マリーの不安
ヴィンセントはマリーを横抱きにしたまま走り続けた。彼は決して屈強な男にも、筋肉質な体型にも見えなかったが、マリーを持ち上げる腕には安定感がある。ヴィンセントは意外と力持ちらしい。
いくつか道を抜けたが、謎の男が追ってくるような様子はなく、完全に撒くことが出来たようだ。
「あの、ヴィンセント様。あの男が追って来ることはもうなさそうです」
「そうだね。でも君、足を怪我しているだろう?このままウィーゼルまで運ばせてもらうよ」
「……すみません」
マリーは自分の不甲斐なさに項垂れた。しかし足が痛むのも事実であり、ここはヴィンセントの優しさに甘え、大人しく運んでもらうことにした。
いつもの食堂に着くと、今日はラウドはおらず、代わりにポムじいがいた。
「おやおや、一体何があったのじゃ」
「マリーさんが見知らぬ男に襲われていてね。間一髪で助けることができたんだが……彼女、足を怪我しているようなんだ」
ヴィンセントはマリーを椅子に腰掛けさせた。マリーは足の状態を確かめようと、自分でスカートの裾を少しだけ持ち上げると、捻った方の足首が赤く腫れ上がっていた。
「先ほど、氷で滑ってしまいまして、その時に捻ってしまいました。……あの、大変申し訳ないのですが、何か塗り薬などはありませんか……?」
「どれ、わしに見せてみなさい」
ポムじいはしゃがみ込んでマリーの足をそっと持ち上げた。そして、腫れている部位に右手をかざし、ゆっくりと動かした。ポムじいが目を閉じると、かざしている手が微かに光った。
マリーは手をかざされている部分が、ポカポカと温かくなってくるのを感じた。心も体も丸ごと癒されるようなその気持ちよさに、思わず目を閉じる。
「さて、これでどうじゃ」
マリーが目を開けると、足の腫れはすっかり引いていて、赤くなっていた肌は元々の健康的な色合いに戻っている。足首を回してみても、痛みなどはない。
「これは……もしかして、魔法で治して下さったのですか?」
ポムじいはゆっくりと頷いた。
「わしはのう、治癒の力を持ち合わせておるのじゃ」
「治癒の力……?」
その言葉を繰り返し、さっぱり分からないという顔をしているマリーに、ヴィンセントが微笑んだ。
「そう、治癒の力というのは、怪我や病気を治すことができる、大変貴重な力なんだ。先ほど君が襲われた魔法のように、魔法は破魔の力も含め、ほとんど攻撃に特化したものが多い。だが、治癒の力だけは特別だ。……しかし、今のところこの国には、ポムじいしか使い手がいないというのが現状だよ」
「そうじゃな……だが、わしも随分と衰えてしまった。全盛期はどんな怪我も治すことができたんじゃが、この魔法は消耗する力が多いせいか、今ではこれくらいの怪我を治しただけで、翌日まで使えなくなってしまうのじゃ」
「そんな貴重な魔法を……何とお礼を申し上げたら良いのか……」
「なに、マリーさんが気にするようなことではないぞ」
「……ところで、マリーさん。少し質問させてもらってもいいかな?先ほど氷で滑った、と言っていたけれど、相手は氷の魔法を使ったんだね?」
「は、はい……少なくとも、私が見たところ、あの男が放ったのは、氷の弾丸、いや、槍と言ったところでしょうか……」
「なるほどね、だいたい分かった。それで、君がその男に関して、何を見たのか教えて欲しい」
マリーは頷くと、男はウィーゼルの近くで、ウィーゼルを指差しながらミシェルと何やら話をしていたこと、そして、貧民街で子供を銀貨と交換に連れ去っていたことなどを話した。
それを聞いた魔導士2人は、同時に顔を曇らせた。
「その話、まさに自警団の報告にあった話と一致しておるのう」
「その報告にあった、魔力持ちの子供を金で買っている男というのは、マリーさんを襲ってきた人間で間違い無いだろうね」
「あ、あの、もう一つ思い出したのですが、フードで顔は見えなかったものの、随分と身なりが良いように見受けられましたので、貴族である可能性も大きいかと……」
それを聞くと、ヴィンセントはさらに硬い表情になった。ポムじいも眉間にしわを寄せている。
「……もしかして、あの男の正体に何か心当たりがおありなのですか?」
おずおずと質問を口にしたマリーに対し、ヴィンセントはすかさず笑みを浮かべた。
「まあ、まだ確定ではないけどね。大丈夫、マリーさんが心配するようなことは何もないよ」
これ以上は何も聞くな、と言わんばかりのその口調に、マリーは首を傾げながらも従わざるを得なかった。
「……!そうでした、本日はリーリア様より、お届けものを持って参りました。ご要望通り、こちらが執事服でございます」
「執事服?……ああ、なるほどね」
「はっはっは、これはこれは、マリーさんにはまた一つお世話になりそうじゃのう」
「……え?」
ヴィンセントは面白そうに口角を上げ、ポムじいは満面の笑みで笑っている。ポムじいの言葉に何やら不穏な空気を感じ取ったマリーは、何かあるのかと身構えてしまった。
「マリーさん、お茶会の時に、魔導会がそこで魔力査定を行うというのは聞いているかな?」
「はい」
「うん、じゃあ問題ない。マリーさん、リーリアちゃんには、魔導会の動きは当日のお楽しみに、と伝えておいてくれるかな?」
「はっはっは、そうじゃな、それが良かろう。よろしく頼みますぞ、マリーさん」
「は、はい……?」
何だかよく分からないままお願いされてしまったマリーは、とにかくお茶会が無事に行われることを願ったのだった。
そしていよいよ、お茶会の前日。シュバルツ家は一家揃って、明日のための打ち合わせを行なっていた。
「……というわけで、お茶会にいらっしゃらないのは男爵家と、子爵家のご子息だけで、あとの方は全員参加なさるみたいよ。ですから、明日はこの家に、ほとんどの貴族が集まるということになるわね」
「すごい……!お母様、ありがとうございます」
「ふふ、これくらい朝飯前よ。それにしても……やはりグレモリー男爵はいらっしゃらないのね」
「まあ良いではないか。ところで、リューネ。リーリアはもちろん、マリアも茶会に参加するのだろう?」
「そうよ。いい?マリア、明日はあなたもお茶会に出てもらうわ」
「わあ……おかあさま、わたしがんばるわ!」
マリアはもちろんまだ社交界デビューをしていないため、大勢の貴族の前に出るのは、非公式ではあるがこれが初めてになる。
「マリアにもリーリアにも、とびきり可愛いドレスを用意してあるわよ」
「まあ、お母様、ありがとうございます」
「ふふ、あの男爵令嬢なんかより、うちのリーリアの方が数百倍……いや、数万倍も素敵だってことを皆様に分かっていただかなくてはね」
「え、ええと……お母様?」
「ところで、リーリア、魔導会は明日どう動くのだ?」
「それについては、先日マリーから聞いたのですけれど……その、当日のお楽しみ、としか伺っておりませんの」
「そうか……まあ、査定の方は魔導会に任せておけば問題ないだろう。何にせよ、明日はマリアもリーリアも気を張りすぎず、楽にして臨めば良い」
「はい、お父様」
話が終わったところで、リーリアはテーブルの上のお茶を飲み干した。
(いよいよ明日ね。とは言っても、明日のお茶会はただの魔導会への協力にすぎないわ。査定は裏でラウドが上手くやってくれるでしょうから、わたくしは特に何もせず、無難に過ごしていれば良いのよね)
明日の茶会に、好物のマスカットが使われたお菓子は出てくるだろうか、と期待をしながら、リーリアはこの時、とても穏やかな気持ちでいたのだった。




