6. アポカリプス
マナは、煌めくシャンデリアの光を見つめていた。風に揺れるたびに、七色の欠片が地にいる者にも届けられる。
そこは、高級ホテルのロビーだった。元々、ノア国側のほうでリザーブしていたホテルだ。個室三部屋。それでも一室一室は、かなり広いようだ。ロビーの様相を見る限りでも、それはなんとなくわかる。有名な画家や彫刻家、デザイナーの絵やオブジェが所々、その存在を主張するように点在している。
その主張はもういいよと、マナは思った。今のマナはすごく疲れていた。あとはただ横になって、眠りたい。ロビーのソファに座りながら、そんな思いでいっぱいだった。そうしなければ、あの会食での騒ぎを思い出してしまう。
あのあと、会食は淡々と流れ去っていった。と同時に、レナートからの申し出を受け入れる形となっていった。それは、研究所を取り潰すための機動要員になってほしいというものだった。要するに、警察部隊とそう変わらないということだ。抵抗する者は、拘束して構わないという時点で、武力行使ということを意味する。それを履行しなければならない状況になったのは、他でもない、自分のせいだということはマナ自身、一番よくわかっていた。
ただその詳細を話している間もずっと、レナートの表情は変わらなかった。頬は、医療用ガーゼとテープで止血しているものの、血で染まったガーゼは未だ生々しく見える。
それでもレナートは、マナを責めたりはしなかった。こんな仕打ちを受けるのも尤もだ、というスタンスでいる。
とは言え、それでも微笑を浮かべていられるのは、不気味ささえ感じる。その奇妙な空気だけは、ジーンもレグルスも感じていたようで、〝普通の人〟ではないという感覚で接していたようだ。
ただ、彼が何を考えているのか、研究所を潰したあとどうするつもりなのか、ノア国はこれからどうなってゆくのか――。そういった展望をジーンは探りたかったが、そういうことに関しての片鱗を、レナートは一切見せようとはしなかった。
ふりだしに戻ってしまったような感覚だった。大事なチャンスを潰してしまったような気がして、マナはジーンの前で小さくなっていた。レグルスはフロントで、チェックインの手続きをしている。
あれから正装の貸衣装を返し、このホテルまで車での送迎をしてもらった三人だったが、その間ジーンは一言もしゃべらなかった。普段陽気な人が無言だと、本気で怒っているという風にしか捉えられない。
しかしジーンは、唐突に口を開いた。
「なんで、あんな無茶をした?」
それは問い詰めるような口調でもなければ、怒りをぶつけるようなものでもなかった。詩を口ずさんでいるかのように、すんなりと流れるように言った。
「……ごめんなさい。せっかくのチャンスも、何もかも台無しにして。ジーンにはジーンの考えがあったよね。レナート統主との交渉というか、そういうの……」
「いや、特になかった。大体の言いたいことや気持ちは、俺もマナと同じだった」
冷静な口調で彼はそう話す。だけど、その目はマナと合わせようとはしない。尚も続ける。
「でも、そんなことはどうでもいいんだ。俺だってマナと同じく、刃を向けたいという気持ちはあった。マナがそうしていなければ、俺が向けていたかもしれない。だけど、そんなことはどうでもいいんだ。俺が聞きたいのは、どうして無茶をしたか、ってことだ」
「……え、無茶って……」
ジーンの言いたいことが、わからない。マナは正直にそんな雰囲気を出して、ジーンに呟きと共に問いかけた。だがジーンは、苛立つばかりだった。
「マナは、レナート統主に刃を向けたんだよ!? そんなこと、マナはしなくていいんだって!」
「……何言ってるの? だってジーン、さっき言ったじゃない。〝マナがそうしていなければ、俺が向けていたかもしれない〟って」
「違う! そういう意味じゃない! それに一歩間違えれば、マナはレナートを殺していたかもしれない。その可能性を考えたりしなかったの!?」
「可能性も何も……、ただ無我夢中で……」
「俺はただ、マナを人殺しになんかしたくないだけなんだよ!!」
そのとき二人の目の前のテーブルに、白いカードキーが二枚、滑るように投げられた。
「夫婦喧嘩なら、部屋でしてくれないか?」
レグルスが、かったるそうな声でそう言った。そして、まわりを見ろといったジェスチャーをする。皆の注目を集めるくらいの大声で、どうやら言い合ってしまっていたようだ。さすがに恥ずかしくなったマナは、下を向いた。ジーンは気にした素振りもなく、あたりを見回すと、一枚のカードキーを滑らせるように手に取って、こう言った。
「ごめん、寝る」
◆ ◆ ◆
赤色の水面が煌めいている。少し揺らすと、それは脈動するかのようにリズムを刻む。来客のいなくなった迎賓館は、食器類も片づけられ、再びまっさらな白いテーブルかけに変えられていた。無菌のような静けさを取り戻すその場は、穢れを払うかのように、優雅なクラシック音楽が流れている。
レナートはもう一度、ワイングラスを揺らした。芳醇な香りとアルコールの余韻が、あたりに漂う。深夜をとうにまわった外の闇は、一層の濃さを蓄え始めている。
「デンス」
不意にレナートは、一人の男の名を呼んだ。側に控えていた切れ長の目の給仕は、その呼びかけに答えるように、レナートに近づいた。
「進捗状況は、どうなっている?」
冷たいその声は、二人以外誰もいないこの迎賓館に響き渡る。マナたちと相対していたときとは、まるで違う声音だった。だがデンスと呼ばれた男はそれに慣れているのか、レナートに流れるような言葉と共に受け答えを交わす。
「八十パーセントは、移行完了しています。ただ、一つ問題点が……」
「問題点とは?」
「えぇ、それが先日発見されたカイルのデータなのですが、どうやら不完全なデータだったことが発覚したようで……」
「……そうか」
レナートは一言だけそう言うと、グラスのワインを飲み干した。そしてこう言葉を継ぐ。
「だがそれでも進捗状況に、さしたる影響はないのだろう? 製作には支障はないと聞いたが……」
「そのようです。不完全データがあったとしても、それを補うだけの技術はあるとの返答でした。現に、製作段階は順調のようですし」
「そうか……」
テーブルに空になったグラスを、〝ことり〟という音を発しながら置く。デンスは、次の杯を勧めたが、レナートは無言で返した。しかしその代わりのように、こんな提案がなされた。
「なら、そろそろ手術の段階も考えておこうか」
「……少し今回は早すぎませんか?」
デンスは、レナートを気遣うようにそう聞いた。だがレナートは、その気遣いにも気づいていない人のように続けた。
「前回に比べれば、そうかもしれない。だが、我が国の医療技術は確実に進歩している。成功率も、限りなく百パーセントに近い。そんなことよりも私が危惧しているのは、一刻も早くあの力を我が手にしなければ、ということだ。内部に危険因子が育ちつつある今この状況を、見過ごすわけにはいかない。かと言って、ただ力で押さえつけるのは、第二のマナやジーンのような連中を鼠のように生み出すことになる」
「そう、お急ぎになりたいお気持ちはわかります。ですが、今この状況で、レナート様にもしものことがあったら……。レナート様は唯一無二のお方なのですから……」
「ふふっ。前回の手術も知らぬ若造に、何がわかる。私はこの連綿と続く歴史を見続けてきたのだ。間接的に伝え聞いただけではわからぬ、〝経験〟というものが私の中にはあるのだよ」
「……」
急激に変化したその口調は、本来のレナートのものなのだろう。そして、露わになった彼自身からそう言われてしまうと、デンスも何も返せなくなる。たしかに自分は、直接的にその手術の現場にもいなかったし、体験もしたことはない。それどころか〝その時代〟に、デンスは生まれてさえいないのだ。
だがそれでもデンスの中では、得も言われぬ黒く塗り潰した闇のような不安が立ち込めているのだった。なぜ? と問うても、わからなかった。言葉として当てはめるのならばきっとそれは、動物的勘とでも言うのだろうか。
「それに、この身体は傷物になってしまったからなぁ」
レナートはそう言うと、頬の傷をやんわりと撫でた。まるでそれは、他人事であるかのような口調だった。
「姿、形は気に入っていたのだがなぁ。しかしこの身体にも、等しく老いは訪れる。そもそも人は、日々生きて細胞分裂を繰り返すたびに老いているのだ。再生を繰り返すということは、そういうことだ。〝テロメア〟という砂時計を日々、消費し続けているのだから。そういう意味で言えば、我々は日々傷物になっているとも言えることなのだが――」
淡々とそんな科学的事実だけを述べるレナートを、デンスはうわの空で聞いていた。この、元々の名前さえもわからぬ人格を、ただ見つめていた。不意に彼はレナートを、AIみたいだとそう思った。データを入力すれば無限に学習してゆくAIロボット。現に彼の記憶は、一つの時代しか生きていないデンスにはわからない、知識や経験で溢れているのだろう。だからこそ、その様々な時代を生きた経験が優れた統率者、生きる歴史の代弁者となれるのかもしれない。
そういった部分においては、デンスはレナートを認めていた。だが自分もそうなりたいかと問われれば、答えは〝NO〟だ。なぜならデンスから見たレナートは、もはや人の域を超えていた。それはもしかしたら、神の領域なのかもしれない。だがそれは、禁じ手だ。
その領域に踏み込んでしまったレナートは、デンスにとってはただのキメラにしか映らないのだ。だがキメラはキメラでも、優秀なキメラであることは間違いない。そして、そんな今の彼の名は、レナート。生来の王。この事実は、変わらないのだ。
〝キメラを生み出す者もまた、キメラだ――〟
そんな言葉が不意に、デンスの中で湧き上がった。いや、昔、誰かが言った言葉だっただろうか。ぼんやりと研究者の出で立ちが立ち昇ってくるような、そんな錯覚を覚える。名を何と言っただろうか……。たしか、タウ一族の名を名乗っていたような、そんな気がする――。
デンスは遠い記憶に思いを馳せたが、その先は闇に紛れてしまい、その手がかりを見失ってしまった。
◆ ◆ ◆
黒い影と白い影が、交互に繰り返し登場する。それらは気紛れに、ベイズの頬や腕に触れているような気がして、そのたびにベイズの肌は泡立った。それなのに、それらに対して抵抗を示すことのできない自分がいる。いや、正確に表現すれば、抵抗を示す気力さえ残っていなかったと言ったほうが正しいのだろう。
ベイズを極度の睡魔が襲っていたのだ。それなのに、熟睡することができずにいるのだ。夢現でうとうとすれば、幻のような夢がベイズに襲い掛り、途中で目を覚ます。日々それらの繰り返しだった。
だが今日は、普段にも増してその症状が酷い。だからこそ、ここに来てしまった。それは、研究所の一室。パソコンばかりが並ぶ、事務作業専門の部屋だった。眠るに眠れない自分の魂は、結局は仕事を求めるようにできているようだ。
夢現でパソコン画面をスライドさせていた。そのモニタの影なのか、部屋に差し込む光なのか、どちらであるのかさえわからない。とにかくベイズが見ている世界には、白と黒の人影があった。それらはぼんやりとした煙のようだった。だから、はっきりとした表情の形は見えなかった。それでもベイズには、その人影の感情が手に取るようにわかるのだ。
ちょうど、夢の中にいるみたいだった。その対象人物がはっきりくっきりとした表情を表に出さなくても、なんとなくわかってしまう、眠りの中で見る夢の世界。それに似ていると自覚した。
その瞬間ベイズの脳の中では、白昼夢を見ているのではないか、という認識が生まれた。そう思えば、怖さは半減する。だけど、それらを自分でコントロールするまでには至らなかった。
今のベイズは、勝手に繰り広げられる幻想世界の芝居小屋にいる、たった一人の観客みたいだった。そしてそれらは、全く理解できない動きをするのだ。たまに感じられることと言えば、それらはソフィアとカイルの影、イデアのようなものであるということ。そして折に触れては、ベイズを責めようとしている。そんな気配だけは、はっきりと感じ取れるのだ。
しかしそれらの舞いも、徐々に終息を迎えていった。ある程度責めて満足したのだろうか。それとも、ベイズ自身が何気なく見つけたそのデータファイルに意識が向いたからだろうか。カーソルをその題名に合わせて、クリックしようとした。
しかし白黒の煙は再び登場し、〝それは開けてはならない〟、〝グリードに知られたら、お前は終わりだ〟と囁いた。そのファイルの題名は、〝scapegoat.docx〟だった。
囁かれる言葉が自分を責めている。前身を汗が伝う。それでも自分の気持ちは、囁かれている言葉とは、反対のことを考えていた。汗で湿った手のまま、マウスを操作する。
その声には屈しない。どうしても、どうしても知りたいからだ。グリードが今進めている計画を。ソフィアやカイル、アルファルドの遺伝子データをどうしたのか、どこへやったのか、ちゃんと保存されているのか、壊されていないか――。
ベイズはそのデータファイルを、ダブルクリックした。すると画面は、管理者パスコードを要求してくる。その瞬間、揺らめいていた幻影たちは気化するように消え去り、その代わりのように、うずくまっている一人の女がそこに見え始めた。その女は、先程の煙のような存在よりも、はっきりとしたものを感じさせた。だけどそれもまた、影なのだ。
なぜならベイズは、その女に向けて手を伸ばしてみたからだ。女は顔を手で覆うようにして、泣いていたのだ。慰めようと伸ばしたその手は、映像をすり抜けるかのように、女を突き抜けてしまった。
だがその気配で、女はベイズの存在に気が付いた。顔を上げたその女は、ソフィアだった。その顔立ちは昔の若さのままで、青い瞳の透明感が美しかった。
「……ソフィア?」
ベイズは思わず、そう呼びかけた。するとソフィアは、また泣き始めてしまった。
「なぜそんなに泣いているんだ、ソフィア……」
ベイズは席から立ち上がり、うずくまっているソフィアのところまで行って、同じ目線になるようにしゃがみ込んだ。だがソフィアはしゃくりあげるだけで、一向に口を開こうとはしない。
よく見ると、ソフィアと自分がいる場所は、青い水の中のような揺らぎのある場所へと変化していった。
「……助けて」
不意に、ソフィアはそう呟いた。ベイズは小さなその声を、なんとかして拾おうと、耳を近づけた。
「どうしたんだい、ソフィア。そんなに悲しむ必要なんて、どこにも……」
「いいえ、ベイズ。あの人たちは、とんでもない計画を推し進めている……」
涙で頬を濡らしたまま、ソフィアは懸命に訴える。いよいよもってベイズは自分の脳を疑った。これは、眠れない自分の脳が見せる白昼夢だ。そのはずなのに、今のベイズが抱える感情とは全く違うことを、目の前のソフィアの幻影は語っているのだ。
いや、それでもきっと目の前のソフィアは、自分の脳が都合よく動かしているに違いない。きっと疲れ切った自分が自分に、癒しのような映像を見せているだけなのだ。もう少し、自分のこの茶番に付き合ってみようか。
そんな軽い気持ちで、ベイズはソフィアに話の続きを聞いた。
「それは、どんな計画なんだい?」
すると、ソフィアは急に震え始めた。それは言葉にすることさえ、怖れているようだった。
「ソフィア? どうしたんだい? そんなに怖がらなくても、大丈夫だよ」
それでもソフィアはがたがたと震え、子供のように泣いている。
「……私は、私なのに……私は、私なのに……私は、……」
しきりと呪文を唱えるように、何度も何度も呟く。ただ事ではないソフィアのその様子に、さすがのベイズも背筋にうすら寒いものを感じ始める。
不意にソフィアは、ベイズがさっきまで見ていたパソコン画面を震える手で指差した。そして、唐突にこう言った。
「アポカリプス」
瞬間、ベイズは悪夢から目覚めるときと同じく、急激に目を覚ました。誰かに操られたかのように、瞼が急に開いたのだ。
あたりを見回す。白と黒の影も、ソフィアの幻影もそこにはなかった。あるのは、爽やかなまでの緑の匂いが混じる日差し。そして、パソコン画面。開こうとしていたデータファイル。
そうか、そうだった。自分はこの、〝scapegoat.docx〟と書かれたデータを開こうとしていたのだった。ベイズは目の前にあるパソコン画面を見て、急遽思い出したのだった。律儀にも、パスコードを求める画面で止まっている。ということは、その間にどうやら自分は、うたた寝をしてしまったようだ。
崩れていた姿勢を正し、画面へと向き直る。しかし問題のそのパスコードの前で、はたと手が止まる。ベイズは何かグリードが好みそうな言葉を、頭の中に列挙してみた。もしくは、この計画に関する単語などを。
〝arcadia〟
あまりにも単純だとは思ったが、そういうものにこそ、盲点はあったりするものだ。
しかし画面は、その単語を弾いた。あと二回のチャンスだった。でなければ、自分のIDは使用停止IDとなってしまう。その警告文が画面を覆った。
その瞬間、はたと冷静になる自分も見つける。こんなところで何をしているのだろうと。それに、自分のIDが使用停止になってしまったら、仕事ができなくなる。そうなってしまったら、嫌が応にもグリードに報告しに行かなければならないだろう。
それでもベイズは半ば、やらなければならないと思った。そんな使命感に突き動かされるのは、先程のソフィアの夢のせいだろうか。
〝exceed〟
この単語も弾かれた。残るチャンスは一回。本当にこれで最後だ。
ベイズはそう覚悟した。今ならまだ、引き返せる。心の半分ではそう思うのに、なぜかその選択肢は除外されている。なぜなら、ここで挑むことから降りても、自分を待っている運命は、眠ることの許されない日々だということが、ベイズを動かしていた。そんな今の自分の状況には、何かしらの運命めいたものさえ感じていた。
どちらに転んでも自分に待っているものは、死だ。ならば生きよう。やるべきだと思っていることをやり遂げて、そんな自身の魂を生きて、そして死を迎えよう。
ベイズはこのときに、何かが定まった。画面には、こんな文字が浮き上がる。
〝apocalypse〟
自身が打ち込んだ文字だ。ベイズはソフィアの夢に賭けたのだ。
そのとき、ベイズは小さな風を感じた。それは誰かの吐息のようにも、息吹のようにも感じられた。
そして、その文字列を理解した画面は、しばらくその全面に白い布をかけたように、沈黙した。しばらくして、画面はこんな応答を返してよこした。たくさんの実験データの並ぶ、ファイルだった。ベイズは憑りつかれたように、それら一つ一つを開いては確認した。ある画面で、ベイズの手は止まる。その瞳は徐々に、驚愕に見開かれてゆく。
その画面には、ソフィアと同じ顔をした少年の顔写真が表示されていた。それが〝少年〟だとわかったのは、よく見知っていたソフィアよりも十は確実に若く、画面上に〝Male〟と書いてあったからこそ、そう判断できたのだ。それがなければ、ソフィアそのものにしか見えなかっただろう。それほどに、画面上の彼は中性的な雰囲気を持つ、美少年だった。
だがベイズの驚愕の直接的な原因は、それではなかった。その横に並んだもう一つのデータのほうだった。そのデータには、たくさんの顔写真と名前が並んでいた。その顔写真は、年月の流れを感じさせるような、年代的なものから始まっていた。最後に向かうにつれて最新のものらしく、カラーも色褪せていない、鮮明なものだった。その一番最後の顔写真は、ソフィアそっくりの少年であったのだが、そのデータ全体が示す内容は、ある一人の患者の移植手術カルテだった。ある一人というべきか、それともある人格というべきか……。
そのカルテは、レナート統主、その人の脳移植カルテだった。歴代の顔写真の人物は、彼の脳を宿す宿主たちだったのだ。最後から二番目にある写真が、驚愕に震えるベイズに微笑みかけている。よく見知ったその顔は、何かをベイズに伝えたそうに感じられて、ベイズは思わず悪い呪縛から逃れるように、そのウィンドウを閉じた。
「やはり、ここにいたか」
不意に後頭部に、硬く重い何かが押し当てられる感覚に、ベイズの全身は急激に凍った。振り返らなくても、それが誰なのかベイズにはわかっていた。パソコン画面に、その人物の銀縁眼鏡の光が映り込んでいた。
「最近のお前は、様子がおかしいと思っていたんだ」
カチッという硬質の金属音が、やけに大きな音に感じられる。
「グリード、私は何か悪いことでもしでかしたかい?」
ベイズは両手を上げて、後ろのグリードに話しかけた。グリードはさらにその銃口を、ベイズの後頭部に強く押し付けてきた。
「貴様が何を知ったか、どれほどの重大な秘密を知ったか、その身体で知りたいのか? ならばその記憶もろとも、消し去ってやる!」
「待てッ! 待て、グリード!! 私はその計画の重大な欠点に気づいてしまったぞ!」
「…………、欠点だと?」
「あぁ、欠点だ! しかも、致命的だ!」
グリードは、ベイズのその言葉に食いついた。統主の脳と命のかかった失敗の許されない計画なのだ、欠点と聞いて聞き逃すはずはないだろう。実際、ベイズのその言葉は、はったりではなかった。データを見て、気づいてしまったのだ。ソフィアとマナの遺伝子を元にして造られた、あの少年の遺伝子。彼らは長寿や不老不死を夢見たのだろうが、あれは完全なる失敗だ。
しかももう一つ、大きな大きな問題点と危惧が潜んでいた。それに対する実際の実験データはとったのだろうか。いや、とれるはずもないだろう。その実験はあまりにも危険すぎる。マウスでの実験でも、不十分だろう。なぜならそれは、人の脳でなければ、実際にどんな作用を引き起こすのか、未知数なことなのだから――
ただでさえベイズは、マナの力を生み出してしまったことに対して、様々な危惧や危険性を抱いているというのに、それらを検証もせずに次の段階に進むなど、危険すぎる! レナートもレナートである。自分の脳でさえも、道具のようにしか思っていないのだろうか。まさかそれさえも、すげ替えることができるとでも言いたいのか!?
「ならその欠点とやらを、話してみろ」
グリードは苛立った様子で、早口にそう言った。ベイズは考えた。その欠点を正直に話したとして、話し終わった後の末路は決まっている。それに、ここまで強引に計画を推し進めてきた者たちに欠点を話したとて、素直に聞き入れてもらえるとは思えない。だからこそ敢えて、こんな質問をしてみた。
「もし、レナート統主に何かあった場合、その対策は考えているのか?」
「俺の質問に答えていない」
「いいや、これは重大なことなんだ。もしその対策がとられていないのだとしたら、私たちは大切な統主を失うことになる」
「……」
後ろに立つグリードは、しばらく無言でいた。その息遣いだけが、あたりに緊張感を漂わせる。やがてグリードは、重い腰を上げるかのように口を開いた。
「何の対策も講じずに、そんな危険な手術を施すわけがなかろう。レナート統主の脳の構成組織と遺伝子バックアップは、とっておいてある」
ベイズはその話を聞いていて、まるでデータか何かを扱っているような、そんな錯覚を覚えた。たったそれだけで、人一人の脳を再構成できると思っている。考えれば考えるほど、怖ろしい話である。それでも彼らは医療技術向上のため、不老不死実現のためと、そう願ってやまないのだろう。
しかし、第三者の立場にまで降格した今のベイズから見たら、それらはすべて人道的行動から逸脱していた。だがノア国の医学界がそんな道を歩むきっかけを作ってしまったのは、自分にも責任はあるのだろう。
ベイズはそんな考えに至ると、今この場から逃げ出してはならないと、そう思うのだった。
「それで、お前が気付いた欠点とは何なんだ?」
そろそろ言わなければ、本気で撃つぞとでも言いたげに、再度銃口を強く押し付けられる。
そのとき大きな長い影が、二人の後ろから差した。そして次の瞬間、ベイズの後ろのほうで鈍く重い音が、この部屋に響き渡った。短いグリードの悲鳴と共に、その身体は床に倒れ伏した。頭から落ちるように倒れたその身体は、頭部から大量の血の海を作り出してゆく。
その向こう側に立っている人物を確認した瞬間、ベイズは目眩を覚えた。長いバールを手に震えている、ルインがそこにはいたからだ。
「ルイン!! なんてことだ!!」
「館長!! 館長はこのままお逃げください!!」
「馬鹿なことを言うな! お前はどうするんだ!?」
「僕は……、自首します……。どうせここに居続けたって同じです。聞きましたか? この研究所は潰されるのだそうです。つまりは、僕たちは非人道的研究員として、法の下に裁かれる運命にあるのです。どの道、変わりません」
「潰される!?」
ベイズはその事実を聞いて、〝梯子を外された〟と思った。この研究所の存在が明かされ、ノア国内において倫理性を問われ始めた世の流れ。それに対する危機感も感じていた。だがまさかこんなにも早く、且つ、こんなにも無情に切り捨てられてしまうとは、そこまでのことはさすがのベイズも考えていなかった。今までの実績や貢献など、政府にとっては、レナート統主にとっては、どうでもいいことなのだ。
ベイズはこの瞬間、全てを決した。政府やレナートなど、もう関係ない。命の灯火がかき消されそうになっている人間にとっては、そんな権威などもうどうでもよいのだ。ただ自分が研究員としてどうあるべきか、何をすべきなのか、今のベイズはそれだけを考えていた。そうして出た答えは、何度考えてもそこにしか辿り着けなかった。
「館長! お願いです。せめて館長だけでも逃げてください。あなたは、ここにいるべき人ではない!」
「いいや、ルイン。私は私の罪に、向き合うべきときが来たようだ」
そう言うとベイズは、床に倒れているグリードの脈をとった。身体のほうは、少し脈が速くなっているが、さしたる異常はなさそうだ。それよりも問題は、殴打された脳のほうだろう。
「ルイン、頼まれてほしいことがあるんだ」
ベイズは静かにそう言った。ルインはただただ動揺した心をまだ抑えきれていないといった様子で、先端が血で染まったバールを未だ握りしめている。
「私の昔の研究チームを呼んでくれないか? 館内に残っている者たちだけでいい。どうしても、どうしても、やらなければならないことがあるんだ……」
ルインはベイズの決意の灯るその強い眼差しを、怪訝な表情で見つめた。それでもルインの心の中では、ベイズを逃がすルートの経路ばかりを反芻している自分がいた。




