ある令嬢の一生
この作品を亡き祖父に捧げる
ー昭和六年 七月 栃木県O市ー
タッタッタッタッタッ
女中の硬い靴の音が二階まで響いた。ほどなくしてドアがノックされ、ゆっくりと開いた。
「美子お嬢様、旦那様が居間でお待ちです。」
そう言われ、窓から外を眺めていた少女は振り向いた。
「わかったわ。すぐに参りますとお父様に伝えてちょうだい。」
女中が一礼して去ると少女はもう一度外を眺め呟いた。
「私もお姉様達とお買い物に行けばよかったわ。」
少女は面倒そうに窓辺から立ち上がると仰いでいた団扇を机に置き、部屋を出た。
少女が不貞腐れた顔で居間に通じる戸を開けると、初めて見る男が父親を向かい合い談笑していた。ノックもせずに戸を開けたことをたしなめられないよう、こっそりと廊下に戻ろうとすると、その見知らぬ男に気づかれてしまった。
「貴女が美子さんですね。」
少女は戸の前に棒立ちになってしまった。咄嗟に、「はい、私が美子でございます。」と取り繕った。少女は、明らかに不機嫌そうな顔をした父親に手招きされ、静々と寄った。少女が寄ると父親は自分の隣に座るよう促した。
少女が一礼して席に着くと父親は少し恥ずかしそうに言った。
「これが私の末娘の美子です。このようにお転婆で不束な娘でして、お恥ずかしい限りです。」
見知らぬ男は笑いながら、「元気なお嬢さんですね。」と言った。
「自己紹介が遅れて申し訳ない。隣町の白鳥という者です。どうぞよろしく美子さん。」
少女は恥ずかしさで少し顔を赤らめながら一礼した。
「こちらの白鳥さんは隣町の大地主で、先の県議会選挙でも南部地区から選出されたお方なんだよ。そのようなお方が、お前を御令息の嫁にと、わざわざお越しになったのだから、もう少し行儀よくできないものか。」
父親に叱られる少女を見て男は、まぁまぁと制してこう続けた。
「そんなにかしこまらないでください。土地の広さなら西宇部さんの方が広いではありませんか。それに、私が今回当選できたのは、西宇部さんが今回出られなかったからこそですから。同じ南部下州の地主同士、ざっくばらんにいたしましょう。」
「いやはや本当にお恥ずかしい。私もつい取り乱してしまいまして。もし幻滅なさいましたら、撤回していただいても構いません。」
「ご安心ください。これほど美しいお嬢さんをお嫁に迎えられて本望ですよ。」
少女は尚も何が何だか理解しきれずにいた。
「そろそろお暇します。今日は顔合わせ程度のものですし。それでは、3日後に息子を連れてまたお伺いさせていただきます。」
男が立ち上がると、少女と父親も立ち上がり門まで見送った。
門の外に停めてある自動車に男が乗ろうとすると運転手が、車内にお忘れでしたので、と一冊の重装な冊子のようなものを男に手渡した。男はそれを受け取ると振り返り、「いやぁ忘れるところでした。お嬢さんは息子に会ったことがないと伺っておりましたので、写真をお持ちしたんです。よかったらご覧になってください。」と少女に手渡した。父親が礼を述べると、男は、それでは、と自動車に乗り去っていった。
父親と共に邸に戻り、一人で居間のソファに浅くと腰掛けると、女中に言ってカルピスを持って来させた。よく冷えたそれをごくり、と一口飲むと少女は深くため息をつき、背をもたれた。
何分かして少女は、自分が写真綴じを抱きしめたままだということに気づいた。どんな人なのだろうか。少女が写真綴じを開くと、そこには精悍な、いかにもジェントリといった青年が写っていた。右下には万年筆で書かれたであろう名前が美しい字で書いてあった。
ー白鳥晃吉ー
少女は小さな声で口ずさみながら名前の文字をその白魚のような指で撫でた。
少女の人生が変わった最初の瞬間であった。