転校生、弐
―――その日の夜は、珍しく夢を見た。
この街を囲う白い壁のすぐ内側、この街の端であるそこに、誰かが居る。
燃えるような空。けれど夕方でもなければ東雲の空でも無いとはっきり分かっている。つまりこれは夢特有の気のせいなのだろうか。
誰かは、不意に口を開く。
「この壁は、外から街を守る為にあるんだよ。」
「外には何があるの?」
別の誰かがそう問い、答えを待つ。
「中とは違うものだよ。外にも街はあるけれど、こことは違う。この壁は誰も、何も越えられないように造ってあるんだ。」
「私、外に行きたい。」
問うた誰かは少女だろうか、悲しい眼をしてそう願う。
「ダメだよ。外は危険なんだ。とっても危ないウイルスがそこらに蔓延っていて、感染すると死んでしまうかもしれないからね。この壁の中が、最後の楽園なんだ。」
「はこびる?」
少女はうまく回っていない舌で誰かの言葉を繰り返す。
少女は何も知りはしない。ただ「誰か」は自分の言ったことを否定し、その理由が難しいということが分かっただけだ。
その意図を汲み取り、「誰か」は言う。
「あぁ、難しかったかい。とにかく怖いものがあるんだ。外には、もう行けないよ。」
先ほどまで少女は壁の外を望んでいたのに、手を引かれて引き返した時には、もうすでに別のことを考えていた。
もしや、この少女は幼い頃の私か?手を引いているのが「誰か」は分からないけれど、この夢は私の記憶なのかもしれない。
「僕はこれから仕事があるんだ。そうだ、あそこの子に案内してもらいなさい。――おーい。」
私の背中をとんとんと叩いた誰かは、向こうの方から一人の男の子を呼ぶ。
「ほら、この子に街を案内してあげて。この子の名前は桜ちゃんだ。」
ふい、と近づいてきたその男の子は、
「僕の名前×―――――――――
音が、途切れる。
どこからか聞こえてくるノイズは、
耳を、
視覚を支配し始め、
ずるずるずると思考を引き摺り出し、
「っ!!」
叩き付けるような音と共に背中に覚えのない激痛が走り、意識は表層へと舞い戻る。
「……はぁ、はぁ。」
どうやら私はベッドから落ちたらしい。
夢の中身が、ノイズが、消えないまま脳に残り、ハウリングのように記憶をぐちゃぐちゃに乱している。
「っ、はぁ。」
掻き乱された記憶は溶けて、もう私は夢を覚えていない。
壁。壁の夢だったか?
ガラス越しにそびえる白い巨壁に目を見やる。
あれがどうかしたんだっけ。分からない。
忘れたままの私は、囲われたこの街で。囲われた学校へとまた行くのだ。
「ねぇ、転校生の話、知ってる?」
化宮は言った。
今朝から痛いままの背骨を気にしながら、私は生返事で答える。
「早速何かあったの?」
この女、とてつもなく情報が早い。学校の全ての情報を吸い上げているんじゃないかと疑うほどの情報量をしていやがる。
嬉々として話しかけてきた彼女は、しかし一転、きょとんという擬音が聞こえそうな表情を浮かべた。
「知り合いなの?」
「知り合い……っていうか名前ちゃんと覚えてただけだよ。」
「えー、何処で会ったの?」
「昨日だよ。教室で挨拶してたじゃん。」
「?下見に来てたの?」
ん?違和感がある会話だな。
全く基本的な所で決定的に食い違いがある様に思える。
「転校生ってもしかして別の子?昨日転校してきた子じゃなくて。」
「昨日?」
彼女は首をかしげて記憶を探るようにする。
噛み合っていないな。
「来たじゃない。竹原っていう男の子。」
「嘘ぉ。何の冗談よそれー。」
何と間違えてるのー?と彼女はけらけら笑う。
どういうことだ?化宮の記憶が無くなっている?他の誰も指摘しないということは彼女だけではないのか。
いやむしろそれならば、私の記憶が改竄されていると考えた方が自然?昨日の一連の出来事が私のの中だったと、否定する証拠は、いやないな。
もしくは昨日一日がそっくりなかったことにされた可能性も―――昨日は何日だったか。
……しまった。常日頃から何も考えない生活を過ごしすぎた所為で昨日が何日か分からない……。こればかりは誰に聞いても意味をなさないというのに。
あぁ、少し混乱してきた。
化宮が更に口を開く前に、担任が出席簿を抱えたまま教室へと入ってきた。
「お前ら座れぇ始めんぞー。」
私達生徒を席につけると、目の下の隈を隠そうともしない彼は、全席を見渡して言う。
「えー、まぁ知ってるやつも少なからずいるだろうが、転校生が一人このクラスに来てる。入れぇ。」
何処かで聞いた台詞。
そして、入ってきたのは彼。寸分違わぬ、転校生、竹原望。
言葉を失った私を尻目に彼は、
「今日からこちらでお世話になる、竹原望です。」
と。名乗ったのだった。
「初めての転校で、分からないことも多くあると思いますが、仲良くしていただけるとありがたいです。」
どうなっている?
さながら録画を見ているような完全再現。
私以外の全てがリセットされたのか。もしくは只の私の記憶違いか。
いずれにせよ私には、何が起こったのかさっぱり理解することはできなかった。
朝礼が終わると、わらわらと人が彼の周りに群がり始める。
私にはそれが悍ましい物に見えてしまって、転校生の元へ行くことはできなかった。
ふと見ると、雨川が昨日と変わらず、興味無さげに本を読んでいた。
ふと思いついて、話しかけてみる。
「雨川は転校生のとこに行かないの?」
声をかけられたはずの彼女は二秒ほど反応せず、一段落ついたところで栞をページに挟んで顔を上げた。
「人が多いところは、あんまり得意じゃないから。」
「そう。」
……会話が続かない。
彼女の独特の雰囲気というか、ペースというか。
彼女が話そうとしないと続かない、このもどかしさこそが彼女が集団に馴染めない原因なのだろう。
だがまあ、反応からして彼女にはこの「巻き戻し」は起こっていないみたいだ。
――もしかするとと、思ったのだけれど。
とりあえず情報を整理しようと席に戻ると、化宮が急いで、興奮しながら私に話しかけてきた。
「ねぇ桜、あの人と知り合いだったの?」
「何か言ってた?」
「ううん。でもさっき名前知ってたからさ。」
あぁ、どうしようか。と私は一瞬悩む。
あの時は状況を把握できていなかったが、混乱している今、無闇に動くのは危険だろう。
何にせよ余計な種を蒔くと後が面倒になりそうだ。
「いや、昨日学校に居たところを見かけただけ―――
「いえ、以前にお会いしたことがあると思いますよ。」
と、やにわに掛けられた声の主は
「竹原、くん。」
「昨日学校で、それ以前にも小さい頃に一度お会いしています。忘れているかもしれませんけど。」
「へぇー、そうなんだ。いいなぁ桜。」
私は黙る。
あの物言い、間違いない。
彼はこの、「巻き戻り」の中にいる―――!
「あぁ、そうだ桜さん。後で少し昔の話でもしませんか?」
「……分かった。放課後にね。」
「うわー、良い感じじゃん。昔からそんなだったの?」
化宮がきゃあきゃあと騒ぎたてるが、私は「いや違うよ。」と。
ギシギシと、私の「知らない」記憶が音をたてて軋む彼の言葉は、恐らく私が忘れているだけの「彼」のもの。
そうだ。「指導室で待っています」と言って去り際に彼の見せた、あの、何かをずっと計画しているかのような目。うすら笑ったあの表情。
私の「知っている」はずの彼を。
思い出した。彼は。