第三十一話 柔よく剛を制す‐後編‐
和夫の掛け声と同時に、両者の手には物凄い力が入りました。
二人の腕は微妙に揺れながら、小刻みに俊の方へ少し傾き始めました。
顔が真っ赤になる光…
しかし 光は全く焦りません!
光『ん!? 兄貴 右よりも弱いかも…』
なんと光は俊の力を弱く感じたのです…
光『よし んっ んっ!』
光が少しづつ力を入れると、今度は光の方に腕が少し傾き出したのです。
和夫「おおっ これは いい勝負だ! ほれ光 頑張れ!」
予想外な展開に驚き興奮する和夫…
俊『何 スゲエ パワーだ! 腕が… 全く… 動かねえ!!』
口を一文字にして踏ん張る俊…
和夫「ほれ! どうした俊! 押されてるぞ ははは。」
和夫は必死に踏ん張って堪える俊を見て この勝負が面白くて仕方ありません。
光「ウオリャー!!」
次の瞬間 光が一気に全力を掛け勝負に出ました。
俊「!!」
腕は光の方にジワジワ傾きましたが もう少しと言う所で そうはさせじと俊が切り返したのです。
俊「なにくそ―!! ウオリャー!!」
なんと 俊は底力を温存してしました 凄まじい気合と共に再び腕は俊の方に傾き出します!
光「うわッ! やっぱり本気じゃなかったんだ!」
両者 一歩も引きません これは中々の勝負 力は ほぼ互角の様です。
俊「…!」
光「…!」
そして ここからは根気と持久力の勝負となりました。
その後 暫く間合を伺っていた光が最初に仕掛けました なんと俊の一瞬の隙を衝いて手首を内側に捻ったのです。
光「ウオリャっ!」
これには俊も慌てました。
俊「おあっ! ヤベぇ 手首が! イテテテ!」
なんと手首はアッサリ光の方へ返されてしまったのです。
光「今だ!!」
光は物凄い掛け声と共に一気に腕を倒します。
光「うおおおおお――――!!」
これには流石の俊も耐えきれず あえなく崩れました…
俊「うわあっ…! だめだ!!」
【バ―――ン!】
(光の方に俊の手が倒された)
和夫「ほ――! 勝負ありだ!」
光が勝った事に目を大きくして驚く和夫。
俊「ひゃ――! 負けタ… 強ええ!!」
俊は悔しそうな顔で左腕の上腕部を擦っていました。
和夫「いや― しかし いい勝負だった! 傑作だよ! はははは。
これで 俊の洗濯当番が決定だな。」
和夫は余程この勝負が面白かったのか、満足そうに大笑いして言いました。
俊「ちぇっ… そんなに喜ばなくても良いだろう! 全く…
ヤリャ良いんでしょ ヤリャ!」
和夫が余りにも笑うので俊は不満そうに舌打ちをし 少しむくれてしまいました。
すると光が この勝負に少し違和感を覚えたのか 突然 俊に念を押して聞いたのです。
光「あのさ兄貴! 今の勝負 手抜いたんだよね!?」
そうです 光は俊の腕力が自分と互角だったのならまだしも この勝負の決着が手首の返して呆気なく決まったしまった事に少し違和感を感じたのです。
すると 光の言葉に俊は…
俊「あん? お前 嫌味かよ… 今のマジだぞ…
パワーはともかく… お前の手首の捻りがスゲエ強くて堪えられなかった… 完敗だ。」
俊は頭を掻きながら悔しそうに負けを認め 困惑した表情でそう言いました。
光「はぁ… 手首が? そんなにねぇ…」
俊の言葉で光は自分の左手首を右手で押さえクルクルと回すと その手をじっと眺めながら考えていました。
俊「本当だよ マジでお前の左手首の返しが強かったんだよ。 だから中華鍋も振れたんだろうな きっと。」
俊が そう言うと黙って二人の話を聞いていた和夫が笑いながら話し出しました。
和夫「はははは なあ お前達 今の勝負は正に 【柔よく剛を制す】だったとわ思わんか!」
和夫は そう言いながら 痛快に笑うと とても満足した表情で煙草に火を点けました。
俊「はぁ? 【柔よく剛を制す】? 何だそれ? コトワザか? おい光 お前知ってるか?」
どうやら 俊は和夫の言ってる意味が解らない様です。
光「えっ!? え――っとね… 聞いた事ある様な感じだな… ん―…… やっぱ解らない… ゴメン!」
苦笑いしながら光がそう答えると 和夫が とても驚いた表情で語り始めました。
和夫「えっ!? 何だ… 柔道を習ってて この言葉を知らんのか!? 情けない…
【柔よく剛を制す】 とは【柔軟性のある者が そのしなやかさによって かえって剛強な者を押さえつけることが出来る】 という意味だよ… 」
俊「え――…っと 意味聞いても ヤッパリ解りませーん!」
和夫「はぁ… ダメだコリャ… 要は… 今 お前達のやった勝負だよ俊の腕力を光の柔軟な手首の技で押さえつけただろう…」
俊「おお!! そう言う意味か なーるほど ザ・ワールド!! ははは」※当時放映されていた人気番組の題名です
俊は小学校の頃から、少し難しい話をされると、肩苦しくなってしまうせいか 欠伸をしてしまったり 冗談を言ってふざけてしまう癖がありました。
そんな事から和夫の話が難しく感じた俊は つい何時もの癖で また冗談を言って ふざけてしまったのです。
光「ぷっ あははは…」
あまりのくだらなさに 笑ってしまった光。
和夫「あ~? ワールド? 何だそりゃ?」
テレビなどに あまり感心の無い和夫は意味が解らず呆気に取られながら そう言うと その様子が余程 可笑しかったのでしょう 光が笑いを堪えながら俊に注意しました。
光「兄貴 真面目に聞けよ… くふふふ。」
尚も光は笑いを堪えていると 俊は白々しくニヤケながら謝りました。
俊「悪りぃ 悪りぃ つい口癖でね… へへへ 」
和夫の講釈は難しく 中学生の二人にとっては少し解り難い話もありました。
俊は そんな時 決まって その場の重たい空気を冗談で緩和させて誤魔化してしまうのです。
しかし それが俊のユーモラスな一面でもありましたが 和夫は こんな俊を叱る事はありませんでした。
その様子は何故か憎めず むしろ暖かな安らぎすら感じる程だったからなのです。
そして 和夫は呆れ笑いのまま再び話を始めたのです。
和夫「本当に お前って奴は… 何時も難しい話をすると直ぐ そうやって茶化すから力が抜けてしまうよ…
まあ なんだ… 料理も武道も遊びもな、ただ言われた様に こなしているだけでなく一生懸命に その技や知識を習得しようとする努力こそが その道の名人となれるんだぞ…!
って言いたかったんだが… 拍子が抜けしてしまった… ヤレヤレ…」
俊「じゃあ親父は お説教の道の名人だよな。 ははは 」
光「兄貴… もうやめろよ… くくく」
和夫「本当に お前達は… もっと真面目に聞いてくれよ 真面目に… 大事な話なんだからさ…」
またも 俊に茶化されてしまった和夫は 呆れながらも そう言って顔がニヤケだしてしまいました。
しかし 確かに俊の言葉には一理ありました。
和夫は二人が中学生になった頃から度々難しい話や お説教をする事が多くなりました。
でもそれは 二人の息子に対して 些細な日常生活の一瞬でも何か将来役に立つ人生の指針を導けたらと思っていただけなのです。
和夫は解っていました…
中学生という年頃は今までの様には行かない事を…
まだまだ子供…
でも時に壊れやすく繊細な心に変化する時期でもあるのです…
自分が片親である事で子供達が間違った道にそれてしまわないか…
ただ そんなプレッシャーだけが和夫の脳裏を過ぎるのです。
子供達は日々成長する…
だから 自分も彼らと共に親として成長していかなければならない。
和夫は 何時も そう考えていたのです。
散々 俊に茶化されてしまった和夫は ここで一旦 難しい話を止めると 気分転換に別の質問を二人に投げ掛けました。
和夫「もう難しい話は止めだ。 そうだ! お前達に聞いてみたい事があるんだけど 良いかな。」
俊「聞きたい事? 何だろう?」
光「何?」
和夫「いや… お前達の将来の夢って何なのかなあって思ってな…
今まで聞いた事 一度も無かったからな。」
和夫の突然の質問に光も俊も黙ったまま 考えて込んでしまいました。
光「夢!?」
俊「夢ねえ…」
黙って考える二人の姿を見て 和夫は清清しい表情で言いました。
和夫「はっはーん… 考えてるって事は 今は まだ何も無いって事だな…
まあいい… でも夢は必ず持った方がいいぞ 夢を持た無い者は幸せになれないからな。はははは 」
和夫は そう言うと爽快に笑い出して また煙草に火を点けました。
俊「親父! 俺 夢ならあるよ! 早く運転免許が欲しいんだ!」
小さい頃から車が大好きだった俊は とても嬉しそうに言いました。
和夫「んー… 運転免許か… 違うんだよなぁ…
お前は単純だね 免許なんか大人になれば誰だって取れるから そんな事は夢にならんだろ。
それに もし車の運転が夢なんて言うんだったら 今の俺の仕事が夢って言われているみたいで少し残念に思うよ…」
今 自分が決して華やかでない運転の仕事をしている和夫は そんな俊の言葉に自分の影響なのではないかと少し憤りを感じてしまいました。
光「えー 何で? タクシーの運転手になったらダメなの? 俺 お父さんの仕事が変だとか嫌だとか思ったこと無いよ。」
和夫「ダメだって事じゃないんだが… こんな仕事は何時でも免許さえ取れば誰にだって出来るんだよ…
自分の息子が中学から将来性の無いタクシー運転手を夢にしてると解って嬉しい親はいないさ…
飛行機や電車の運転手ならまだしも…」
俊「そうかな… じゃあ親父は何で今の仕事を選んだのさ自分で決めた事じゃないのかよ。」
和夫「えっ… ん… まあ そうだが…」
光「どうしたの親父… 違うの?」
和夫「いや違わない… 確かにこの仕事は自分で決めた事だ… でも運転手を選んだには訳がある…」
俊「訳って?」
和夫「まあ 今の お前達には言うべき話しではないさ… 夢を壊してしまうかも知れんからな…
ただ勘違いするなよ… 俺にだって それなりの夢はあったんだ。それに まだその夢を諦めた訳でもないし。」
光「へー! 親父 まだ夢を持ってるんだ! ねえ 何 何 教えてよ!」
和夫「ああ… 今は内緒だ。 いつか 叶い そうな時期に話すよ… 」
光「内緒か… 何か そう言われると とても気になるよね…」
和夫「俺の事は いいんだよ… 今は お前達の将来の事を考えなさい。
良いか… 俊 光 お前達は十年経ったら もう立派な大人になってるんだ。
今 十年先の自分達が何をしているのか想像を出来るか?
もし想像も付かないのなら 今は己の弱い部分を養う事が必要ではないのかな。」
光「十年先…」
俊「己の弱い部分か…」
和夫「おっと… はははは いかん いかん… コリャまた説教になりそうだ。
さて 随分と遅くなってしまったが そろそろ飯の準備でも始めるぞ光。」
そして和夫は 何時も通り食事の支度を始める為 台所に行きました。
すると その後を追う様にして光が和夫に言ったのです。
光「親父… 俺 今は夢が無いけど。【十年先の自分】に何か必要かを考えて見るよ!」
和夫「そうだな… 頑張れ。 よし じゃあ光 お前は冷蔵庫から玉葱を出して切ってくれ 俺は味噌汁を作るからな。」
光「はい。」
そうして和夫と光は並んで夕食の支度を始めました。
そんな二人の後姿を横目で眺めながら 俊は脱衣場に行き罰ゲームの洗濯を始めていました。
そして何か小さな声で独り言を呟いていたのです。
俊「はぁ… 【己の弱い部分】 か… 何だろうな… 【十年先…】想像もつかねえよな…
ははは 俺 本当に理容師になってるのかね。」
俊は 小声で そう言いながら理容師という物がどれだけ自分に適しているかを考えていました しかし それは想像も出来なかったのです。
それから三人は少し遅めの夕食を済ませ 何時もの様に順番に風呂に入り床に着きました。
床に着いた俊と光は和夫の言葉か気になり 暫くの間 中々寝付けませんでした…
”十年後の自分の為に出来る事…”
”夢を持て! 持たない者は幸せになれない…”
二人は この和夫の何気ない説教の言葉に 人生で最も重要な意味があったと言う事を後々思い知らされるのでした。
そして悲しい事に…
何故か三人の親子の絆はこの日を境に徐々に崩れてしまうのでした…
つづく