豹変する王太子
「お、お母様?一体何のことでしょうか?」
リーリアは母の視線を受け止め、思わず背筋をピンと伸ばした。リューネは目を細めて笑っている。威圧感が並大抵のものではない。
「そうねえ、まさかとは思うけど、あなた、殿下に隠れて、裏でコソコソと婚約破棄を企んでいたりしてないわよね?」
直球で胸の内を言い当てられ、リーリアは思わずビクッと肩を跳ねさせた。隣に座っているマリーは、少し慌てたように口を開いた。
「で、ですが、このままだとお嬢様は半ば強制的にアレン殿下と結婚させられてしまうと、そう思って私がお嬢様に要らぬ入れ知恵を致してしまいました。ですので、お嬢様は何も、」
「リーリアもマリーも、よく聞きなさい」
「「……はい」」
リーリアは久しぶりに、母親に怒られるという時間を味わっていた。やはり、母は強しという言葉は真実である。
「いい?こういう時はね、自分が非になるような行いをしてはいけないの。婚約者に黙ったまま、婚約破棄を裏で企むことが、婚約者に対する裏切り行為であることぐらい、リーリア、あなたが分からないはずないわよね?」
「……ええ、仰る通りです」
「でも、勘違いしないで頂戴ね。母は何も、あなたに結婚しろと言っているのではないのよ」
「…………え?」
リーリアは目を瞬かせた。話の流れからして、結婚を受け入れることが正しい行いだ、と言われると思っていたからである。
「リーリアのやろうとしていることは、いけない事だと思うわ。でも、アレン殿下もかなり強引に進めようとしているけど、それも決して褒められた行いではないわよね。それに、嘘の手紙を書いて、婚約者の実の両親を騙そうとするなんて、母として、そんな男に娘を預けたいと思うはずがないでしょう」
リューネは先程のアレンの様子を思い出して、ため息をついた。
「それに、これは私の直感に過ぎないけど、彼、あなたをミシェル嬢から守ろうとしている“正義のヒーロー”には、どうしても見えないのよね………何か裏の顔がある、そんな予感がするわ」
それについては、マリーもリーリアも思い当たる節があった。アレンが時折見せる冷たい表情や、まるでなにかに取り憑かれているような眼差し。それらから彼が何を考えているのか、いつも読み取ることはできない。
「では、お母様は、アレン様との結婚には反対していらっしゃると?」
「……まあ、そうなるわよね。でも、だからと言って“やっぱりなかった事にします”では許されないということも分かっているわ。だからこそ、ここは慎重に相手を見極めるべきよ。間近に迫った結婚を回避しつつ、相手が本当に信頼できるかどうか、見極めるの」
リューネはリーリアを見つめ、今度は本当の温かい笑みを彼女に向けた。
「何にせよ、決して感情のままに考え無しで行動してはいけないわ。結婚の件で、もし殿下に非があろうとも、あなたは正しくありなさい。これは今回に限った事ではなくて、相手に自分の弱味を握らせず、こちらは相手の弱味を握り、使い倒すのが、貴族の正しい戦い方よ」
リューネの微笑みは、優しさだけでなく力強さを含んでいた。母でもあり、貴族社会を生き抜いてきた女性の顔でもある。
「……分かりました。ありがとうございます、お母様。最近のわたくしは、随分子供じみた考え方をしておりましたわ……」
リーリアは俯いた。しかし、リューネはくすりと笑うと、リーリアに向かって手を伸ばした。
「お、お母様!?」
リューネは優しく、ゆっくりとリーリアの頭を撫でていた。何年ぶりか分からないその行為に、リーリアは懐かしさを覚えると共に、恥ずかしさで顔を赤く染めた。
「マリーが生まれてから、リーリアはお姉さんとして、すごく頑張ってくれていたわよね。私も、リーリアはもう16歳だから、と思って一人前に扱っていたわ。でも、“まだ16歳”とも言えるのよね……。決してあなたを馬鹿にしているのではないのよ?ふふっ、そうではないのだけど、今こうして、あなたの世話を焼けるのが嬉しいの」
リーリアは、恥ずかしそうに視線を彷徨わせながらも、されるがままに髪を撫でられていた。そういえば、最後に母が自分の髪に触れられたのは、いつだっただろうか。
一方、リューネは、すっかり綺麗な乙女に育った娘の髪を撫でながら、少しだけ胸を痛めていた。
(……本人の意思とは関係なく決めてしまった婚約だけれど、小さい頃から殿下の方はリーリアに恋をしているみたいだったから、何の問題もないと思い込んでいたわ。でも、リーリアにとって婚約は義務で、感情が伴っていなかったのだとしたら、母である私がそれに気付いてあげるべきだったわね)
リーリアは母の手が髪から離れると、母の目をしっかりと見た。
「これからは、貴族として、いえ、1人の人間として、恥じない戦い方をいたしますわ。まずはダメ元で、アレン様に結婚の延期をお願いしてみようと思います」
「ええ。結果がどうであれ、言葉にして伝える事は大切だわ。それでもなお、殿下が強引に進めようとなさるんだったら、母に手紙で伝えて頂戴。力になるわ。国王陛下に直訴することも厭わないわよ」
「ありがとうございます、お母様」
「では、また来るわね。今日こうして我が娘が健康に過ごしていることを直接確認できたわけだし、もうリーリアとの接触を妨げる理由もないでしょうから」
「はい、お待ちしておりますわ」
リューネが部屋を出て行き、リーリアとマリーは2人で顔を見合わせた。そして、同時に、気恥ずかしそうに口元を緩めた。身分の違いはあれど、まるで姉妹が2人で一緒に母に叱られたような、そんな感情を共有していたのである。
リーリアは自分の頬を両手で包み込むと、気合を入れ直した。
「さあ、マリー。アレン様のお部屋に行って、早速お話ししましょう。手紙の件も気になることだし」
「はい、お嬢様」
しかし、2人はしばらく王宮内を歩き回ったが、アレンの姿は見えなかった。
「お部屋にいらっしゃるのかしら……?」
最終的にアレンの部屋の前まで来たリーリアは、扉を2回ノックした。だが、何の返事も返ってこない。
(ノックが聞こえていないとか?もしかして中にいらっしゃるのかもしれないし、少しだけ覗いてみようかしら……)
「……アレン様、失礼いたします」
リーリアはそうっと扉を開けた。
なかなかの広さがある部屋の中を見渡してみたが、そこには誰もいない。
「やはり、いらっしゃいませんでしたか?」
「ええ。仕方がないわね。戻りましょうか」
そう言って踵を返そうとしたリーリアの視線の先で、一冊の本が目に止まった。それは机の上に置かれてあり、表紙には、何やら鷹のような絵と、雷をモチーフにしたエンブレムが刻まれている。
(あれは、魔導書?)
本が気になったリーリアだが、流石に母のあの説教の後で、他人の部屋に入り机の上の本を覗くような事など、出来る訳がなかった。
リーリアは本を手に取りたい気持ちをぐっと堪え、そっと扉を閉めた。
「こんなところでどうしたの?リーリア」
突然のアレンの声に、リーリアの心臓は飛び跳ねた。
「え、ええと、アレン様を探しておりました。少し、お話ししたい事がございまして……」
「そうか。こんなところで立ち話もなんだから、部屋の中で話そうか」
アレンに促され部屋に入ったリーリアは、先ほど気になった本を再び視界の中に捉えた。アレンはそんなリーリアをチラリと見ると、さりげなく本を手に取り棚にしまいながら、リーリアに問いかけた。
「それで?話というのは?」
「……あの、こんな事を申し上げるのは大変申し訳なく思うのですが、出来れば、結婚を少し、延期して頂きたいと思っておりまして……」
「へえ、それはまたどうして?」
「先程、母と話していた際に、わたくしは心の準備が全く整っていないという事に気付かされたのです。このまま、きちんと心構えをしないままでは、アレン様に相応しい相手には到底なれませんわ。ですので、あと6日のところを、少々伸ばしていただきたく……」
「心の準備、ね」
アレンの瞳がすっと細められ、彼の纏う空気が一変した。
「そんなもの、必要ないよ。君の母上に何を吹き込まれたのか知らないけど、僕と君は婚約していて、僕は君のことが好きで、婚約を邪魔しようとしてるミシェルはもう少しで消える。ほら、何も問題ないだろう?君が心を落ち着けるのは結婚した後でも、僕は全く構わないよ」
リーリアの意思など関係ない、とも取れるその言葉。さらに、アレンは彼女に口を開く時間を与えない。
「君は昔から、とても家族思いだったよね。妹のことも溺愛しているし、何より責任感が強かった。それで、この婚約は王家と公爵家の繋がりをより強固にするものだろう?だから、君はこの繋がりを切ろうとはしなかった。違う?」
リーリアの家族思いな一面を利用している、としか思えないその発言に、リーリアは信じられない気持ちで彼を見つめていた。
普段の彼はもっと穏やかで、紳士的だ。
今、目の前で酷薄な笑みを浮かべているのは、本当にアレンなのだろうか?
アレンは、リーリアに近づき、彼女の頬に手を当てた。そして、目を見開いているリーリアを見ると、くすっと微笑んだ。
「そんな、愛だの恋だのを知らなかった君が、最近では何故か、ひどく迷っている。最初は、僕のミシェル嬢との不名誉な噂のせいで、君に不信感を与えてしまったと思っていた。だけど、君の変化はその後もずっと続いたよね」
アレンの親指が、ゆっくりとリーリアの左頬を滑る。
「ねえ、リーリア、君の心を変えてしまったのは誰なのかな。ご両親?君の最愛の妹?それとも、僕の知らない誰かかな?」




