弾けろ、シャボン玉。
人生の楽しみ方を教えてくれたあなたが、愛し愛される喜びを知れますように。願わくはその相手が私でありますように。
思えば彼に作ってもらった高校生活だった。一年生の夏に初めて話してその眩しさにあてられた。私にはこうはなれない。いや、他の誰であっても勝てない程に明るく無垢だった。話しかけられたその日は、下校中の道がやけに色づいていた記憶がある。そこから私の高校生活が始まったのだった。
一年生の冬に、偶然告白現場に居合わせてしまったことがある。東棟の2階から3階に上がる階段の踊り場。盗み聞きをするつもりはなかったが、身動きがとれずそこにいるしかなくなった。彼には恋愛感情が分からなかった。彼の謝る声は、まるで私に向けられたように胸を抉った。その痛みを伴う感情に名前をつけて、彼に教えてあげたかった。同時に私はその気持ちを意識し始めてしまったのだった。隠れた場所から見えた窓には、真っ白な校庭が広がっていた。
二年生も同じクラスで、彼に対する気持ちは膨らむばかりだった。六月の放課後、教室で一人シャボン玉をする彼を見た。彼は「見つかっちゃった」と笑いながら、それでもベランダに出てシャボン玉を吹き続けていた。「やってみる?」と渡されて膨らませたシャボン玉は、何回吹いてもうまく飛ばずに弾けてしまった。それを見て笑う彼の顔はとても優しかった。あぁこの気持ちも弾けてしまえばいい、飛び立つ前に。始まらなければ終わりもないのだから。彼がこんな風に笑いかけてくれるのであればそれで幸せだろう。風が強く吹いていて木々の揺れる音がしていた。彼はそれからもシャボン玉を飛ばし続けていた。
二月になっても弾けることなくこの気持ちは留まっていた。定期考査を控えた2月14日、渡すことのなかったチョコを捨てた帰り道、偶然駅で彼を見て後悔した。義理として渡せばよかったのか。いや、義理と偽って渡すことも許されないものだった。義理と名付けられたとしてもそれに入れた気持ちはとても重いものだった。いくら仲良くなっているといってもあのチョコを渡すことはしてはならなかったのだ、と自分に言い聞かせた。家についてシャワーと共に涙を流した。
学年があがると、クラスも離れて関わりも減った。夏休みの面談期間、部活のために来た学校で帰りに偶然彼に会った。校庭には野球部の練習の声が騒がしく響いていた。駅まで一緒に帰り笑顔を見るたび苦しくなって別れ際に口を滑らせてしまった。「付き合って」とは言えなかった。私には言える言葉じゃなかった。彼への「好き」を伝えることしかできなかった。それでよかった。彼は驚いた顔をしてから、少し眉を下げながら笑って「ありがとう」と言った。ずるいなぁ、と思った。その顔が好きなのだ。その顔が私のものになればいいと思っていた。なるはずもないとも思っていた。期待と自己嫌悪の狭間で揺れ動き、頭の中は感情と言葉で溢れかえっていた。涙も出なかった。弾けたのだ、この気持ちは。たった今、自分の不器用さによって。
それからも彼の態度は変わることはなく自由登校に入る前日まで、今までの態度で友だちを続けてきた。それは彼なりの優しさだったのだろう。その優しさが、また私の中の苦しみを増やしていることに彼は気づいていなかった。私もそれがいいと思っていた。しかし私の中の黒く重たい感情が最後の最後で出てしまった。自分を卑下することで見ないようにしていた感情が、溢れ出してしまった。そして今日の卒業式後までをタイムリミットにした二度目の告白を手紙にして下駄箱へ入れた。彼が読んだかも分からない。もしかしたら帰り道のコンビニでゴミ箱に捨てられたかもしれない。それならそれで仕方ないと思う。思うしかないじゃないか。好きになった人が彼なのだから。私よりも多くの長所を持ち、その眩しさで私の生きる世界を色づけた彼なのだから。それでも、私の幸せに彼が含まれるように彼の幸せにも私が含まれてほしいと願ってしまう。彼を愛して、彼から愛されるたった一人が私であればいいと考えてしまう、このどうしようもなく馬鹿な頭を誰か愛しいと言ってはくれないだろうか。
卒業式後の校内は人が行き交って騒がしい。人気者の彼はきっと忙しい。私はクラスの友だちと写真を撮って、すぐに昇降口へと向かった。廊下は同級生でいっぱいだった。こんなに同級生がいたのか。本当に彼だけを見て生きた三年間だった。大人から見れば拙いこの恋を実らせることなく終わるのだなと考えて、それも一興だと感じた。彼のおかげで人生には楽しいことがあると知れたのだ。十分だ。シャボン玉は上手く作れなくても楽しく遊べるのだ。
靴を履いて昇降口を出た。さようなら私の高校生活。さようなら恋心。そして―――
「待って!」
校門につく直前だった。息切れが聞こえる。振り向かなくても声で誰か分かった。大好きな声。ずっと自分のものにしたいと思っていた声。思わず涙がこぼれた。もう気にしない。どんな返事だろうと受け入れよう。涙をぬぐい振り向いて見えたのは、彼の手に握られたあの手紙と大好きな彼の笑顔だった。
あぁ弾けないで、シャボン玉。
自分の人生の一部をささげられる人がいるってすごいことですね