秘めておかまし
店の前の桜がほころび始めると、思い浮かぶふたつの和歌がある。
ゆく春の 名残惜しさに 散る花を
袂のうちに 秘めておかまし
谷崎潤一郎の「細雪」の中で、花見のことを詠んだ幸子のものと、
翌朝に夫の貞之助がこのように訂正してはと隣に書いたもの。
いとせめて 花見ごろもに 花びらを
秘めておかまし 春のなごりに
物語の中では、彼らは毎年平安神宮の桜を愛でに行っていたらしいが、残念ながらシュウが前回日本を離れたのは平安神宮が創建される以前のこと。
いつか小説の中のしだれ桜を見に行きたいと思いつつ、まだそれはかなっていない。
ふと脳裏に、当時のほこりっぽい四条通(当然舗装などされていない)とその町並み、今とほとんど変わらない清水の舞台。そして料亭紫水へと続く小道などがよみがえる。結構な上り坂だったが、当時の人たちは急ぐとき、悠々と走り抜いたりもしていた。
今年も庭の桜がチラホラと花をつけ始めた。
由利香がいる頃は、早起きのシュウが庭の手入れをしていると、遅起きの由利香が窓を開けて、必ず桜におはようの挨拶をしていた。本人はその様子を毎朝シュウに見られているとは、少しも気がついていないようだったが。
いつもは、咲きはじめて、三分咲き、五分咲きと花が増えて、そのうち満開になって桜吹雪が降り注いだあと、たいてい雨で散ってしまうと言うのを流れるままに眺めるだけだったが、今年は少し趣向を凝らしてみようかという考えが、なぜかそのとき思い浮かんだ。
「お花見っすか? 店の庭で?」
「そう、桜の満開と土曜日が重なったら、そしてもしその土曜日が晴れたなら、という条件付きだけどね」
「で? なにをするの?」
「野点はどうかな」
朝食の席で出されたシュウの提案に、夏樹と冬里が興味を示す。
「あ、いいっすね! 桜の下でお手前するって事ですよね」
夏樹はすぐに賛成したが、さすがに冬里は一筋縄では行かないようだ。
「ふうん。じゃあその日は、ランチはお休みにするんだね」
「え? そうなんすか?」
「だって野点しながらランチ作るのなんて、さすがの僕たちも、分身でもしなきゃ出来ないんじゃない?」
「それはまあ、そうっすけど」
料理が出来ないとわかると、夏樹は途端にシュンとしてしまう。頭に耳がついていたらきっと垂れ下がっていることだろう。
そんな様子を苦笑しつつ眺めていたシュウだが、少し考えたあとに、また魅力的な案を出してきた。
「そうだね、だったら・・・朝からお花見弁当を作っておいて提供するというのは?」
「お花見弁当?」
「そう、その場で食べても、お持ち帰りして頂いても良いように。ただ、プラスチックの入れ物ではさすがに味気ないから、何かそれもうちらしく工夫して・・・」
すると、夏樹はぱっと顔をほころばせる。しっぽがあったらブンブン音がしているだろう。
「うわっ! それいいっす! じゃあ、早速お花見弁当どんなのがあるか勉強しなくちゃ!」
「それもいいけど、まずは本日のランチを完璧に仕上げようね~」
「あ、はい!」
嬉しそうに叫んだ夏樹は、急いで朝食を食べ終えて食器をキッチンへ持って行くと、
「じゃあ、ランチの仕込みしてきます。洗い物は夜に頑張りますんで、すんませんが、朝はお願いします」
と、腕まくりする勢いで裏階段を店へと降りて行った。
「・・・まったく過保護なんだから」
わざとらしくため息などついて、わざとらしく小さくつぶやく冬里に、シュウは可笑しそうに答える。
「もう言い逃れるつもりはないよ」
「へえ、とうとう認めちゃった」
肘をついて組んだ指にあごを乗せていた冬里は、あらぬ方角に目をやって何やら考えていたが、ふっと首をかしげて楽しそうに言った。
「じゃあ、お弁当箱は僕が用意するよ」
「そうなの? どうもありがとう・・・・」
と言っておいてから、いぶかしげに冬里を見るシュウに、彼はそのままの姿勢で目だけ彼に向ける。
「なーに?」
「なるべく、奇をてらったものは、やめて頂きたい、と」
「当たり前じゃない。さすがの僕も一般人の、しかもお客様に変な事はしないよ?」
本当かな、と苦笑しつつ、入れ物(お弁当箱)は冬里にお任せすることにしたシュウだった。
それから数日して、冬里が用意した弁当箱は、丸い竹かごのものだった。
お持ち帰り用に竹かごのふたもついていて、もちろん再利用出来るようになっている。
その提案をされてから、夏樹はネットや本でお花見弁当をこれでもかと言うほど研究して、パソコンと本にはとうとう穴が空いてしまった、と言うのは冗談で。
彼が検討し尽くして差し出されたメニューとイメージイラストに、シュウと冬里は大きく頷いて太鼓判を押す。そして、今日という日を迎えたのだった。
誰のおかげかはわからないが、桜は図ったように当日の土曜日が満開、おまけに朝の天気予報は地域のすべてが太陽のマークで覆われていた。
「すごいっすね! もしかして冬里っすか、晴れ男」
「まさか~シュウじゃないの?」
「・・・」
スサナルのいうイメージカラー通りだとすると、晴れ男は間違いなく夏樹なのだが、本人は少しも意識していない。
しかも、今日をずっと楽しみにして、毎朝のように桜に、土曜日に満開になって下さいとお願いしていたのもまた夏樹だ。さすがにそこまでひたむきに言われたら、桜の方も仕方がないと願いを聞き入れてくれたのだろう。
野点と言うことで、桜の木からは少し離れるが、店の玄関近くの平坦なスペースに、お手前用のテーブルや、紅い毛氈が敷かれた床机、同じく紅い和傘まで揃えてあって、なかなか本格的だ。店の前の通り道には、邪魔にならないように本日の趣向が書かれた看板が出されている。
そして。
「着物着るのなんて久しぶり、前にお月見したとき以来かも」
そこには、「細雪」の四姉妹よろしく、着物が美しい〈着物だけ?〉4人の女性が立っていた。
まず右端に、滝之上 志水。彼女は坂の下親方の姑さんだ。
その隣に、坂の下 史帆。彼女は親方の奥様だ。
そのまた隣には、依子が。彼女はシュウから招待されて、それならお手伝いするわとやってきたのだ。
そして最後に、おなじみ由利香。
あ、いや、もう1人。
着物を着るのなど七五三の写真館以来で、かなり窮屈そうだけれど、それでも嬉しそうにおすまししているあやねだ。親方が溺愛する自慢の娘である。
男性陣もお忘れなく。
まず坂の下工務店の社長であり親方の泰蔵。彼は貫禄のある羽織袴姿。
当然のように椿も羽織袴姿でいる。彼は今日、夏樹とともにお客様にお茶を点てる事になっている(彼の羽織袴姿に関しては、由利香が従業員に、素敵でしょ! 素敵よね! と強制的に認めさせていた)
あ、そうそう、志水さんのそばに影のように(本当に影なのですが)つきそう弦二郎さんも、今日は晴れの羽織袴姿だ。
もちろんそこまでこだわるからには、シュウと冬里も、お手前をする夏樹も、今日は袴着用だ。
そして依子と由利香は依子が言ったようにお手伝いとしてここにいる。
さて、以上が本日の主要人物・・・
?
にゃ~お~ん
あ、これは失礼。今日は特別ゲストとして、本物の? ネコ子が招待されている。依子とともに遠路はるばる奈良からやってきた彼女は、野点が始まる前にひとしきり庭の探索をしたあと、満足そうにタマさんが待つ2階へと上がってしまっていた。
常連さんたちには今日の趣向を押しつけがましくならないように伝えてあったためか、思いの外たくさんのマダムが着物で来店し、庭や店内で思い思いにお弁当を堪能しておられた。
ランチ時間が過ぎると、野点が始まる。
たまに来られる近くのOLさんたちにも話をしてあったので、「お正月以来だわ」「私は成人式以来よ」、などと話しつつ振り袖姿で野点の席に着き、その場を華やかに演出してくれている。
「うわ! 見違えますね・・って、いつも素敵ですけど、今日はよりいっそう素敵です!」
と道具を用意する夏樹に褒められて、
「きゃー朝倉さんお上手~」
と、また彼女たちのテンションが上がる。
そんなきれいどころにつられたのか、一陣の爽やかな風が吹いて桜が嬉しそうに花びらを散らしていく。
舞い上がり、雪のように落ちてくる花びらが長い袂に降りかかる様子は、遠い昔の絵巻物を彷彿とさせるようだ。
「ああ・・・綺麗っすね」
その光景を目にして夢見るようにつぶやく夏樹の、いつもと少し違う端正な表情に、着飾った女子たちは皆、ぽうっと頬を染めていくのだった。
お客様の笑顔に彩られ、お花見は好評のうちに幕を閉じることができた。自分が言い出したことなので、皆に喜んで頂けたのは、シュウにとってはとても喜ばしいことだ。
その夜、シュウは誰もいなくなったリビングで、ひとりソファに腰掛けながら今日1日を思い起こしている。
そういえば。
一日中着物を着ていたのは何十年ぶりだろう。慣れていない夏樹や椿は夕食前にさっさと着替えていたが、シュウはなんの違和感も感じなくてついそのままでいた。
さて、自分もそろそろ部屋へ帰ろうかと立ち上がって。
たすき掛けを外した拍子に、ひらひらと何かが床に落ちたのに気づく。
「?」
よく見ると、それは桜の花びらだった。ずっと着物とたすきの間にとどまっていたのだろうか。
拾い上げたそれを手に乗せ、しばらく思いにふけっていたシュウは、花びらをつまみあげると、いとおしそうに軽く唇に当てる。
そしてベランダへ出て、流れてくる風をとらえてふっと花びらを手から離した。
秘めておかまし 春のなごりに
小さくつぶやいて、花びらが消えた方を、しばらく見つめ続けていた。
こいのぼりのあとに、なぜか桜のお話しです。
作中に登場する谷崎潤一郎の「細雪」。
私は作者、ではなく、作品、に固執するタイプなので、谷崎潤一郎の著書では、「細雪」しか読んだことがありません。と言うか、他のものはあくが強すぎて途中でよろよろと放り投げました(T_T)
同じく、夏目漱石なら「吾輩は猫である」。漱石はそんなにあくは強くないけれど、やはり他のは読んでも、へえー、という感じです(文豪大好きな方、すみませんm(_ _)m)
で、引用した和歌は、空で言えるほどではありませんが、何巻のだいたいここらへんにあったなー、と言うくらいには読み込んでおります。というか何回読んでんねん(^_^;)
お花見も今年はままならなかったので、『はるぶすと』メンバーも遠出はせずに、すぐそこで楽しませて頂きました。




