ネグレクテッドメモリー
所用で投稿が遅れました。すみません
彼に言われた通り、私は一路指導室へと向かう。
……実を言うと指導室なんていう部屋の存在を、私は初めて知ったのだが。
地図と勘を頼りに、迷路の様に入り組んだ校舎の最奥、事務室の更に奥へと歩みを進める。
さながら迷宮探索のような気分でたどり着いた、何の変哲もない扉。その鉄の直ぐ側の壁には「指導室1」と。
「……ここか。」
ドアを開くと、中はさながら社長室かさもなくば校長室かのような、落ち着いた雰囲気を醸し出す色や大きな執務机と回る椅子があった。
部屋の中央、本来ならば空いているはずの空間には後から入れたのか、全く馴染んでいない長机と、向かい合うように配置された安い椅子が二つあった。
電灯はついておらず、既に傾いた日がカーテン越しに部屋をかろうじて明るく保っている。
「待ってました。」
「こんなところ、初めて来たよ。」
「ここは元々校長室で、あんまりにも使いづらいから別の部屋に移動させたらしいです。今は一応指導室になってはいますが、転校生の資料配布の時くらいしか使わないみたいですね。長机は後付けらしいです。」
窓際にもたれて一人、彼は言う。
「敬語はやめよう。久しぶりだね、「サクラ」。」
「あれ以来一度も会ってないんじゃない?「ノゾミくん」。」
君に話しかけられてやっと思い出したよ。今朝の夢の続きを。
あの頃の記憶を。
私はまだ幼かった。
私の記憶の、もうそれ以上遡れない昔、私は壁の前に居た。
円柱が埋まったように、壁の一部が丸くなった箇所を眺めていたところから、記憶は始まった。
保護者であろう誰かに手を引かれ、私は壁から遠ざかっていく。
その人は、遠くから一人の少年を呼びつけた。
「ほら、今回この子に街を案内をしてあげて。この子の名前は桜ちゃんって言うんだ。ちゃんと仲良くしてね。」
近くまで来た少年は、渋った様子で「分かったよ。」と吐き捨てた。
「ははー。女の子の前でくらい機嫌良くしなよ。」
「うるさい。お前に言われて何かするの、嫌いなんだよ。」
私は少し自分を否定された気がして落ち込んだ。
「ほらほら、仲良くしなよー。「注射」、忘れないようにね。」
そうして、私と少年を残して誰かは行ってしまう。
「……あいつと一緒にいると大変だろ。」
と、男の子は言う。
それが私に向けられたものだと気付くのに少しかかって、私は「誰か」の記憶を探ってみるけれど、それはどこにもなかった。
「覚えてない。」
「あぁ、そう言えば新入りだった。名前は……桜だっけ。」
「うん。そうみたい。」
「サクラでいい?僕の名前は望。ノゾミでいいよ。」
「よろしくね、ノゾミくん。」
「よろしくサクラ。」
それから私達は壁の中を一通り回った。
学校や役場、スーパーや、街で一番高い時計塔。記憶の不確かな私にはどれも新鮮で、大きな感動に足るものだった。
ノゾミくんに引かれるまま街を一周した後、公園のベンチに二人座り、疲れた脚をぷらぷらと宙に振っていたりした。
おもむろに彼は立ち上がり、私の手を引き歩き出す。
「よし、予防接種受けにいこうよ。」
「予防接種?」
「壁の外のウイルスにかからないようにするための注射だよ。」
私が注射の存在をその時覚えていたかどうかは定かではないけれど、ウイルスに罹らないように、なんて言われてしまっては断る訳にもいかなかった。
彼が私を連れて行ったのは、時計塔の直ぐ近くの路地の裏側、人通りも全くと言って良いほど無かった。
「あの大きな病院じゃないの?」
私は、街の中心にある大きな病院を指すが、彼は「こっち」と言って一つの扉の中へと這入った。
「おじさん、新しい子連れてきたよ。」
彼がそう声をかけて姿を表したのは、少し気だるそうに、それでいて安心するような雰囲気を纏った、中年のおじさんだった。
「奥の方で待っといて。」
おじさんはそう言うと、脇の部屋へと戻っていった。
そこは至って普通の一軒家だった。
私たちが居たのはダイニングで、特に生活感はなかったけれど、適度に使い込まれた家具が並んでいた。
「ここも病院なの?」
「うん。おじさんがやってるんだよ。」
ふうん、と私は頷く。
あちこちに気をとられていた私は、「誰か」の言葉をふと思い出す。
「ウイルスってどんなの?」
「え?何?」
「外にあるウイルスって、どんなの?」
あぁ、と彼は考えて。
「とんでもなく危ないウイルスだって、おじさんから聞いただけだよ。後はわかんない。」
奥の部屋、すなわちリビングは、思えばこの指導室に近い雰囲気に改装されていた。色々器具が棚に積まれていて、その一室だけは確かに病院だったと言える。
白衣にマスク、小瓶と注射器を持って帰ってきた医者は、回る小さな椅子に腰掛けた私の前に座り、注射器で小瓶から液を吸い出す。
「動かないでね。」
「ねぇ、おじさん。さっき聞いたんだけど、ここが最後の楽園なの?ウイルスって、そんなに危ないの?」
「……。」
おじさんは、私の腕に針を当てながら少し黙って、
「危ないよ。あれはとんでもなく危険だ。」
それに、ここは最後の楽園じゃないよ。と、その医者がぼやいたのを、果たして言い方まで正しく覚えているかは怪しいけれど、ともかく。
その時何も知らなかった私は、特に何を思う訳でもなく、自らの腕に刺さる針を眺めていた。
「あの時私が言われた事、覚えてる?あの医者がずっと言ってたこと。」
「壁の中は楽園じゃない、ってやつ?」
「うん。私はね、ずっとそれが心に引っ掛かってたんだ。あれは一体どういうことだったのか、あの人に何があったのかって。」
けれど、私にはそれよりも気がかりなことが一つあった。
「あの時、帰り際に私は医者から「大病院で注射したことにしてあるから、誰かに聞かれたら大病院でちゃんと予防接種したって言ってね」って言われたんだ。」
「……。」
彼と私とが言葉を止める。
空気を支配する沈黙はすなわち私のもので、続き以外の発言を許しはしない。
「でもこれはよく考えるとおかしくない?予防接種を受けた人数を把握するのであればむしろ逆にあの一軒家の小病院で受けたと申告させるべきでしょ。ましてや致死性のウイルスで、そんな杜撰な管理でいい訳がない。」
「なるほど、それで?」
結末の分かった台本を読みあげるように彼は促す。
「『あれ』は予防接種じゃなかったんじゃないかって話。大病院にばれないように偽装して私に打った『あれ』が何なのか分からないけれど。少なくとも予防接種じゃないことは分かるよ。」
私があの時何をされたのか。
彼はとうに笑顔を消して、闇の中で私を見つめている。
「私には一つ、真実に近いと思う『予想』がある。」