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夕立と入道雲


 立秋が過ぎたあたりから、本格的な夏が始まる。

 せみは一斉に羽化して、脳にギンギン響き渡る周波数で大合唱をし始める。

 太陽が顔を出すと同時に気温がぐんぐん上がりだし、日が落ちても、もわんとした蒸し暑さが残っている。いわゆる熱帯夜が始まるのもこの頃だ。


 そんな中。


「それにしてもあっついっすねー!」

 その名の通り、夏に咲くひまわりのような明るさで、夏樹が庭に水やりをしている。

 彼ほど夏にふさわしい男子はいないだろう。

 ホースから飛び出るキラキラした水滴のような爽やかな笑顔と、暑苦しいほど元気な話し声。

「今日はまた気温が昨日より上がるみたいっすよお」

 草花の手入れをしているシュウに水がかからないよう、細心の注意を払いながら夏樹は声をかけた。

 ちょっと前に、話しかけようと振り向いて、手に持ったホースまでシュウに向けてしまったことがあるのだ。

 そのときは、シュウはずぶ濡れのまま苦笑いで許してくれたけど。

「まあ、★市は近隣でも気温は低い方だから、そこまで高くはならないと思うけれど」

「あーそれは言えてますね」

「けれど、店を開ける前にもう一度、エントランスに水をまいておいてくれるとありがたいね」

「はい! 打ち水ってやつですね! 了解しました!」

 夏樹はピッと格好良く敬礼のまねごとをしようとした、のだが…。

「うわあっ!」

 悲しいかな、敬礼の手の方にきっちりホースが握られていて。

 水を浴びたシュウではなく、水をかけた夏樹が大声で叫んでいた。

 その前には、苦笑いでずぶ濡れのシュウがいた。


「すんません……、1度ならず2度までも……」

 脱衣所の扉の前で、なぜか正座した夏樹がしゅんと肩を落としている。

「ホントだよ。けど、2度あることは3度あるって言うからねえ、今度はいつかなあ」

 その後ろで面白そうに声をかける冬里から、ついさっき「なに? またシュウに水かけたの? ひどーい。夏樹、ちょっとそこへ正座なさい」と、以前誰かに言われたようなお小言を賜ったからだ。

 着替えるついでにシャワーを浴びたシュウが脱衣所の扉を開けると、忠犬よろしくそこに正座していた夏樹が、ばっと顔を上げる。

「シュウさん! すんませんでした!」

 その言葉と同時に、今度はばっとひれ伏している。

 それを見ながら違う意味で苦笑いしたシュウが、夏樹ではなく冬里に声をかける。

「正座を強要したのは冬里?」

「強要なんてしてな~いよ?」

 どうだか、と言う顔でシュウは今度こそ夏樹に声をかけた。

「大丈夫、私は怒っていないよ、夏樹。草花の手入れで汗も掻いていたし、服も汚れていたからね。シャワーしようと思っていたからちょうど良かったんだよ」

「シュウさん……」

 顔を上げて目を潤ませる夏樹に、冬里が肩をすくめたあと「ほーんと、過保護」と、なぜか楽しげに笑いながらリビングへ行ってしまう。

 手を貸して夏樹を立ち上がらせると、自分は自室に向かいながら彼に言う。

「喉が渇いたので、何か冷たいものを用意してもらえるとありがたいのだけれど。そうだね、アールグレイをアイスで」

 そのオーダーを聞いたとたん、夏樹は目を輝かせて、今度こそ何も持っていない手で見事に敬礼をして見せた。

「ラジャーです!」


 その日ランチがオープンしたところで、エントランスに打ち水をしていた夏樹が、お客様のマダムとともに店に入って来た。

「お好きな席へどうぞ。でも、それにしても真っ白な雲でしたねー」

「ええ、あんなに綺麗な入道雲を見るのは、久しぶり」

 お気に入りの、端から3つ目の席に着いたマダムは、シュウと冬里にも目をやりながら言う。

 すかさず窓からチラリと外をうかがった冬里の目にも、青空と、もくもくとわき上がる白い雲が見えた。

「今日は抜けるような青空ですからね。そのコントラストがえもいえず美しい」

「まあ、紫水さんはいつでも詩人ね」

「恐れ入ります」

 胸に手を当ててニッコリ笑う冬里に洋風ランチをオーダーして、マダムは、クラッシュアイスが浮かぶ水を、美味しそうに一口召し上がられたのだった。




 次の休日も、朝からきれいに晴れていた。

「今日も入道雲が出てきそうな暑さっすね。けど、なんで日本ではあの雲の事を、入道雲っていうんすか?」

 カンカン照りの太陽を見上げて、夏樹が誰にともなく質問する。

「入道にはいろんな意味があってね。まず、仏門に入ったえら~いお坊さんのことをそう呼んでいる」

 冬里の説明を感心したように聞いていた夏樹が、わかったというように手を打つ。

「へえー、……あっそうか! 奈良に行ったときに見た大仏様がお坊さんなんすよね? と言うことは大仏様をあの雲に見立ててるんすよね。なんせあんなにでっかいんすから」

「夏樹、奈良の大仏は盧舎那仏るしゃなぶつと言ってね。仏教の教えを神格化した仏さまなんだ。お坊さんとはまた少し違うんだよ」

 今度はシュウが諭すように説明する。

「へえー、そうなんすか」

 また感心したように夏樹は頷く。

「で、その他の意味としては、坊主頭の妖怪の事を大入道って言うんだけど、その大入道から来てるって説が多いよね。けど、これだって確かじゃないよ。呼び名なんて、だいだいそういうふうにあやふやなもんじゃないの?」

 冬里の説明を、ふむふむと頷きながら聞いていた夏樹だったが、

「結局、真相は闇の中ってことっすね」

 と、わかったように言うので、シュウと冬里は顔を見合わせて笑うしかないのだった。


 その日、ランチを軽く済ませると、シュウは散歩の時によく使っている鞄を持ってリビングにやってきた。

「じゃあ、私はちょっと出かけてくるよ」

「このくそ暑いのに、律儀にお散歩?」

 茶化すように冬里が言うが、シュウは気にせず微笑んだ。

「駅前の本屋に行きたくてね。けれど、どのみち散歩には変わりないね」

「はいはーい。でも、途中で倒れたりしないように気をつけるんだよ~」

 冬里はソファからひらひらと手を振っている。

「いってらっしゃい。暑いっすから、たとえシュウさんと言えども、十分気をつけて下さいよお。水分補給は忘れずに、です」

 夏樹はシュウに関しては、なぜか心配性だ。

「わかったよ」

 苦笑しつつリビングを出て行こうとしたシュウだったが、ふと思いついたようにきびすを返してそのまま自室へ入っていった。

「どうしたんすか? 珍しいっすね、シュウさんが忘れ物なんて」

 再び出かけようと自室から出てきたシュウに、夏樹が不思議そうに聞いている。

「ああ、いや、今日はこれを持って行った方が良いような気がして」

 鞄から取り出したのは、折りたたみの傘。

「ああそうなんすか。けど、今朝の降水確率、0%から10%未満でしたよ」

 不思議そうに首をかしげる夏樹。

「チッチッチ、夏樹。千年人の第六感、あなどっちゃいけないんだよ」

 冬里が面白そうに口を挟んできたのに、夏樹はあっさり納得する。

「そうっすね、なんせシュウさんですもんね」

「あれ?  ずいぶん聞き分けがいいね、なにそれ~」

 楽しそうな2人のやりとりを聞きながら、シュウは今度こそリビングを出ると、裏玄関へ続く階段を降りて行った。



 駅前の書店でお目当ての本を手に入れたシュウは、炎天下を歩いて帰る前に、夏樹の言う水分補給をしておこうと思い立った。

 「★駅」はそれほど小さくはない駅なのだが、珍しいことに大手チェーンのカフェやファストフード店は一つも見当たらない。

 そのかわりに、店主の趣向がちりばめられた個性豊かな店が、ぽつぽつと間隔をあけてそこここにある。

 その中でも、落ち着いた店主が美味しい珈琲を出す喫茶店に足を向けた。

 本屋にほど近いその店に向かう間すら、日差しはジリジリと彼に照りつけてくる。いつの間にか入道雲は大きくなり、いわゆる積乱雲に変化をしているようだ。これは一雨来るかもしれない。

 軒先の日陰に入ると、それだけで気温が下がったような感じがした。

「いらっしゃいませ」

 年季の入った扉を引いて店内に入る。シュウの姿を確認した店主が口の端を心持ち持ち上げた。

「お暑いわね。奥の席空いてますよ」

 店主は親切に教えてくれる。

 同業のよしみで彼女とは集まりなどで何度か顔を合わせているし、シュウはこの店の珈琲がが好きなので、散歩の途中によく利用しているからだ。

「ありがとうございます。おすすめの珈琲をホットでお願いします」

 席に向かう前に、オーダーも済ませておく。


 エアコンがほどよく効いた店内には、カップルや女性同士のグループ、外回り風のサラリーマンなどが思い思いに時を過ごしている。

 本日のおすすめ、マンデリンを味わっていると、外が少し薄暗くなってきた。

 どうやら道すがら、かすかに聞こえていた雷の音はこちらに向かっていたようだ。

 飲み終えたカップをソーサーに置いて、シュウは伝票を手に立ち上がった。

 

 分厚い雲のカーテンの上から一瞬光がこぼれ、しばらくするとゴロゴロと少し大きめの音がした。

 ポツポツと道に雨が落ちてくる気配もしている。

「わあ、降ってきたよ」

「さっきまであんなに晴れてたのにねえ」

 そんな声に店の外を見やると、すでに結構な量の雨が降っているのが見えた。

「どうします? 雨がやむまでいらしても良いですよ」

 レジで珈琲代の支払いを済ませたばかりのシュウに、店主が聞いてくる。

「いえ、私はこれを持っていますから」

 と、鞄の中から折りたたみ傘を取り出して見せた。

「それなら大丈夫ね」

「はい、ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

 笑顔で見送る店主に笑みを返して、シュウは喫茶店の扉を押した。


 店を出て、軒先で傘の用意をしていると、バシャバシャと走る音がして、誰かが「わあ」と言いながらシュウの少し向こうに飛び込んでくる。見ると、母親と小学生くらいの女の子が息を切らせている。急な雨に降られてここまで走ってきたらしい。

「嫌だわあ、天気予報の降水確率、10%未満だったのよお」

「お母さん、10%もあるんだから、傘くらい持ってなきゃ」

「ええー? 未満よ、未満。この確率で傘持ってる人なんて、そうそういないわよ」

 その言葉に、傘を持つ手がしばし止まってしまって思わず苦笑いのシュウ。

「でもお母さん、急がないと、電車が来ちゃう。これに乗り遅れたら次まで25分もある! 間に合わないよー」

「ちょっと落ち着いて、大丈夫。ここから駅まで5分とかからないわ、頑張って走りましょ」

 聞くともなしに耳に飛び込んできた話から想像すると、この親子は次の電車に乗り遅れるとまずい事になるようだ。

 よく見ると2人ともけっこうおしゃれをしている。

 たとえ頑張って走ったとしても、この雨の量では駅に着く頃にはそのおしゃれも台無しだろう。

「よろしければ、この傘を使って下さい」

「「え?」」

 声をかけながら、もうすぐにでもさせる状態の折りたたみ傘を差し出すシュウに、同じように振り向いて、同じように声を上げる母と娘。

「え? でも、」

「この雨の中を5分も走れば、駅に着く頃にはおふたりとも濡れ鼠ですよ。それにおふたりとも、どうにも100メートル走には向かない出で立ちですし。袖振り合うも多生の縁と言います。どうぞ」

「でも、あの、それだと貴方が」

 言いにくそうに言う母親に、シュウは小さく微笑んで出てきたばかりの喫茶店をチラリと見る。

「私は特に急ぎませんので、雨がやむまでここで雨宿りしています。早くなさならいと、電車が来てしまいますよ」

 それでもまだ受け取ろうかどうか迷っている母親の横から、ぬっとキャラクターのついたメモ帳とペンが差し出される。

「?」

 不思議そうにしたシュウに、女の子がちょっとすまして言う。

「おじさん、ありがとう。後で絶対返すので、ここに連絡先を書いておいて下さい」

「ああ、いいえ…」

「こいつはな、この先にある『はるぶすと』って店の料理人だ」

 否定しかけたたシュウの後ろで声がした。

 驚いて振り向くと、いつの間に現れたのか、そこにはニンマリと微笑んだヤオヨロズが立っていた。


「そのお店、知ってる! とっても素敵なお庭と、綺麗な桜があるでしょ!」

 すると『はるぶすと』の名前を聞いた娘の方が嬉しそうに言う。

「なんのお店だろうねって、お母さんと話してたの。へえーおじさんはあそこの人なんだ」

 シュウは言うつもりはなかったのだが、ばれてしまったのなら仕方がない。

「はい、ですが、急ぎませんし、本当にあのあたりに用事があるついでで結構ですので」

 そう言い添えると、もう一度傘を差し出した。母親は傘を見て、シュウを見て、最後に頷く娘を見てやっと決心したようだ。

「ありがとうございます。では、遠慮なく」

 頭を下げた彼女は、チラと腕時計に目を走らせると「大変」と言いつつ、傘を広げた。

 折りたたみだが、意外にも広げると大きなこうもり傘ほどになるそれに、娘が嬉しそうにはしゃいで言う。

「うわあ、これなら充分2人で入っていけるね」

「そうね。では、お言葉に甘えて。必ずお返しします。……さ、急ぐわよ」

 最後の言葉を娘にかけて、母親はもう一度軽く礼をすると、急ぎ足でその場を後にした。

「ありがとう、おじさん!」

 振り返って手を振る娘に、シュウは軽く手を上げて答えた。


「おじさん、だと」

 シュウの隣に来てニヤニヤしながら言うヤオヨロズに、彼はらしくなく肩をすくめる。

「小学生から見れば、私は立派なおじさんですよ。ところで、どうされたのですか?」

「クラマは第六感ですら、自分のためではなく他人のためにあるんだな」

「え?」

「いや、傘が役に立って良かったなってことだ。でな、俺はこれから急いで『はるぶすと』へ行かにゃならんのだ」

「そうですか、それではお急ぎ下さい。私はもう一度この店で雨宿りを、……!」

 シュウの言葉は、そこで唐突に途切れた。

 ヤオヨロズは、背の高いシュウより縦にも横にも大きく出来ている。その彼が、シュウの肩を抱くようにすると、有無を言わさず通りへと歩き出したからだ。

 結構な量の雨は、またたく間に2人を濡れ鼠にしていく。

「ヤオヨロズさん、急いでおられるのですよね?」

「ああ、だからこうやって急いでるんだ」


 ご存じの通り、ヤオヨロズは神さまだ。急ぐのならいつも通り、ズガガーン! と爆音とともに移動すればすむ話。

「何か理由があるのですよね」

 ため息をつきつつ言うシュウに、ヤオヨロズが頷きながら言う。

「お前さんだって、もう夏樹がしょんぼりとしおれる姿は見たくないだろう?」

 この場面で夏樹がどう関係するのか、シュウはまるで冬里のような話の持って行き方にあきれつつ、首をかしげてみせる。

「2度あることは3度ある。こいつが3度目の正直だ」

「それは……」

 シュウはようやく合点がいった。

 きっと夏樹はいつかまたシュウに水を浴びせかけるドジを踏むのだろう。シュウだってそう何度も朝早くから水浴びはしたくないし、季節的に今なら問題はないが、これが真冬となると話は違ってくる。

「夏樹を助けて下さったのですか」

「ああ、ついでにお前もな。氷点下の水浴びはさすがにきついだろ?」

 やはり3度目は冬になるはずだったようだ。


 シュウはそこであることに気がついた。

「もしかして、傘を持って行くようにさせたのも、ヤオヨロズさんですか?」

 今日に限って、シュウは傘を持って行かなければと強く思ったからだ。

「うん? いいや、あれは正真正銘お前の第六感だよ。けど、あのときに名乗らなけりゃ、あの母親はすんなり傘を受け取らなかったぜ。だから俺がちょっとお節介したんだ」

「そうなのですか。ありがとうございます」

 律儀に頭を下げるシュウに、ヤオヨロズはいたずらっぽく笑って続きを話す。

「それに、傘を受け取ってもらわなきゃ、3度目の正直が出来なかったからな」

「ヤオヨロズさん……」

 今度はあきれたように言うシュウの、肩に回した手に力を込めてヤオヨロズは嬉しそうに言う。

「俺は、お前さんたちが可愛くて仕方がないんだよ」

 そのセリフを聞いて身体から力が抜けるように笑うシュウに、もう抵抗する気配がなくなっただろうと肩から手を離したヤオヨロズは、そのまま手を背中に当ててポンポンと軽く叩いてやる。

「ありがとうございます。ですが」

「ん?」

「この状態で帰ったら、夏樹が大慌てでしょうね」

 シュウは、ずぶ濡れの2人を見た夏樹がアタフタしながらタオルを取りに2回へ駆け上がり、

「でも、シュウさん傘持って行きましたよね? どこに忘れたんすか?」

 タオルを差し出しながら、怒ったように聞いてくるのだろうとか。

「連絡くれれば、すぐに飛んで行ったのに」

 理由を知って今度はすねたように、唇をとがらせるのだろうとか。

 そんな予想が目に浮かび、うつむいて優しく微笑んでしまう。

 ヤオヨロズも「あいつが慌てる様子が目に浮かぶぜ」と、豪快に笑い出すのだった。



 彼らが楽しそうに歩く後ろへと、雨雲は徐々に遠ざかっていく。


 もう少しで、空には虹がかかりそうだ。




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