5. 深淵を覗く者
車を降りると夜の冷えた空気が、肌にしみた。人工的に作り出した太陽とは言え、夜はあるらしい。その気になれば一日中照らし続けることもできるだろうに、それをしないということは、やはり人間、休息が必要ということなのだろう。
空を見上げると、星が瞬いていた。昼間の空でも感じていたことなのだが、それにしても臨場感のある空だ。これが映像だとは思えないその技術力には、やはり目を瞠るものがある。
しかしそれでもこの空は、造りものだとわかる。なぜならそこには、アルテミスでは見ることのできるものがないからだ。それは、月だ。太陽も造り出し、星さえも映像で再現しているのに、月がないというのは奇妙だとマナは思った。
考えてみれば、彼らノア人は地表の世界を〝アルテミス〟と呼ぶ。地表の世界は月で、自分たちは太陽だと言いたいのだろうか――。
そんなことを考えていると、徐々に頭が冴えてゆく。いや、酔いはとっくの昔に冷めていた。ジーンにどさくさに紛れてキスされたときに、全てが吹き飛んでしまった。おかげで目は覚めたのだが、毒を吐いていたときの感情はまだ残っていた。如何ともしがたい苛立ちが、まだ心の奥底のほうで燻っている。それはジーンに対してのものではない。そういう生易しいものや、可愛げのあるものではないということだけは、よくわかっているのだ。
ここに来て、自分がそんな感情を抱くとは、マナ自身も思っていなかった。研究所を取り潰すために協力してほしいという理由なのだから、もっとこう……、温かみのある何かを持った人々なのではないかと思っていた。だけどここの空気からは、マナの予想とは違って、そういう柔らかいものは感じられない。結局のところ、彼らも研究所の者たちと、何ら変わりないのではないかと、そう思い始めてさえいるのだ。
だが考えてみれば、研究所を創設したのだって、ノアの人々なのだ。そのことを忘れてはならないという気持ちが、ここへ来て一層強くなる。それともこの感情は、何かの予感なのだろうか。
得も言われぬその感覚を抱きながら、マナは案内役の男性の後に続いた。
通された部屋は、しんとした独特の空気を持った部屋だった。なぜかわからないがマナの中で、〝無菌室〟という言葉がよく合うとそう思った。床はぴかぴかに磨き上げられ、シャンデリアの光を四方に反射させていた。鏡が下に敷き詰められているみたいで、酔いそうになる。
広い室内の真ん中には、白い布をかけられた長テーブルと、重厚なバロック様式の彫り細工が施された豪奢な椅子が手前に三つ、奥のほうには宝石がはめ込まれた一際煌びやかで大きな椅子が一つ、用意されていた。
しかし、それらが真ん中にこじんまりと収まってしまうほどに、この部屋は広い。何もない空間が無駄に多くて、嫌でも緊張を感じてしまう。だからなのだろう、〝無菌室〟という言葉が浮かんできたのは。
三人はそれぞれ、案内役の男性に導かれるままに、席に着いた。位置的にジーンが、レナート統主と向かい合う形の席である。しかし、向かい合うは向かい合うでも、その距離はかなり離れている。それは、マナからの距離も、レグルスからの距離も同じだった。要するに、上座と三人が座る下座の距離自体が、離れているということだ。その距離に、全てが集約されているような気がした。
案内役の男性が室内から消えると、部屋の静けさはさらに増した。空調の音ばかりがやけに際立つ。いつか病院で聞いた音と同じだということに気づくと、途端にそこは何かの研究施設のように感じられてしまう。
三人共がそれぞれに無言だった。ジーンでさえも、ここに来るまでの道化のような振る舞いはすっかり消え失せてしまっていた。
たっぷり、五分は経っただろうか。上座の扉からその人物はするりと現われたときには、拍子抜けするほどに、現実感を伴わなかった。それどころか、厳かな何かも感じることもなく、ただ淡々と現実が流れてゆく感覚だった。
相手は、普通の人よりも少し早足と思える速度で入室した。着席していた三人は、即座に席を立つ。一番奥、上座の席の前に立つその人、レナート統主は、三人の目を一人一人確かめるように見つめた。そして、小さな自己紹介と共に三人に敬意を示すと、着座の合図を送った。
思っていたよりもレナート統主は、年若い男だった。年のころは、四十前半だろうか。いや、三十代と言っても通じる顔立ちをしている。そしてどことなく雰囲気が、ジーンに似ているとマナは感じた。常にその口元には微笑を湛え、気品溢れる人だと思った。
だがなぜか、その瞳は違った。目元にも微笑を浮かべてはいるのだが、その目は微笑で隠すことができないでいる。そう感じる理由は、その目が鋭すぎるからだ。何もかもを企てているようにも感じるし、何もかもに真実も感じる。
そこがジーンとの決定的な違いだった。そう、彼は、信じ切ってしまっているのだ。自分の持つその仮面のような何か全てを、自分自身であると信じ切っている。だからこそ彼から感じるものは、絶対的な自信――
マナはそれに対して、嫌悪の感情を覚えた。一瞬だけ、僅かに自身の鼻筋に皺が寄る。しまったと思ったが、思ったときにはもう遅い。それをただただ、悟られていないことを願うばかりなのだが――
「どちらに致しますか?」
唐突に横からかけられた声に、マナは身体を震わせた。見るとそこには、先程の案内役の男性が立っていた。切れ長の目が特徴的だったから、覚えていたのだ。今はこの部屋で、給仕役を務めている。彼はワインのメニュー表を差し出し、マナからの答えを待っていた。
「えーっと……、どれが軽めですか?」
様々な銘柄のワインが載っていたが、正直今のマナは、お酒はもうお腹いっぱいだった。それよりかは、食事のほうに興味があった。
「こちらはいかがでしょうか? ベリー系のフルーツの香りが強い、お酒に弱い女性でも飲みやすいタイプになっております」
「じゃあ、それでお願いします」
「かしこまりました」
〝お酒に弱い〟の部分で、レグルスはマナを二度見してきたが、それには気にすることなく、マナは給仕役の男性に注文した。
「どちらに致しますか?」
隣では今度はジーンに、ワインメニューを差し出している。ジーンはそのメニューを見もせずに、こう答えた。
「レナート統主と同じものを」
その場の誰もが、息を飲んだ。視線を一身に受けたジーンだったがその顔は、〝何か、おかしなことでも言ったか?〟という表情をしていた。しかしその顔には明らかに、挑発的なサインが見え隠れしていた。レナート自身もその色合いは、感じ取っていた。
しかしレナートは、それを受け取りながらも、やはり微笑を崩すことはなかった。むしろそれを歓迎しているようにさえ、見えた。ジーンはその瞬間、自分の中の静かな闘志のようなものが燃えてくるのを、感じていた。武器を使っての戦いではなく、舌戦での闘志である。
だがレナートは、それを意に介していないといった様子で、それぞれに運ばれてきたワインと、前菜に目を配った。そしてにこやかに、乾杯の挨拶を交わす。
「今日は突然の申し出にもかかわらず、遠いところお越しいただき、誠にありがとうございます。この出会いを祝して、今夜はささやかではありますが、我が国自慢の晩餐を用意いたしました。どうぞ、ごゆるりとお楽しみください」
部屋中に響き渡ったその声は、馥郁とした香りのワインと共に、皆の喉に流れ込んでいった。銀のナイフと食器が触れるたびに、音が鳴る。しばらくはその音が、あたりを満たしていた。互いが互いの外観を観察するような、そんな時間だった。
やがて、その中で口を開いたのは、レナートのほうだった。
「今日、ここに集まってもらったのは他でもない、アルカディア研究所のことに関してだ。カミュから薄々話を聞いていると思うが……」
「薄々ではなく、はっきりと聞きました。研究所を、取り潰す決定をなされたという話を。それに関して、詳しい話をお聞かせ願いたい」
早くもジーンは斬りこんでいった。その顔には、道化の仮面の欠片もない。彼自身がそこにはいて、今はただ鋭いナイフそのもののようだ。
「そうだな……、君たちには特に、詳しく話さなければいけないことだな」
レナートはテーブルに視線を落とし、そう呟いた。
料理はスープが登場し、人によっては魚料理がもうすでに運ばれている。この地下世界でも、地表の海に生息している魚を食すことができる、ということにジーンは一瞬疑問を覚えたが、すぐに目の前の現実に引き戻された。
レナートは、フォークとナイフを皿に置き、静かに話し始める。
「たしかに、あのアルカディア研究所とアルカディア計画は、前代の統主が計画を立て建設されたものだ。その当時の理念や計画を、私も引き継いだつもりだった。難病患者を救うための医療技術の発展、特に遺伝子治療に関しては力を注いできたつもりだ。その理念の下に、運営されていた……はずだったのだ」
そこでレナートは言葉を切った。しかしその瞬間を逃すことなく、ジーンはさらに斬り込んでゆく。
「〝つもりだった〟、〝はずだった〟。まるで、他人事のように聞こえますが」
そんなジーンの鋭い斬り込みにも動じることなく、レナートは続けた。
「そう聞こえてしまうのは、大変申し訳ないし、君たちにとっては大変失礼なことだったね。すまなかった。だがたしかに、未だ私の中にはそんな私がいるのかもしれない。なぜならその理念から外れた研究が続けられていたということは、私自身把握していなかったとは言え、管理不行き届きであることに変わりはないのだから」
その瞬間、ジーンは鼻筋に皺を寄せた。そしてそれを隠すつもりも、さらさらなかった。目の前にいるこの統主と呼ばれる男に、刃を向けてやりたい気持ちに駆られたからだ。
なぜなら彼は、完全に隠れ蓑に入ったからだ。〝把握していなかった〟、〝管理不行き届きだった〟という隠れ蓑に。その瞬間、ジーンには見えてしまったのだ。レナートのシナリオが。
ジーンの口元には、歪んだ笑いが浮かんだ。喉の奥のほうで、低く唸るような笑い声を発している。
「どこまでも汚ねぇ野郎だ」
レナートには聞こえないくらいの、小さな呟きだった。だけど聞こえてもいいと思った。そして何もかもが、今この会食ですら、我慢ならないものへとジーンの中で変わっていった。
「そうやって管理不行き届きだった研究所を、俺たちに潰させようってのかい。責任は全て、研究所の職員になすりつけて……か。そのうち、事の全てが終わったら、今度は俺たちにその刃が向きそうだな。マスコミの報道規制や、情報操作を大いに使って、今度は俺たちに罪をなすりつけるのかい?」
今の自分は、とんでもなく邪悪な顔をしているのだろう。ジーンは、怒りのままに湧き出てくる言葉を放ちながら、心のどこかでそう思った。
だが、この怒りを抑えることのほうが、どうかしているとも思った。どうかしている、気が狂っている、気違いだ……、どんな言葉でもいい。もはや湧き出てくる怒りは、ずっと蓋をし続けていた研究所やそれらを取り巻く全てに対する思いは、もう止めることはできそうもない。ジーンはそう思った。
対照的にレナートは、相変わらず冷静なまま、見ようによっては怒りを受け止めるかのように、じっとジーンの瞳を見つめている。
しかし、唐突にレナートは立ち上がり、次の瞬間深々と頭を下げた。そして、
「すまなかった。君たちには、多大な苦労と心労をかけてしまった。この通りだ。私たちのことをそう思ってしまうのも、無理もないことだろう。どう思ってくれても、構わない。それに、謝ってすむ問題ではないことだけは、わかっている。特に、君たちの出自に関しては」
ジーンは、振り上げた拳の行き場を失った思いだった。そうやって頭を下げられてしまえば、こちらはもはや出る術がなくなってしまう。ましてや、憎い相手だったとしても、相手は一国の統主なのだ。これ以上はどんなに強い怒りがあったとしても、責めることはできない。
それに出自のことを言われてしまえば、これ以上は言えない。曲がりなりにも、ジーンたちを生み出したのは彼らなのだ。逆を返せば、彼らがいなければ、自分たちはこうやって存在することすらできなかったかもしれないのだ。
ジーンは歯噛みした。〝先手を打たれた〟と、思ったからだ。なるほど彼は、切れ者だ。感情だけで動く者ではない。だが、ロジックだけでもない。先を読み、そして空気の匂いを嗅ぐことのできる、優れた統率者――
そんなことを頭の中で考えていた。だから、それに気づくのに遅れてしまった。
その異変に気付いたのは、小さな地震が起きているかのように、ナイフやフォーク、食器たちが小刻みに揺れ始めたときだ。
それは一瞬だった。はっと気づいたときには、銀色のナイフは食器から浮き上がり、弾丸のように真っ直ぐに飛び出していった。それを飛ばした原点は、マナの食器だった。そしてそのナイフは、レナートの頬数ミリ手前で寸止めされた。しかし、小刻みに震えるそれ自体からは、怒りの熱が治まっていないことを感じさせる。
それどころか、その熱は徐々に大きくなるばかりだった。
「……それで、許されると思っているの? いいえ、違う。それで許してもらおうと思っているわけ? ちょっとそれは、甘いんじゃないの?」
マナは座っている席からゆらりと立ち上がった。ジーンの位置からは、マナの表情は見えない。だがその背を見る限り、憤りに震えていることは明白だった。
「いいえ、そもそもあなたは、謝罪なんかしていない。あなたの心はそう思ってなんかいない。本当にそう思っていたのならば、私たちだけにではなく、私たちを生み出すために失われていった生命、破壊された者たちへの謝罪が先に来るはずよ!! そして、今でも研究所では新たな開発という名のキメラが誕生している。その元になっているのは、私たち人間の生命なのよ!! もしかしたらそれは、あなただったかもしれないって、少しでもそう思ったことはないわけ!?」
レナートの頬に向けられていたナイフは、マナの言葉と怒りと共に、その頬を傷つけ始めた。頬に侵食してゆくように、切っ先が肉にめり込み始めている。そして、そのナイフは実際に誰かが手で握って押し付けているかのように、小刻みに震えていた。
と同時に、テーブルの上にある食器類や、ワイングラスの揺れも激しくなる。グラスから零れ落ちた赤ワインの水滴は、白いテーブルに赤い血痕のような染みを広げていった。
この場にいた誰もが異変に気づき、駆け付けた給仕でさえも、動けずにいた。この場全体を押さえつけるかのような重力のあるマナのプレッシャーが、凄まじいものだったのだ。マナは知らず知らずのうちに、この場全体へと影響を及ぼしてしまうような力を使ってしまっていた。
尚も、マナの抑えられぬ怒りは続く。
「あなたは、私たちを未だ人形のように操れると思っている! 遺伝子をコピーするように、簡単に動かせると思っている! 私たちには、心がないとでも思っているの!? 細胞の塊であるとでも!? そんな細胞の塊に、こうやって見えざる力で強制的に押さえつけられ、傷つけられる気持ちは!? どんな気持ちがするの!? 教えてよ、私に!! 言いなさいよ!!!」
「やめろ!! マナ!!!」
ジーンは声を限りに叫んだ。この場を覆っていたマナの力はあまりにも強く、声を押し出すことさえ困難な状況だった。それでもジーンは、マナの力全てを押しのけるように、声を限りに叫んでいた。
なぜなら、マナのその激しい怒りは、レナートの頬の肉をさらに深く抉っていたからだ。頬を伝い落ちる鮮血が、レナートの服を、テーブルを染めていた。それでもレナートの表情は、何一つ変わらなかった。
しかし、ジーンの鞭のようにぴしゃりと響き渡った声は、マナの力を無力化させるに十分なものだった。マナの身体は弾かれたように震え、そして、我に返った。途端に、レグルスも給仕も、むさぼるように息を吸い込んだ。どうやらその力は、二人の呼吸さえも奪ってしまっていたようだ。
その瞬間マナは、自分の爆発的な激しい怒りを恥じた。と同時に、深い罪悪感に襲われる。
自分は今、何をしようとしていた? レナートと、同じことをしようとしていたではないか!
それに気づいたとき、マナの中で何かがくずおれそうになった。ジーンの瞳でさえも、自分を見つめる目に、鋭さを感じる――
だが、なぜだろう。彼からはマナと同じ、何かに対して責任を感じているような、そんな痛みの感情も、その表情には宿っていたのだ。一瞬だけ、その目は力なく伏せられた。そしてレナートに向き直ると、静かに深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
マナは僅かずつ、レナートに視線を向けた。ジーンに続くように、頭を下げようとしたときだった。マナはそのとき、背筋に恐怖を覚えた。なぜなら、レナートの表情はナイフで抉られていたときから全く、何一つ変わっていなかったからだ。ただ淡々と、血を拭っていた。そしてマナと目が合うと、驚くべきことに彼は、笑いかけた。
そのときマナの頭の中に、はっきりとした直接的イメージが浮かび上がった。それは、レナートがなぜか、自分と同じ顔立ちをしているイメージだった。そしてその顔は確かに、嬉しそうに、笑っていた。
悲鳴を上げそうになったマナの身体は、震えながら膝が抜け落ちるように、ぺたんと床にへたり込んでしまっていた。かろうじて上げずにいられたのは、その身体を支える腕がそこにはあったからだった。




