶疾風》――周囲の空気を刃に変形してこれを凶器として用いる力。
その容赦のない凶刃は、ユキの首筋を正確に狙いすましこれを襲った。
対するユキの能力は色とりどりに光る不可思議の剣を扱う【能力】――《拒絶宝剣》。
殺意のこもった虹の閃光が、狙い違わずゆずりかの急所を容赦なく攻め立てた。
そして、耳の裂けかねない、空気と空気のぶつかる破裂音。
攻撃と防御を同時に実行したゆずりかとユキは、互いに無傷でそこに屹立していた。
ゆずりかはもはやおれから身体を離し、立ち上がって堂々とユキに対し戦闘の姿勢をつくっている。
ユキは平静さを一ミリも失うことなくそこに在り、七つの宝剣を自らの周囲に浮遊させていた。
さて、おれはと言えば、ソファーから微動だにせずこの戦闘と、戦闘によって破壊されていく室内の様子をじっと見つめるだけだった。
おれにできるのはせいぜいそれくらいだけだからだ。この二人を止められるなら――それだけの力があるなら――とうにそうしている。