中秋の名月
その日夏樹は、朝少し早い時間に、所用で駅への道を歩いていた。
「……、なつき」
「へ?」
知らない家の前を通りかかったとき、なぜか子どもの声で名前を呼ばれ、思わず立ち止まる。
辺りを見回すと、朝刊を手にした子どもと、その父親らしき人の姿が目に入った。
特にこちらに向かって言ったわけではないみたいだ。
夏樹が声をかけようかどうしようか戸惑っていると、子どもが手に持った朝刊を父親に見せている。
「なかあきのなつき?」
不思議そうに問いかける父親に、子どもの方はとても嬉しそうに言う。
「うん! ほら! ここに書いてあるよ」
どれどれと新聞をのぞき込んだ父親が、ああ、とわかったように頷く。
「そうか、今日は中秋の名月だ」
「ちゅう? しゅ?」
「ちゅうしゅうの、めいげつ。これはね、なかあきのなつき、じゃなくて、中秋の名月と読むんだよ。今日はね、一年で一番お月様が綺麗に見える日なんだ。それを昔の人はそんな風に表現したんだよ。日本語ってのは難しいんだよな」
「へえ、だって学校で習ったのは、そんな読み方してないもん」
「ははは、そうだな。けどきっともうすぐ習うさ」
そんな話をしながら、親子は玄関の中へと消えた。
「なーんだ」
自分が呼ばれたのではないとわかり、夏樹はほっと息をついてまた歩き出す。
けど。
今日は中秋の名月か、月が綺麗な日だ。
そういえば、いつだったか、リビングでお月見のお茶点てた事もあったよなあ、と、思いにふけり。
あれ? そういえば今年はなにもしないのかな、と、首をひねりつつ、夏樹は駅への道を急ぐのだった。
「あ! やっぱり何もなしじゃなかったんすね!」
今日はランチの仕込み前に出かけたので、涙をのんで? それを2人に任せていた夏樹は、店に帰るとシュウの書いた献立を見て、嬉しそうな声を上げる。
「なにがなにもなしなの?」
冬里が不思議そうに質問をしてくると、夏樹は元気よく答える。
「だって今日は、中秋の名月っすよ。一年で月が一番綺麗な日! んでもって、ススキと月見団子の日です」
「あ、そっか。この日に何もしないなんて、シュウの美意識が許さないよね」
「美意識とは少し違うような気はするけれど、せっかくだから」
「ランチのプレートに、ミニ月見団子って事ですね」
夏樹がそんな風に言ったのは、本日のお品書きの最後に、洋風にも和風にも、
月見団子(中秋の名月にちなんで。小さめのものをご用意しました)
と書かれていたからだ。
「あら、お月見団子って書いてあるから、丸いお団子かと思ったら」
「うさぎさん? 可愛いわねえ」
ランチタイムに訪れたマダムが、プレートのすみっこにちょこんとしつらえられた、本当に小さなうさぎ二羽と、月に見立てた黄色の丸い団子を見て楽しそうに言う。
「今日はお天気も良さそうだから、月が綺麗に見えそうねえ」
「でも、満月は明日なのよね」
「そうらしいわ、名月って言っても、満月とは限らないんですって」
「ねえねえそう言えばね」
お月見の話題から、おふたりのマダムの話題は、紅葉の名所へと、健康や長寿への関心へと、話題の美術展へと次々と波及していく。
カウンター越しに聞こえるそれらを心地よいBGMに変換しつつ、『はるぶすと』の料理人たちは、今日も心づくしのランチを提供していくのだった。
ディナーも終わり、最後の点検を済ませたシュウが2階へ上がると、ちょうどこの住宅街にも見える高さに月が昇っていた。
「あ、シュウさん、お疲れさまでした。月が昇ってきましたよ」
「ああ、そうだね」
リビングは今、月がよく見えるようにと明かりを落とし間接照明だけになっていた。カーテンを開け放した先に、明日には真円になる月が綺麗に見えている。
「でもこの月! なんかでっかくないっすか? それになんだか……」
「なんだか?」
「空に張り付いてるみたいに見えます」
夏樹が言うように、今年の名月は心持ち大きめに見える。スーパームーンとは言ってなかったが、と、シュウが首をかしげていると。
「そだねー」
空に張り付いたと言う夏樹の言葉に、冬里がいたずらっぽい笑顔で人さし指をくるくると回しはじめる。
これは……。
シュウが何やら予感したのと同時に、冬里が言い出した。
「だってあれ、本当に貼り付けてあるんだもん」
「ええっ?!」
「……冬里」
驚く夏樹と、やはり、という感じで額に手を当ててうつむくシュウ。
「では、僕が剥がして見せましょう……」
芝居がかって言った冬里は、おもむろにリビングの窓へ近づくと一度月を手で隠し、またぱっと手を外すと、月のふちに指をかけた。
「ペリペリペリー」
そのセリフに合わせて、なんと! 月が本当に剥がれ出したのだ。
「へ? ええーーー?!」
雄叫びを上げる夏樹に、窓が閉まっていて良かったとシュウが思ったかどうか。
「冬里、もうその辺で。夏樹もマジックが得意なら、この程度のネタはすぐ見破れるはずだよ?」
「へ? え? あ、そうか! 窓に投影したんすね」
「違うよお、本当に剥がしたの」
と、今剥がしたばかりの月を夏樹に渡す。
「あ」
冬里は窓に近づいたあと、その器用さで、外に見える月と寸分違わぬ所に月のシールを貼っていたのだ(なぜそんなものを冬里が持っていたのか、それこそが冬里マジックである)
当然、窓の外には本物の月がいまも輝いている。
「なんだあ」
「なんだあ、って、どしたの? こんな単純な手に引っかかるなんて、夏樹らしくない」
「だって冬里ですもん。俺、てっきり神さまに頼んで、本当に月を引っぺがしたんだと」
「なに? その、冬里ですもんって」
「へ? あ、あの……」
不穏な微笑みで夏樹に迫る冬里。顔を引きつらせて一歩後ずさる夏樹。
これはまたシュウの怒りを買うのか、と、思ったそのとき。
「なんだあ、月を引っぺがせばいいのかあ?」
天から声がした。
「冗談だろ、《すさのお》! 変な事はやめて!」
「けどよ、こいつらが言ってるんだぜ。面白そうじゃないか。兄上、ほれ、月を剥がしてみせろ。兄上が出来なけりゃ、俺がやってやる」
なんと、またまた神さまのご登場です。
面白そうに月を引っぺがすと言っているのは、《すさのおのみこと》。
必死でそれを止めようとする、《つくよみのみこと》。
「だめだよ! 今日は中秋の名月だよ。皆が今日のこの日に月を愛でているんだから。……姉上~、あねうえ~、なんとか言ってやって下さい」
「ほほう、また《すさのお》が何か悪さをしておるのか?」
「してねーよ」
姉上と呼ばれたのは、《あまてらすおおみのかみ》。
この3姉弟が来ると、こちらも一波乱ありそうな予感。
「あれ? 何か始まりそう。夏樹、グッジョブだよ」
「え、でも、なんか、《あまてらす》さんからものすごく恐ろしげな気が……」
嬉しそうな冬里と、また違う意味で顔を引きつらせた夏樹の後ろで、大きなため息が聞こえた。
「お三方、もうその辺で。今日は名月にちなんで、私が月見団子をお持ちしますので、どうぞ、《すさのお》さんのお宅でお待ちください」
この場をおさめられるのは、やはり愛の魔王? たるシュウしかいないだろう。
「本気で、お作りしましょう」
「「「おおーーー!!」」」
このあと、《すさのお》宅は、シュウの本気をひとくち! と押し寄せた神さまで、やんやの騒ぎになったとか。
広間ではまだ賑やかに宴が続いている。どうやらこれからカラオケが始まるようだ。
「クラマは帰っちまったのか?」
宴から外れ、縁側で一息ついていたのだろうか、所在なげに月を見上げていた《つくよみ》に、ヤオヨロズが声をかけた。
「よっこいしょ」
自分も縁側に出てくると、じいさんのようなかけ声をかけて腰を下ろしたヤオヨロズの前に、いつの間にか、ガラスで出来た美しいフォルムの徳利と、杯がふたつ、盆に置かれていた。
「どうだ?」
徳利を持ち上げるヤオヨロズに微笑んで、《つくよみ》もまた、
「よっこいしょ」
と、爺むさい言い方をして腰を下ろした。
杯を持ち上げて酒をついでもらった《つくよみ》は、ほんの少しそれに口をつけてから、月を見上げて言う。
「今日は珍しく、クラマが早く帰りたいと言い出して」
「ほう」
《つくよみ》の話によると、本気を込めた月見団子を提供した後、クラマは「明日も仕事がありますので」と、言い訳ともつかないセリフを残して、早々に引き上げてしまったそうだ。
「あのせいですよ」
見上げた先には、中秋の名月。
月を愛でたいがために早く帰りたい。
なんとも奥ゆかしいわがままだ。
「それだけじゃなくてね」
「知ってるさ、あいつは月と語り合うんだろう?」
杯を傾けながらニヤリと笑うヤオヨロズに、《つくよみ》は心持ち不満そうだ。
ほんの少し唇を尖らせた《つくよみ》が言う。
「月とクラマのお話しには、僕でさえ介入させてもらえないんですから。妬けちゃいますよね」
けれど次の瞬間には、見つめたままだった月から目をそらさず優しく微笑んだ。
「でも、きっと素敵な話なんだろうな。だってあんなに楽しそうだもの」
2人の視線の先、雲ひとつない晴れた夜空に、煌々とあたたかい月が輝いていた。
今宵もまた、シュウが月とどんな話をしたのかは、誰にもわからない。
中秋の名月、皆さまは楽しまれましたか?
ふと見上げた今年のお月様は、夏樹が言うように、空に張り付いてるんじゃない? と思うような幻想的で少し大きめの月でした。




