4. 少年軍人
エレベーターから降りたその階は、茶色という落ち着いた色で構成されていた。赤茶色のカーペットに、木目調の壁。それは高級感を生みつつも、自然の要素が入っているせいなのか、リラックス感も生んでいる。この階を移動する者も、官僚らしい風貌の者が多い。その中でもやはり軍服を着た者が多いことから、カミュの属する部門は、ここで間違いないということを語っている。
それにしても、そんな中で普段着のジーンは、やはり目立つ。すれ違うもの皆、白い目で不躾に見てゆく。しかし誰も、来賓の一人だとは気づかなかった。この階にいる者は、入り口での出迎えには出席していないのだろう。ということは、本当の内務専門の官僚と言えるのかもしれない。
ジーンはそんなたくさんの目の中、堂々と廊下を歩いた。こういうときは、普通にしているのが一番良い。それにしても、怪しんでも誰も声をかけて引き留めようとはしない。いやはや、ある意味開けた場所と言えばいいのやら、何なのやら……。ジーンは少々戸惑いながらも、廊下を進んだ。
すると、一番奥の部屋から人が出てきた。ちょうど退室する場面だったようで、扉を開けた隙間から人の話し声がする。その声の片方が、聞いたことのある声、カミュの声が聞こえてきた。
「あのッ!!」
扉が閉められる寸前、ジーンはわざと大きな声で退室しようとする男性を、声で制止させた。その声は中にいるカミュにも届いたようで、怪訝な顔の後で、顰め面に変わったその瞬間を、ジーンの目は逃すことなくちゃんと収めていた。この顔は咎めるか、追い出そうとする者の顔だなとジーンは思ったが、意外なことに中にいるもう一人から声が上がった。
「何だ? お前の知り合いか?」
〝お前〟と呼ばれ、カミュは再度室内の人物に向き直り、二言三言、何事か話している。ジーンのいる場所からは、その人物が見えない角度に収まっている。直接呼び止められた男は、〝何者だこいつ?〟と言いたげな表情を、露骨に表して過ぎ去っていった。
「いえ、知り合いも何も……、少々緊急事態発生でして……」
戸口に近づくと、珍しく慌てた様子のカミュが、口早に中の人物にそう説明していた。戸口に近づくたびに、少しずつジーンの視界の角度が開けてくる。カミュの背に重なって見えなかったその人物の容姿も、露わになってゆく。
ということは、逆も然りで。相手もこちらの全貌を、やっと視界に収めたという顔をした。と同時にジーンは、はっとするほどに、その瞳に惹きつけられた。
「あぁ、なるほど。緊急事態ね。彼が噂のジーンだね」
その人物の言葉を聞いた瞬間、カミュは過敏なほどに、ばっと後ろを振り返った。一瞬、忌々しいという顔をした後に、諦めたように息を吐き出した。そして、
「……そうです」
と、呟いた。
「まったく、やってくれますよね。それで、監督不行き届きで注意されるのは、僕なんですからね」
と、おまけのように愚痴を言うことも忘れなかったが。
「ふーむ、なるほどね……」
しかし、部屋の奥にいる人物は、カミュの愚痴を聞いてもいない様子だった。
その問題の人物は、興味深そうにジーンにその瞳を据えている。見た感じ、年の頃は四〇半ばを過ぎたあたりに見える。日に焼けた肌とがっちりとした骨格は、身を包んでいるその制服とよく合っていた。軍人になるために生まれてきた。そんな容姿である。
それなのに、彼の瞳はそれとは少し違っていた。軍人らしい、眼光鋭いものではなく、精気に満ち溢れ、生き生きと輝いていた。身体だけが年をとってしまったみたいだ、とその瞳は語っているようだった。
と同時に驚かされるのが、この部屋の壁全てを覆うように、所狭しと並べられたその蔵書数である。その山を見てしまうと、彼は好奇心旺盛な少年のように感じられてしまう。
「セイシェル様、僕は彼を控えの間まで送ってきます。先程の話は、戻りましたら今一度……」
カミュの慌ただしいその言葉で、セイシェルと呼ばれたこの男への、ジーンの観察眼は途切れてしまう。その集中を邪魔されたことに対して一種の興醒めは感じたものの、セイシェル自身の次の言葉で、ジーンの興味はまた舞い戻った。
「いや、いい。しばらく彼は、ここにいてもらうといい。それに、統主との面会まで時間はあるのだろう?」
セイシェルがそう言うと、カミュは〝また悪い癖が始まった……〟と小さく呟き、呆れたようにため息を吐き出した。そんな部下の反応など気にも留めず、椅子から立ち上がり、机越しに右手をジーンに差し出した。
「私の名は、セイシェル=タウだ。一応、この国の国防長官をやってる」
「……えーっと、初めまして。知っていると思いますが、ジーンです」
正式な自己紹介と共に握手を直々に求められてしまったものだから、ジーンも妙に委縮して、おとなしくその握手に応えるのだった。
それにしても彼にとって、〝国防長官〟はおまけなのだろうか。言葉の響きからして、片手間でやっている、といった色合いを感じるのだ。実際彼のように、多方面に興味を持つ人にとっては、そんな深層心理の構造なのかもしれないが。
しかしジーンにとってそれは、自分よりも遥かに大きなスケールを持つ人という印象だった。点ではなく線、いや形、しかも時間軸を伴った立体構造で物事を考えることができる人かもしれない――。
そんな予感を感じさせるのだ。
と同時に、ジーンは気になった疑問を早速ぶつけた。
「セイシェル=タウですか……? たしかこの国では、ファミリーネームは名乗らないのが一般的なのでは……?」
そんな疑問を唱えた瞬間、彼はよくぞ聞いてくれた! といった満足顔で、嬉々として答えた。
「一般的にはそうなんだがな。だが私は名乗りたいのだ。だから、名乗っているんだが……おかしいか?」
「……はぁ」
普段は自分のほうが会話の主導権を握って、ペラペラと流暢に喋ることの多いジーンなのだが、このときばかりは相手の雰囲気に飲まれているような、そんな節さえ感じた。
そもそも、目の前にいるこの人物も所謂、アウトローなのだと感じた。類は友を呼ぶように、すぐその雰囲気がわかってしまうのかもしれない。きっとそのアウトロー上司に、カミュはいつも悩まされているのだろうけれど。
「それに私は自分のファミリーネームを、誇りに思っている」
セイシェルは、そう続けた。
「私の元々の部族は、代々続く武人の家系でな。私はそんな人々に囲まれて育ち、今の私になれたことを誇りに思っているんだ。まぁ、かっこつけた言い方をすると、〝先代の魂を、後世にも伝えたい〟かな。だから、名乗りたい。理由としておかしいか?」
今度は理路整然とした、名乗りたい理由を語ってくれた。それは、〝アウトロー〟というだけではない側面も備えていて、まさに目の前の人物の深さを感じさせる瞬間だった。
「いえ。とても素晴らしいことだと思います。それに俺は、〝ファミリー〟と呼べる家系もないから、とてもうらやましい」
ジーンのその言葉を聞くと、セイシェルは目を細めて哀愁漂う表情を少しだけ浮かべた。そして、こう言った。
「今はないかもしれない。だけどこれから、作っていくことだってできるだろう?」
「……えっと、まぁ」
「ところで……」
ジーンがそう濁した言葉に割り込むように、カミュは言葉を重ねてきた。その表情を見る限り、楽しい会話をする雰囲気ではなさそうである。
「あなたはなぜあの控えの間を出て、ここに来たのですか? それとも……、逃げ出そうとしているんじゃないでしょうね? もしそうならば、僕は僕の責任を全うしなければなりません」
「あぁ、それに関しては、心配しなくていいよ。もし本気でそうするつもりがあったなら、監視カメラに映り込むような馬鹿な真似はしないし。それに上にはまだ、マナたちがいるからね」
最後の一言は説得力があったようで、カミュはそれに関しては納得した。
「なら?」
そんな疑問の声が、今度は違うところから上がった。ジーンはその声の主に向き直り、事も無げに答えた。
「せっかく統主様とやらに招待されているのに、こちらばかりが相手の内情やら、ノア国のことを知らないというのは、話にならないと思いましてね。それでは楽しい会食が、丸つぶれじゃあないですか! それなのに、相手はこちらのことは知り尽くしているというのはなんだかこう、気持ちが悪いというか、納得できないというか……」
「ふーむ……」
セイシェルは、ジーンの意見を聞きながら腕組みをした。
「つまり君は、自分の目で見たノア国のことを知りたいということかな」
「……まぁ、そういうことになりますね」
「ふむ。よし、わかった」
セイシェルはそう言うと、壁にかかっている時計を見上げてこう言った。
「なら、明日の朝八時にここで落ち合おうじゃないか。君に、この国の朝を見せてあげよう」
「はぁ!? セイシェル様、今度は何をぬかしておられるのですか!?」
セイシェルの突然の提案に対して、敬語の中に失礼な言葉をぶち込み始めたカミュが噛みついた。しかしこういうやり取りには、セイシェルはどうやら慣れているらしく、カミュのそんな対応を気にすることなく話を続けた。
「スケジュールが狂うということを、言いたいのだろう? 大丈夫だ。なんとか時間をずらせる会談があるから、そこで調節するさ」
「本当ですね? それ、自分でやってくださいよ! 面倒事を僕に投げるのは、まっぴらごめんですからね! 絶対ですよ!!」
「わかった、わかった」
それにしてもここに来てから、カミュの意外な姿ばかりを見ている気がする。冷静に対応する姿しか知らなかったジーンにとっては、面白いことこの上ないのだが、どうやら本人は必死なので、そんな感情はおくびにも出さないようにしておいたが――。
「で、君のほうは来れるかい?」
先程のセイシェルの提案に対する答え。それはもちろん、〝YES〟だった。正直なことを言うと、これから執り行われるであろう、レナート統主との会食よりも、セイシェルとの会食を楽しんでみたいとさえ思っていた。いや、〝会食〟だなんていう小洒落た場所じゃなくてもいい。その辺の古い食堂でも、居酒屋でも、焼肉屋でもいい。ただもう少しこの人とは話してみたいと、ジーンはそう思った。
「そうか、よかった。なら、ここへの入館許可証を渡しておこう。今日は統主からの招待ということで入れただろうけれど、明日からはそうではなくなるだろうからな」
「僕は知りませんからね。そうやって好き放題やってるから、上からも睨まれるんですよ、まったく……」
「いやぁ、ちゃんと報告してるぞ。事後報告だがな」
そう言うとセイシェルは、豪快に笑った。それは、何もかもを吹き飛ばしてくれそうな、晴れやかな笑い方だった。
ジーンはすっかり、セイシェルの持つ不思議な魅力に惹きつけられていた。きっとこの人は困難な状況でさえも、笑い飛ばすことができる勇気を持っている人だ。
彼のそんな陽の力を、手にした入館許可証から感じ取っていた。控えの間まで、再度案内してくれるカミュの背を追いながら、ジーンはお守りか何かのように、ポケットにそっとそれをしまった。
◆ ◆ ◆
カミュが〝控えの間〟と呼んでいたあの場所に戻ると間もなく、案内役の男性は現われ、今度は正装へと着替えるため、衣装合わせの部屋へと通された。ジーンが控えの間にいなかった時間の分、ロスしているからなのか、当人以外は皆、慌ただしく動き回っていた。
特に、マナの部屋は一番の慌ただしさだった。女性なのでお化粧が……、とかそういう理由からではない。酔った赤ら顔を隠すためのメイクにスタッフ一同、てこずっていたからだった。
「ねぇ、マナ。何杯飲んだの?」
ジーンは移動中の車中で、恐る恐る聞いた。隣に座るマナは、相変わらず青のドレスが似合う、白い肌をしている。それだけならば、港街ヨットの仮面舞踏会のときのように、その美しさにうろたえることができるはずなのに、今のマナは違った。
完全に目が座っている。且つ、酔っているとは言え、何かこう……、虫の居所が悪そうなのである。もしかしてその原因は自分にあるのかなと思うたびに、ジーンは戦々恐々とするのだった。
するとマナの隣、つまりジーンから見て奥のほうに座るレグルスが、ぼそりと呟いた。
「お前がいない間に、ワイン二本空けやがった……。二杯じゃない。二本だ!」
心なしかレグルスのその顔も、若干青褪めているように見える。相当相手するのも大変だったようだ。しかしジーンのその視線を違う意味合いとして捉えたのか、
「オレは一口も飲んでいないからな! 飲んだのは、この酒豪女だ!」
と、叫んだ。運転手も心なしか、呆れた顔をしているように見える。たしかに車内に充満するほどに、酒臭い。挙句の果てには、酔った勢いで文句をつけ始めている。
「そもそも、なんでまた移動させられてんのよ! 迎賓館での会食ですって!? だったら、始めからそこに招待しろっての! あんな高いビルのガラス張りの休憩室だなんて……、高所恐怖症の人だったら、どうしてくれんのさ! 心休まるどころか、恐怖の地獄絵図よ! 皆が皆、高いところ好きだと思うな!!」
まさに言いたい放題である。運転手はただひたすらに聞いていないふりを貫いているが、国の長への暴言甚だしさに、さすがに眉間に皺を寄せている。
さらに尚も、マナの毒舌は続く。
「しかもあのバーテンは、プライドばっか高くて、話はつまんないし! あんなんだから、ジーンにいいように騙されんのよ! ほんっとあの場所は、プライドと権威の塊よね! なんかだんだん統主とやらが、どんな奴なのかわかってきちゃった!」
「マナ、マナ! せめて、統主様だろ?」
ジーンは運転手の顔色を見ながら、そう囁く。奥のほうではレグルスが真顔で、
「こいつ、酒乱だなんて一言も聞いてなかったぞ……」
と、ジーンに囁く。
「俺だって知らなかったよ……。夕飯とかは一緒に食べるけど、お酒飲んだ姿は一度も見たことなかったし」
「つか、マジこえぇよ、こいつ。こんな状態で会食って、やばくないか?」
「うん。今のところ、毒しか吐いてない……」
「なに、男子二人でこそこそ話してんのよ」
そう言いながら、さらに目の座ったマナが、二人の間からにゅっと顔を出した。特にレグルスに至っては、化け物か何かに遭遇したときのような驚き具合である。
「そうだ! こそこそと言えば、ジーン! 一体どこほっつき歩いてきたのよ!? またどっかでトラブル引き起こしてきたんでしょ!? そのとばっちり受けんの、こっちなんだからね!」
いや、今現在、とばっちりを受けているのは、俺のほうです。
ジーンはよほど、そう言ってしまいたい衝動に駆られた。が、それを言ったら、バーストである。文字通り、爆発……、どころではなく大爆発である。
しかし、こんな事態はさすがのジーンも全く予想できなかった。本当に見事にやってくれるのは、マナのほうだよ……と、心の中のカミュにそう教えた。
そして、ジーンは意を決した。このままでは運転手は、敵になる。ジーンの中で、そう警告が鳴っているのだ。だから一つ、策を弄することにした。
「そうだね。ちょっと、〝いいとこ〟をほっつき歩いてきたよ。マナには内緒にしておきたかったけど」
「……、なにそれ」
明らかにマナは、むっとした顔をした。よし、かかった! 腹の中でジーンは、そう思った。
「明日、マナもその〝いいとこ〟に連れて行ってあげるよ。朝の七時にホテルロビーで待ってるから、だからそれで許して」
「別にそんなとこ行きたいなんて、言ってないでしょう!? なんなの、それ!!」
「まぁ、怒んないでよ。恋人がいなくて、一人にされて寂しいのはわかるけどさ。でも俺は、マナ一筋だし!」
「はぁ!? あんた、何言ってんの……」
ジーンのその物言いにレグルスも、〝こいつ、気が狂ったか?〟という顔で見つめる。しかし尚もジーンは、その小芝居を続ける。
「またまたぁ! だから何にでも当たってたんだろ? ごめんな、マナ。お前の寂しさに気づいてやれなくて」
「はぁ!? ちょっと! 何なの、気持ち悪い!」
いょし!
とりあえずこれで、さっきのマナの毒舌は統主、レナートへの暴言ではなく、恋人同士のもつれからくる八つ当たりに見えることだろう。そんな流れへとなんとか持っていけそうだ。でなければ、この運転手は後々、レナートに報告するだろう。俺たちの本音としての、マナの言葉を――。
ジーンは少しでも面倒事の芽を摘んでおきたかった。だからそれが解決へと向きかけたとき、ジーンはつい慢心してしまった。
どさくさに紛れて、マナにキスしてしまったのが、そもそもの間違いの元だった。〝キス〟と言っても、ほんの挨拶程度のものである。頬と頬をくっつけ合うようなものである(少なくとも、ジーンの中ではそう思っていた)。
しかし、マナの中では違ったようだ。
「何すんのよ、この変態!! そもそも、恋人じゃないし!!」
ジーンの計画大崩壊の瞬間である。小芝居劇場終了。と共に、ジーンは右ストレートの殴打を、その左頬にチップとして頂いた。
今まさにジーンは、他人(好きな人)との大きな大きな違いを知った瞬間である。
「……、だから怖いっつっただろ?」
冷静なレグルスの言葉に、ジーンはしんみりと一つ頷いた。
だが、ジーンの崩れ去ったガラスのハートは、またすぐにむくりと起き上がり、再形成してゆくふてぶてしいまでのしぶとさを持っているということを、レグルスもマナも知るところではなかった。
(一部加筆修正:16.12.31)




