第八話 メッセンジャー
光の様子を心配そうに見る和夫。
光「お父さん… なんか急に… お腹が…」
お腹を抱え倒れていた光が、何とか自力で立ち上がろうと蹲る様な体勢になった時。
光「ヴあああ――…っ!」
またも激痛が腹部を襲いました。
和夫「どうしたって言うんだ… 急に…」
和夫はとにかく光を病院に連れて行かなければと思い、沸騰している やかんの火を止め、
光の手を自分の肩に回して抱えました。
和夫「とっ、とにかく病院へ行こう! お父さんに掴まりながら何とか駐車場まで頑張って歩けるか?」
和夫は蹲る光の腕を自分の首から肩に回す様にして抱えると、背中を擦りながら ゆっくりと立ち上がりました。
光「うん、苦しいけど… 頑張る… その前にもう一度トイレに行かせて…」
そう言うと光は和夫に肩を抱えられながら、ヨロヨロとトイレに行きました。
【ガタンッ】(光が便器の前に跪いた)
光「ヴえ―――っ…!」
和夫は苦しそうに嘔吐する光の背中を擦りながらその嘔吐している物を確認しました。
すると驚いた事に、それはもう黄色い胃液しか出ていなかったのです。
和夫「なんて辛そうなんだ… でも何故 急に… あっ!!」
そうです、和夫は思い出しました 光が腐ったボロボロの米を食べていたと言う事を。
和夫「そうだ! きっと あの腐った米を食べたからだ! これは大変だぞ、急がないと!」
和夫は直ぐに この状況は食中毒だと気付き、大慌てで支度を始めました。
まず、嘔吐の止まらない光にビニール袋を持たせ、身体が冷えないように大きめの上着を背中からかぶせると
胃液を吐き続ける光を再び抱え 背中を擦りながら玄関を出ました。
【ガタンッ…、ガチャガチャ…】(玄関扉を閉め鍵をかけた)
扉と鍵を閉める音が静まり返る夜の町に響いて消えると 二人はフラフラしながら駐車場までの道のりを歩きはじめました。
光「お父さん、こんな時間に… 診てくれる病院なんてあるかな…」
光は、とても苦しそうな表情と声で和夫に聞きました。
和夫「ああ大丈夫だ、夜間診療をしている一番近い病院へ行こう。それまで少し辛抱しろよ!」
和夫は光を励ましながら そう言うと一生懸命に肩を抱え駐車場に急ぎました。
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そして二人はようやく
駐車場に着いた…
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和夫は車のドアを開けると、光を後ろの席に寝かせ毛布を掛け暖を取らせました。
和夫「車で病院までは二十分位だ、辛いと思うが頑張れよ!」
光「うん…」
光はビニール袋を口元に当てたまま、辛そうに顔を顰めて頷きました。
その後 何度も胃液を吐きながら光は必死で痛みに耐え 朦朧としながら、車の窓外に流れる雨の雫を眺めていました。
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病院に着きました
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和夫は光の肩を抱えながら急いで病院の待合室まで連れて来ると、直ぐに夜間診療の受付窓を叩き看護士を呼びました。
【コン!コン!コン!】(和夫が受付のガラス戸を叩いた)
和夫「済みません! 息子が食中りを起こしてしまって!! 直ぐに診てもらいたいんですが!」
和夫が大声でカーテンの閉まった窓越しから呼びかけると、受付窓のカーテンが勢いよく開き 中から いかにも事務的で冷たそうな看護士が現れました。
看護士「お静かに願います! 他の患者さんに迷惑になりますので!」
看護士は受付の窓ごし から和夫の顔を見ると とても不機嫌そうな表情で注意を促しました。
和夫「はぁ、急いで診て頂きたかったもので…」
和夫は申し訳なさそうに言いました。
看護士「はいはい… まず保険証の提示をお願いします。それから こちらの問診票に現在の症状と発祥までの状況を詳しくご記入願います。」
看護士は已然と事務的な表情のまま そう言うと問診票を和夫に手渡しました。
そんな看護士の対応に和夫は呆れてしまい つまらない表情で書類を受け取りました。
和夫「済みません… お騒がせしまして…」
和夫は建て前で仕方なく看護士に謝ると この病院ではダメだと感じました。
でも今はそんな事を気にしている場合ではありません、応急的にでもこの病院で処置をしてもらう他ないと思い
急いで問診票を書き終え受付の看護士に渡しました。
和夫「あっ、これ書き終わりました…」
看護士は和夫から問診票を受取るとチラッと和夫の顔を横眼で見ながら口をへの字に曲げ またも事務的に話し出しました。
看護士「はい… あの 保険証をお願いします。」
和夫「あっ、はいはい… ん!? あれ?」
和夫は鞄の中を確認しましたが、保険証が見当たらないのです…
そうです この時、和夫は保険証を忘れている事に気付いたのです。
和夫『しまった! 保険証は この間の健康診断で会社に置きっぱなしだったか…』
和夫が心の中でそう思い、ガサガサと鞄の中を探していると 看護士はその姿を見て溜息を吐きながら言いました。
看護士「ふん… じゃあ、保険証が見付りましたら またお呼び下さい!」
その後 看護士は受付の奥に姿を消してしましました…
和夫は暫く受付窓の前にいましたが、仕方ないので保険証を取りに一旦 会社へ戻る事にしました。
そして、待合室の椅子で苦しそうに横たわる光の側に行き話しかけました。
和夫「おい光… 今 受付に言って来たから、名前を呼ばれたら診察室に入るんだぞ。
俺は今から会社に保険証を取りに行って来るからな、もう少し辛抱しろよ。」
光「…」
光は和夫の問いかけに、眉を顰めながら小さく頷くと、苦しそうに何度も嘔吐を繰り返していました。
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それから一時間程 過ぎた頃…
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会社に保険証を取りに行った和夫がようやく戻って来ました。
和夫「おい光、大丈夫か! 診察はしてもらったのか!?」
すると光は首を横に振りました。
光「よく解らないけど… 呼ばれていないと思う…」
和夫「何!!」
すると和夫は ついに堪忍袋の緒が切れ怒りで顔色が変わったのです。
そして 勢いよく受付窓の前まで行くと病院中に聞こえる大声で怒鳴り付けたのです。
【ガンッ ガン ガン!】(和夫が受付窓を叩いた)
和夫「おい、お前ら! 一時間以上も何やってんだよ! 息子が苦しんでるんだぞ!! なんで何の処置もしてくれないんだ!!」
カーテンを閉め切った受付窓の中から 和夫の声に驚いた看護士が慌てて待合室に飛び出て来ました。
看護士「まあ!! 大変!!」
光の苦しそうに胃液を吐く姿を目の当たりにした看護士は光の様子を見て、始めて緊急を要する状況だと知ったのです。
和夫「息子がこんなに苦しんでるのに! あんた それでも看護士か!!」
怒りの収まらない和夫は 尚も病院中に聞こえる大声で怒鳴りました。
【ザワ、ザワ、ザワ…】(外来の患者達が ザワつき始めた)
看護士「すっ済みません! こんな状況だったとは 知らずに…
今直ぐに、先生を直ぐに呼んできますので、お待ち下さい!」
そう言うと、看護師は診察室の奥に走って行きました。
すると、看護士は直ぐに診察室に入るように案内して来ました。
看護士「どうぞ、お入り下さい。」
光は和夫に支えられながら診療室に入ると、そこには目を真っ赤にした若い医師が偉そうに座って居ました。
医師は今まで仮眠を取っていた様子でした。
そして 欠伸をしながらボールペンを持った手で目を擦ると とても面倒そうに問診を始めたのです。
医師「え―っと… どこが痛いんですって?」
医師は睡眠の邪魔をされたのが不満だったのか、とても不機嫌そうに言いました。
光「おっ、お腹です…」
光は胃液を吐き続けながら 辛そうに答えました。
医師「だ・か・ら~ お腹の何処ですかぁ~?」
医師は眠たそうに聞きます。
光「真ん中辺りが… 凄く痛いです…」
苦しそうに、やっと答える光の背中を看護士が擦りました。
医師「あっ、そう… んで… 何回ぐらい吐きました~?」
相変わらず目を擦りながら問診する、やる気の無い若い医師…
光「えっと…」
光は そんな医師の問診に 困惑しながら考え込んでしましました。
すると、光の困った様子を見て 堪らず和夫が話し始めました。
和夫「もう二時間もずっとこんな感じなんですよ! 数えられない位は吐いてますよ!」
和夫は医師の態度に とてもイライラしていました。
医師「はあ~ん? で・す・か・ら! 何回か! と聞いているんですよ!!」
医師は和夫の言葉で更に不機嫌になったのか、少し強めの口調で言い返しました。
和夫「そ、そりゃ… もう五十回位は吐いているでしょうね!!」
和夫も そんな医師の態度に苛立ちを隠しきれません。
医師「あのね… お父さん… 私は息子さんに聞いてるんですよ!!」
医師は そんな和夫の態度に腹がっ立ったのか 急に激しい口調で怒鳴りました。
和夫「…」
不満そうに黙る和夫…
医師「ったく…」
不貞腐れる若い医師…
すると、光が答えました。
光「その位… です…」
必死に答えた光に 和夫は小さい声で優しく聞きました。
和夫「そうだよな、だいたい その位だったよな…」
すると、なんと医者は更に大きな声で怒鳴り付けて来たのです。
医師「だいたいじゃなくて!! 正確な数字を聞いているんですよ!!」
【プチッ…】(この医師の態度に和夫の怒りの線が切れた)
和夫「あんたね!! 医者だろうが!! 何回吐いたかだ!? この状況見て何も診断出来ねえのか!! 息子はこんなに苦しんでるじゃないか!!」
和夫の怒鳴り声は病院中に響いた。
そして和夫の怒りに驚いた医師は、突然の事で動揺しながら答えました。
医師「おっ、お父さん… 落ち着いて下さいね… 私はですね 正確な数値を伺ってですね…」
慌てふためき、言い訳を並べだす若い医師…
和夫「何が正確な数値だ!! このヤブ野郎が!!! もういい! 病院を変えるから紹介状を書け!!』
和夫がそう言うと医師は更に驚いた表情で答えました。
医師「えっと…!? どちらの病院に?」
和夫「俺の勤務先の病院だ! 聖マリノア大学病院だ!!」
医師「マ・リ・ノ・ア!?」
光「へ!!!???」
看護士「マリノア!?」
和夫のこの一言には、側で聞いていた光も看護士も驚きました。
医師「せっ、聖マリノアって!? お父さん お医者さん だったんですか!?」
医師はとても驚いた表情で和夫の顔を見回しました。
和夫「俺が医者な訳が無いだろうが!! 俺は そこの大学病院でメッセンジャーをしてるんだよ!!」
<解説>
※メッセンジャー:大きな病院内で点滴や血液、院内で使用する薬やカルテをナースセンターや医局・院内薬局などに屋内用の電気自動車を使って運ぶ仕事、院内の配達業務が主でITやPHSの存在しない当時は、大きな病院内にとって必要不可欠な人的ネットワークでした
医師「そうだったんですか、だったら何故、最初からそちらへ行かなかったんですか?」
余程 この大学病院が医学界の中でも偉大だったのでしょうか、医師の態度は何故か急に低姿勢になってしまったのです。
和夫「あんた素人か! あそこは高度救命救急で夜間は命に関わる患者しか受付けてくれないんだよ!!
この程度の症状では他の病院からの紹介状が無いと診てくれないんだ! 解ったら早くしてくれよ!!」
和夫の物凄い形相に若い医師は圧倒され 何の躊躇もなくニコニコしながら言いました。
医師「ハイっ、解りました! いっ、今すぐ書きますからね。」
すると 医師は急いで紹介状を書いて渡しました。
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そして和夫は紹介状を受取った
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その後、和夫は光を再び車に乗せると急いで自分の勤めるマリノア大学病院に向いました。
時刻は既に夜中の二時を回った頃です…
車の中では嘔吐に苦しんでいる光が、病院で必死に自分を助け様としてくれた父の思いに嬉しくて涙を流していました。
時折、気にして光の様子を見ていた和夫には、その涙が辛さと苦しさから出ているのだと思い、運転しながら光を一生懸命に励ますのでした。
和夫「頑張れよ光! もう直ぐだからな!」
外は雨がすっかり上がり始め、行き交う車も少なくなっていました。
そして和夫は今 正に…
メッセンジャーの如く夜明け前の道路を急ぐのでした。
つづく