執着の始まりは
アレンの顔が、近い。
あと少しでも近づけば、鼻先が触れ合いそうだ。
リーリアは頬に添えられる手をそっと退けることはもちろん、身動き一つすることさえ出来なかった。
そばに控えているマリーも、立場上、アレンを止める事など出来るはずもない。
リーリアは震える声を絞り出した。
「……確かに、わたくしが勝手にアレン様を疑ってしまったことは、大変申し訳なく思っております。しかし、ミシェル嬢との浮気の噂が広がっているにも関わらず、アレン様が何も教えてくれなかったのも、また事実です。……ですから、どうか教えて下さい。ミシェル嬢との取引とは、一体何なのですか?」
声こそ震えているが、この状況下でもアレンに凛とした眼差しを向けるリーリアに、アレンは意表を突かれたように、その目を見開いた。
そしてするりと手を離すと、ため息をついた。
「だから、以前伝えただろう?ミシェル嬢は君に危害を加えようとしていて、僕はそれを避けるために、ミシェル嬢の言う事を聞いているフリをしている、と」
「……ええ、確かに伺いました。ですが、わたくしにかけられている封印は、伯爵の仕業です。それに、アレン様がミシェル嬢の要求を飲まざるを得ないほどの、彼女の脅し文句とは、いったい何なのです?」
リーリアはアレンを見つめた。今まで、こんなふうに切り込んだことは無かったため、正直内心では不安な気持ちで揺らいでいたが、リーリアは、母に言われた通り、アレンに正面から向き合わなくては、という強い意志を持っていた。
しかし、目の前にいる王太子は、すっと目を逸らした。
「……悪いが、それだけは言うことが出来ない」
「もしミシェル嬢に口止めされているんでしたら、ここにはわたくしとアレン様とマリーの3人しかおりません。わたくしもマリーも、絶対に口外いたしませんわ」
マリーも軽く頷いて見せた。
だが、アレンは首を縦に振らなかった。
「駄目だ。今は教えられない。だけど、これだけは信じてくれ。僕は君を裏切ってなどいない。君は僕の、大切な婚約者なのだから」
(……この台詞も、何度目かしら)
リーリアは俯いた。自分とアレンは、どこかで根本的にすれ違っている。それに、この期に及んでも彼は、やはり自分の不安な気持ちに応えてくれようとはしない。
すれ違いが起きている今、彼女が欲しいのは、そんな甘いだけの、愛を語る言葉では無いのだ。
「………少し気分が優れませんので、自室に戻らせていただきますわ。それでは、失礼いたします」
「待ってくれ、リーリア、僕は……」
振り返る前、リーリアに向かって手を伸ばすアレンの、悲しみに歪んた顔が見えた。
リーリアは胸がちくりと痛んだが、それに気づかぬフリをして、マリーと共にアレンの部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
部屋は静まり返り、アレンは悲痛な面持ちのまま、伸ばした手を下ろし、がっくりと項垂れた。
窓から差し込む夕日が、俯いている彼の顔を照らす。
彼は肩を震わせていた。
「………ふ、ふふっ……ふはっ、あはははははっ」
先ほど見せていた悲しみの表情とは打って変わって、彼は額を手で押さえ、笑っていた。
「ははっ、まさか、リーリアがあそこまで僕を疑っているとはね!僕といる時は、いつも綺麗なお人形みたいに、ただ微笑んでいただけだったのに!」
もともと、アレンは彼女が自分を愛していない事など分かっていた。なぜなら彼女は、公爵家の長女として、そうするのが当然だと、あたかも婚約が天命であるかのようにそれを受け入れているだけなのだから。
だが、それはアレンにとって大変好都合だった。
幼い頃、親同士が決めた婚約者に、アレンは本当に恋をしていた。
幼い頃から綺麗で愛らしかったリーリア。そんな彼女が自分のお嫁さんになる、そう考えただけで、毎日胸が躍るようだった。
しかし、そんな幸せな気持ちは、ある日を境に消えてしまった。彼女の秘めている力のせいで、彼女が自分の前から居なくなってしまう、その危険性を彼に囁いてきた男がいたのだ。
誰かにリーリアが奪われる。少年だったアレンにとって、それは、何よりも恐ろしい事だった。
だから、上手くリーリアを囲い込んだ。そう思っていたのに。
「……ミシェルさえいなければ、今頃僕はリーリアと結婚していただろうね。やはり、少し時間を取られすぎてしまったようだ。リーリアも、公爵家で何やら大規模なお茶会を開いたり、あのメイドも街をうろついていたりしているみたいだし……まあ、彼女も僕を疑って、色々足掻こうとした、ということだろうね」
先程、リーリアが自分に向けてきた、真っ直ぐで力強い眼差し。
それも十分、アレンにとっては意外性が高く、想定外のことなのだが、彼の頭をずっと支配しているのは、以前街で見かけた、“リーリアによく似た少女”のことだ。
町娘の格好をしていたが、髪色と瞳の色はリーリアと同じだったし、何より彼女によく似ていた。だが、あれが本当にリーリアだとすれば、隣にいた男は一体誰なのか。
(リーリアは魔導会と手を組んでいる可能性が高いと、そう聞いたけど、あの男は魔導会の人間という事か……?魔力査定の時、魔導士の中に、あんな男は居なかったと思うんだが……)
考えれば考えるほど、アレンの顔は、憎々しげに歪んでいった。自分の知らないところで、彼女がどんどん変わっていく事が、許せない。
「…………ああ、本当に、怒りで気が狂いそうだ」
アレンがそう呟いた瞬間、彼の手から放電したように光が弾け、絨毯を少しだけ焦がした。
アレンは舌打ちをすると、焦げ跡を靴で踏み潰した。彼は深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着かせると、独り言のように呟いた。
「何にせよ、あと3日でミシェルも、魔導会も、邪魔者は全て消える。リーリア、君はもう逃げられないんだから、大人しく僕に囚われるしかないんだよ」
口角を上げたアレンは、先程リーリアから隠した魔導書を取るべく、本棚へと歩いて行った。




