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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蛇の甘言

作者: ゆず

 よく味わってみてください。

 あれはたしか、小学四年生の時だったと思う。

 物心つく前に離婚し、僕を引き取った母親が新しい男性と再婚した。その男性の連れ子の、これから妹になるという一つ年下の女の子に初めて出会った時のことを、僕は今でも忘れられない。

 僕と視線が絡み合い、笑みを形作る唇とともに細められた、両の瞳。

 はっきりと整った顔立ちよりも、笑顔の後に続いた挨拶の細くてきれいな声よりも、獲物を見つけた喜びに瞳孔を狭め、舌をちろちろと揺らす蛇の狡猾さを感じたその瞳が、その時生まれた胸の奥の凝りとともに、何よりも深く脳裏に焼き付いて離れなかった。


                 ◇


 十月も終わりを迎え、すっかり気温が落ちた校庭の中で、同学年らしき男子がサッカーをしていた。

 二階の教室の窓際、前から四列目のここからは、走り回る彼らの姿がよく見えた。

 高校二年生ともなれば、秋冬の外での体育授業などやりたくない、ましてやそれが六時間目ともなればなおさらだというのが男女共通の認識だと思っていたが、積極的に動いている頭数を見るに、どうやらそうでもないらしい。いや、案外、もう内申点のことを気にして、授業に熱心に取り組んでいるというアピールをしているのかもしれない。

 そう考えると、ちょこまかと走り回る彼らが、野を元気に駆け回る一方で、あくどい企みをしているずる賢い狐の群れに見えてきて、思わずくすりと笑ってしまった。


 そんなことを授業中に考えていると、教師が僕の名前を呼んだ。

 教壇を見ると、英語の教諭でありこのクラスの担任でもある大鷲という名前の先生が、少しだけ不安げにこちらを見ていた。聞き間違いではなさそうだ。

 立ち上がって、適当に当てられたと思われる箇所の英文を、ぎりぎり教壇に聞こえるくらいの声量でボソボソと読む。それでも読み終わって着席すると、周囲からため息のようなものがいくつか聞こえてきた。普通の人よりも声が低いのは自覚しているのだから、放っておいてほしいと思う。

 先生の、名前の通り鷲のような顔に安堵が浮かんだのから目を逸らし、そんなことよりも、と気を取り直す。これから放課後、どこに足を伸ばすかのほうが重要だ。


 生まれた胸の奥の凝りは、まだ体の内で燻っていた。


                 ◇


 なるべく遠くがいい。今日は、通学に使っている路線の、終点の三つ前の駅を選んで降りた。

 最初は手近なところでやろうと思っていたのだが、万が一の時に備えて、なるべく離れたところでやろうと考えなおした。

 すでに熱を持ち始めている胸の奥を抑えつつ、降りた駅から住宅街に向かって歩き始める。同時に、周囲に視線を巡らせて適切な場所と相手があるかを確認する。

 幸いすぐに見つかった。道端を歩いていた猫を、近くにあった公園の死角に誘導してくる。僕にはどうやら、そういうことに関しての才能があるようだった。そしてそれは、僕にとってとても都合がよかった。


 胸の奥の凝りがはちきれそうになると、時折こうして猫を使って衝動を慰めていた。

 今度で最後にしよう。毎回のようにそう思い、そして毎回繰り返している。


 今度こそ、今度で最後にしよう。


 そう思いながら、気付かれないようにそっと後ろから、猫にナイフを押し当てた。


                 ◇


 家に帰ると、出張で留守にしている両親の代わりに妹が出迎えてくれた。

 おかえり、という声からは、含むものは何も感じられない。瞳にもあの蛇の狡猾さは見られず、どこにでもいる普通の家族みたいに振る舞っている……ふうに見える。けれど、同じ高校に入ってから、妹はあの目をすることが多くなった、気がする。


 蛇の狡猾さを含んだ目。

 何もかもを見透かす目。


 あの目で見られていると感じるたびに、胸の凝りが大きくなっていく気がした。

 ごはんできたら呼ぶね、という妹の声に、僕は頷き返すことしかできなかった。


                 ◇


 翌日、告白された。

 放課後体育館裏で待ってます、なんていう今時誰もやらないような手段で呼び出され、裏があるのでは? などと考えつつものこのこ行ってみると本当に件の人物がいて、ずっと好きでした、付き合って下さい、あなたの気持ちを聞かせてください、返事はいつでもいいので、などと言い置いた後、逃げるように帰ってしまった。

 押し付けられた連絡先のアドレスを眺めながら、そういえば去年のクラスのグループ実習かなんかで一緒になった子だったっけ、と今更ながらに思い出す。

 こちらの様子をちらちら伺うのとペコペコと頭を下げるのを交互に繰り返しながら、けれどこちらの反応を待たずに言葉のマシンガンを浴びせる様を思い返して、キツツキみたいだったな、と感じて少しだけ可笑しくなった。


 それにしても、と僕は思う。


 『あなたの気持ちを聞かせてください』


 考えたこともなかった。自分が人を好きになる、なんて。

 もし僕が誰かを好きになったとして、それはどういう感情なんだろう。

 そう考えて思い返してみると、おそらくそれに一番近い感情は、


 ……胸の凝りを解消しているときの、あの感覚に良く似ている気がした。


 でもそれは、つまり、


 ……相手をナイフで突き刺したいという気持ちも、好きのうちに入るのか?


 そう考えだすと、自己嫌悪で潰れそうになって、僕は足早に家路についた。


                  ◇


 家に帰ると、まだ妹は帰っていなかった。

 部屋に戻り、先ほどの相手に断りのメールでも入れようと携帯を引っ張り出してきたところで、玄関が再び開けられる音がした。鍵はもちろん閉めておいたから、妹が帰ってきたのだろう。

 ただの偶然ではあると思うが、待ち伏せでもされていたかのようなタイミングだったので、少し驚いてしまった。

 気を取り直して、携帯に向き直る。しかしすぐに、部屋のドアをノックする音が響いた。

 どうやら妹が、帰ってきてまっすぐに僕の部屋にやってきたらしかった。今までそんなことはほとんどなかったので、少し身構えながらも、どうぞ、と声を出す。


 ――ねぇ、今日告白されてたよね。


 部屋に入ってくるなり、うつむいた妹はそう言ってきた。

 告白されたことを、僕は誰にも言っていない。

 ついさっきのことなので、誰かから目撃情報を聞いたということもないはずだ。考えられるのは相手の方が言いふらしている可能性だが、学年の違う妹にこんなに早く伝わるのは考え辛い。

 なんでそんなこと知ってるの、と言う前に、妹はうつむいたままさらに言葉を重ねてきた。


 ――でもさ。それってちょっとまずいよね。告白した人が、あんなことする人だって知ったら、お相手の人はどう思うかな?


 さぁ、と血の気が引く音がした。何のこと、と、とっさに繕おうとするけれど、声がかすれて上手くいかない。


 ――知ってるよ。いつも帰りが遅い時、何してるのか。


 視線を絡み合わせてきた妹の瞳は、蛇のように細められていた。

 心臓の鼓動がうるさい。混乱したまま妹に近寄って手をつかむけれど、その後にとるべき行動が見つからない。

 そうして動けない僕に視線を絡めたまま、獲物をいたぶるように妹が言った。


 ――どうするの?


 ……どう、する?


 その言葉を。

 それを聞いた瞬間に、ずっと胸の内で燻っていた凝りが弾けて、黒い衝動となって体を満たした。


 衝動。


 それはたぶん、初めて妹に出会った時に感じていた胸の奥の凝りの、本当の正体だった。

 それは衝動だから、正確に言葉に表すのは難しいけれど、あえて言葉にするのなら。


 ……こんな目をした子は、どんな色の血が流れ出すのだろう。

 ……こんな目をした子は、どんな声で泣き叫ぶのだろう。


 そういう、暗い情欲。

 それが、この凝りの、この衝動の正体だった。


 その情欲が命じるままに、妹をベッドに引き倒し、捕まえて圧し掛かる。

 無抵抗のままの妹にナイフを押し当てて、思い切り力を込めて突き刺そうとしたところで、


 『あなたの気持ちを聞かせてください』


 さっきのキツツキさんの言葉が浮かんできて、結局そこから進めなかった。

 今までも、おびき寄せた猫たちに対して、結局ナイフを突き刺せなかったように。


 脱力しきって震える体に何とか力を込めて、妹の上から退こうとする。


 その瞬間。


 ――それじゃダメだよ、お姉ちゃん。


 妹が、嬲るように言った。


 それと同時に、僕が反応するより早く、僕の体に両手を伸ばし、抱きかかえて滑らせるように僕と上下の位置を入れ替える。

 そうして、僕の上に乗ってきた妹が、

 押し当てられたままのナイフに向かって体を動かし、力を込めて自分に突き刺した。


 思考が一気に真っ白になる。

 一拍を置いて、どろどろと熱く煮凝った黒い情欲が、再び体を支配していった。

 妹が、自分の体から流れる血を手のひらで拭い、それをぺろりと舐め上げた。血が上ったのか、妹の赤く染まった頬は、熟した林檎のようだった。

 そのままこちらにその手を伸ばし、僕の頬に触れてくる。

 真っ白な肌に赤い血がべっとりとついているさまは、粘滑な蛇の鱗を思わせた。


 ――さあ、召し上がれ。


 その言葉と衝動に突き動かされて、僕はもう一度、妹にナイフを突き立てた。


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