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Mana 第三部~神の禁じ手~  作者: 福島真琴
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1.  亡霊

「不完全だと!?」

 廊下に響き渡る大声が、白衣のその男から上がる。その男、グリードは、普段からそんな大声を出すような人物ではない。だからこそ、その姿を目撃したベイズは、ただ事ではないことが起きている、という漠然とした危機感を感じ取っていた。図らずもがな、その大声を受け止めることとなってしまったグリードの部下であるもう一人の男は、可哀そうなくらい萎縮してしまっている。その男の直接的なミスなのかどうかはわからないが、ひたすらに謝罪の言葉を口にしていた。

 ベイズは思わず、その二人のやり取りを廊下に立ち尽くしたまま、じっと見つめてしまった。盗み聞きをしようとか、そういった意図からではない。謝罪を繰り返すその男は、かつてベイズの直属の部下だったからだ。

 飛び出していって、フォローしてやりたい気持ちが胸の底にはあった。だけど、行動には移せなかった。今のベイズには、それをするだけの権利も地位もないのだ。

 そんなベイズの視線に気づいたグリードは、見下すような表情を露わにし、苛立ちをその全身に立ち上らせた。

「使えない男の下で働いていた男もまた、使えないものだな。元館長さん!」

 そんな揶揄を飛ばされたベイズは、現館長であるグリードを、何の感情も籠らぬ視線でじっと見た。その目はこの現実を記録するビデオカメラのようだと、ベイズはロボットのような自身を腹の中で嘲笑う。

 何の反応も見せないベイズに、さらに苛立ちを感じたのか、グリードは大股で近づいてくる。彼はベイズの目の前まで来ると、その銀縁の眼鏡にかかった前髪の一束を、かったるいもののように払いのけた。

「もういい加減、ソフィアの生まれ変わりを造り上げるのはやめにしたらどうだ? そんな研究など、もう必要ないんだよ!」

 吐き捨てるようなグリードの物言いは、ベイズの心に突き刺さった。研究が認められないことに対してではない。〝ソフィア〟という存在を軽んじ、素材としてしか考えていないグリードの考え方に、失望したのだ。と同時にベイズの中で、ソフィアを汚されたような、そんな感覚と激しい嫌悪、憤りが湧き上がった。

「……、なんだその目は? 俺の研究にかなわないことが悔しいのか? それとも……」

 グリードはそこで、腹の奥底から湧き上がる、歪んだ黒で満たされた笑いをその口元に浮かべた。そして、渾身の刃で斬りつけるように、その言葉を放った。

お前の愛する(・・・・・・)〝ソフィア〟を盗られたとでも思ったのか?」

 言葉の中に織り込まれるその笑いは、ベイズを激怒させるに十分なものだった。危うくベイズは、相手の胸倉に掴みかかりそうになった。だが実際はそうすることはなく、爪が割れそうになるくらい、拳を握りしめることで自分を抑えるに留まるのだった。その様子を一歩離れたところではらはらと見守る、元部下の視線が気づかわしげに揺れ動く。

 やがてグリードは、急激に冷めた表情になった。この玩具は面白くないと気づいたときの子供のように、急に興味を失った顔で吐き捨てた。

「そんな私情など必要ないんだよ。だからお前は、降ろされたんだろ?」

 今はただの一社員にまで降格されたとはいえ、それでもベイズはこの研究施設の元館長である。グリードはそんな敬意など、欠片も持ち合わせていないと言わんばかりに、過去の地を蹴るようにその場を後にした。

 後に残ったのは、憤りを必死で噛み砕いて、自身で消化しようとするベイズの姿と、助け起こそうとするかのように近づいてくる元部下のルインだった。

「館長……」

「……その呼び方はやめろ」

 こうやって二人きりになると特に、彼は昔の呼び方でベイズを呼ぶ。どこでだれが聞いているかわからないのだと、何度もその呼び方を注意し、改善させようとしたのだが、これだけは言うことを聞いてくれなかった。〝現館長の下では、働きたくない〟という愚痴まで零し始めている彼を、ベイズは半ば説得するように踏み止まらせている。それを拒否すれば、ルインの行く末に待っているのは、良くて出向だろう。だがそれも、監視員付きであることは間違いない。ノア国の秘匿であるアルカディア計画の研究員なのだ。どの道ここから離れても、普通の生活など待っているはずもないのだ。

 ルインは、それは言われ慣れたといった顔で、そのことには気にもしていない。それよりもベイズの心中を、本気で心配しているようだった。

「……大丈夫だ」

 それに対してベイズは、片手を上げて答えた。ただ単純に顔を見られたくなくて、手を上げることによって少しでも隠れればいいと思ったからだった。

「それよりも……」

 すかさずベイズは、先程の憤りを忘れ去るためにも、話を転換させた。

「グリードは何に怒っていたんだ? 研究に支障でも?」

「えぇ、それが……」

 ルインは困り果てたといった様子で、その訳を話し始めた。

「実は、データが不完全だったんです」

「データ……、カイルのデータか?」

「……はい」

 〝そんな馬鹿な……〟と、三文ドラマにありがちな、いかにも台詞めいたことをベイズは腹の中で口走った。つい先日、海底探査機を使って発見されたカイルのデータ。皆はこれを元にして、遺伝子研究と、新たな優れた人材作成のために応用できると考えていた。しかしこのデータが不完全データだということは、誰もが予想だにしないことだった。

「……そんなはずはない。ソフィアが命を賭して守ろうとした、カイルのデータなんだぞ。初めから不完全ならば、そこまでする理由がなくなってしまうじゃないか……」

「えぇ、そうなんですよ。ですがこれが、作為的な不完全さを感じるんです、あのデータからは」

「……、わざとそういうデータを作ったということか?」

「はい。もしくは、もう一つデータは別のところにあって、そのもう一つと照合するとデータは完成する、というカラクリである可能性も考えられます」

「……」

 なるほど、相手は稀代の天才との呼び声も高かったカイルである。こういう手の込んだイタズラ(・・・・)は、ソフィアのやり方ではない。ベイズはそのカラクリは、カイルが考えたものだと特定した。しかも彼はそういうのを遊び半分で思いついてしまえるから、性質が悪いのである。と同時に、様々な人からの嫉妬を買う。だが本人は、そういった全てはどこ吹く風であったが……

 そして現在ソフィア……、いや、マナはカイルの遺伝子を受け継ぐ、アスクレピオスと共にいるのだ。しかしベイズはそのことに関しては、憤りや嫉妬といった類の感情は、生まれてこなかった。ベイズにとってソフィアは、男女としての〝愛する〟というよりかは、見えない何かや自分とは違う未知の者に対する憧れや、敬いに近い感情だった。

 そんな感情があったからこそ、〝マナ〟という特殊な能力を持つ、人を超えた存在を造り上げてしまったのだろう。ベイズはそのことに対しては、罪悪感にも近い責任を感じていた。その感情を自覚すると、愛するは愛するでも、それは親の愛に近いものなのではないかと思うのだ。

 だからこそ今の彼女が、アスクレピオスと共にいることは安全なことだと、ベイズは思っていた。傷つけられることなく、無事でいてほしいというのが、研究員ではないベイズ自身の本心だった。

 だがアスクレピオスは、自分を許さないだろう。〝ジーン〟という名がそれを語っているみたいだと、ベイズはそう思った。自分で自分に、〝遺伝子〟という、まるで出自を忘れてはならないと言い聞かせるかのような名づけは、信念を超えた執念を感じるのだ。それは自ずと、〝ベイズ〟というノア国の研究員に繋がっているような気がして、ベイズもまた決して忘れることがないのだ。あのとき、自分の首を締め上げた男の顔を。

 たしかに自分は、かつてその顔を持つ男の殺害命令を、ある闇組織へと下したことがある。だがそれも国からの命令だったと、言い逃れようと思えばできることなのかもしれない。だが今のベイズはなぜか、それをしてはならないような気がするのだ。

 その殺害された男、カイルという人物は、潔癖なまでに汚れることを嫌う人物だった。理想を追求する模範のような人間だった。だから決して、自分の意志を曲げることはなかった。だがそれは諸刃の剣で、周囲との軋轢を生む。場所が場所ならば、彼は優秀な医療分野の研究員になれたことだろう。

 だがこの研究所は、そういう場所ではなかった。いや正確には、なくなっていったと言うほうが正しい。己の倫理観に従う者は、いつの間にか消えていった。カイルもその一人だった。そしてソフィアは、そんなカイルを愛していた。そしてベイズはそんなソフィアを、自分とは違う未知なる者と思いながらも、憧れていた。本当はカイルに対しても、同じ感覚を抱いていたのかもしれない。なぜならばベイズにとって彼らは、〝自分には決して、そうなれない者たち〟だったからだ。

 ベイズは己の倫理観よりも、己の命を選択し続けてきたその人生を振り返った。いつも、〝そのことを考えてはならない〟と、自分に言い聞かせ、蓋をし続けてきたのにだ。いや正確には、振り返らざるを得ないほどに今、大きな大きな津波のような波が、自分に迫ってこようとしている様を感じているのだ。

 荒ぶる神のように怒れる、アスクレピオスの顔を、最近よく夢に見るのだ。その夢で飛び起きるたびに、自分の中の蓋は破壊され、終わりのない葛藤に迷い込む。

 行き場のない罪の意識を、全身に浴びせかけられたような錯覚を覚えたベイズは、やっと現実のルインへと言葉をかけることができた。

「そうか……。貴重な情報を、ありがとう。たぶん、その可能性は高いだろうな」

「あの館長、本当に大丈夫ですか? 顔色がすぐれませんが……」

 ルインはおずおずとした様子で、ベイズを心配する。よほど自分は、白い顔でもしていたのだろうか。だが、心労が溜まっているのは、事実だった。

「大丈夫だ。眠れば、治るだろうよ」

 一言、そう置くように言うと、ベイズは自分の作業室へと戻る道についた。頭の隅で、睡眠薬のありかを思い浮かべながら――


 ◆  ◆  ◆


 船の旅は快適そのものだった。おんぼろの船や列車のように、横揺れが激しいわけでもなく、真っ直ぐなレールが海上に敷かれているかのように、水平に移動していった。〝船酔い〟という言葉を、事前によく聞いていたマナは、船に対する恐怖心や不安感があったのだけれど、こういう船ならば大丈夫だなと、また一つ不安の山を越えた気分だった。逆を言えば、〝こういう船〟でない場合は、どうなるかわからないということなのだが……。

 マナはふと、外の空気が吸いたくなって、甲板に出てみようと思った。しかしその足は、部屋を出てすぐの廊下で止まった。こっそり地下の船室に忍ばせておいたシアンが、そこにはいたからだ。何やら、ジーンとこそこそ話し込んでいるようだ。その断片ではあったのだが、とんでもない話がマナの耳にも飛び込んできた。

(あのね、ジーン。報告があるんだ!)

(なんだよ。ここは一般のお客さんもたくさんいる船室なんだ。手短に話してくれよ)

(うん、わかった! 僕ね、パパになるんだ!)

(へー、そー、ふーん……。…………パパって、誰のパパになるんだ??)

(えっ、そんなの決まってるじゃーん。ルナと僕の子供のパパだよー)

 ぽろっ――

 マナは、ジーンの手に握られていた紙切れが、落ちるその瞬間を目撃してしまった。どうやらその紙は、船内の見取り図が描かれたパンフレットだったようだ。

「お前!! 俺のルナを汚しやがったな!!??」

 落ちたそのパンフレットが、若干震えるほどの大音声を、ジーンはその口から放った。シアンの声が聞こえていない一般客からすれば、彼は一人で怒り狂い、ストレス発散のような大声大会を一人で催していることになる。

「ちょっと……、ジーン!」

 思わずマナは、ジーンに駆け寄った。このままでは大声を一人で出している、怪しい人である。しかしこれが、ジーンの怒りにさらに火をつけてしまったようだ。キッと鋭い視線を投げたかと思うと、急に文句をつけ始めた。

「飼い主のしつけがなってないからだッッ!!」

「はぁ!?」

 マナにとっては、とんだとばっちりである。その間にちょんと座っているシアンは、両者を忙しなくキョロキョロと交互に見渡して、右往左往である。

「だいたい、飼い主に似ると言うじゃないか! ペットは!!」

「ちょっと! その理論で言えば、ルナだってペットってことになるじゃない!!」

「いいや、違う! ルナはペットじゃない! 俺のパートナーだ! 俺の分身だ!!」

「ちょっと、やめてよ! それで言ったら、まるで私がジーンを汚したみたいになるじゃない!!」

「ゴホンッッ!!」

 急に二人の言い合いに、大きな咳払いが割り込んでくる。そちらの方向に視線を向けると、廊下の隅の壁に身体を持たせかけながら、本を片手に呆れた表情の長身がいた。意外なことに、それはレグルスだった。

「……お前ら、大声で恥ずかしい話しやがって、馬鹿なのか?」

 半眼でそう言う彼が手にしている本は、文庫サイズの小説だった。それを目ざとく発見したジーンは、そこに食いついた。

「……お前、本、読むのか? いや、読めるのか?」

「貴様……、オレを馬鹿にしてるのか?」

 本気でイラッとしたようで、口元が半分ひきつっている。しかしすぐ気を取り直したのか、こう続けた。

「たしかに細かいことを考えるのは嫌いだが、小説は好きなんだよ。悪いか?」

 最後の一言と共に、睨みを利かせて視線を寄越す。だけど、意外な部分を知られたことが照れくさいのか、どこかはにかんだような表情が見え隠れする。意外とこの人は、そんなところは純情なんだなということに気づいたマナは、レグルスの姿とハリネズミが重なるイメージが、頭の中で勝手に暴れ始めてしまう。と同時に、自分の妄想にうっかり自分で笑ってしまったから、さぁ大変。レグルスは、明らからな怒りの表情を表わし始めた。

「お前、絶対オレのこと馬鹿にしてるだろ!?」

「い、いえ! してません! していません!!」

「そもそも、レグルスも何照れてんだ!? 気持ち悪ぃな……」

「照れてねぇよッ!!」


 そんな三人の様子を、少し離れたところで見守っていたノアの工作員の女は、近くに佇んでいるカミュに、ため息交じりに話しかけた。

「あの三人で本当によろしいのでしょうかね?」

 その問いに対してカミュは素っ気なく、こう答えた。

「さぁね。あの方が、決めたことだから」

「それはわかっているのですが――、一体何をお考えになっているのか、私たちのような人間にはさっぱり……」

 彼女の意見も尤もだと、カミュは心の中で同意した。秘密裏に進めてきた研究所の運営。それは、政府主導でやってきたことのはずだ。だがつい先日、マスコミにその存在が暴露され(これには、ケイロンも一枚かんでいるのだが……)、大々的に報じられると、政府は倫理委員会と、査問委員会を始動させた。積極的に政府も関与し、その議題に加わる姿勢は、〝自分たちは、その事実を知らなかった〟ということを言いたいのだろうか――。

 挙句の果てには、研究所の取り潰しを決定するまでに至った。そして、それに関して力を貸してほしいという理由で、研究所で造られた三人を招集している――。

 カミュは一連のこの動きを、できるだけ否定的な方向では見たくなかった。本当にすんなりと、そうなるといいと心から願っているからだ。だが、彼の今の直属の上司は、どうやら半分の心はそう思っていないらしい。何か裏があるかもしれない……。だから、ちゃんと目を見開いていろよと、常々口癖のようにそう言うのだが――。

 いずれにせよ、冷静に全てを分析するのみ。カミュは、そう心に決めている。ケイロンにも、その一部を請け負ってもらっている。それに、カミュはジーンを買っていた。彼ならばあの方を、見極めることができるのではないだろうか。誰にもノアという国の行く末を口にすることなく、己のその頭の中にのみ存在している未来の展望を、ジーンならば見極めることができるのではないだろうか。

 そして、良い展望が見えたのならば、ノアがより良い方向に向かうために、協力し合う関係性ができないだろうか。それは、カミュの願いでしかないのかもしれないが、それでもそう思うには理由があった。

「そうだな……。あの方は、頭のきれる方だからな。普通の人間にはわからない世界を、見つめているのかもしれないな……」

 カミュの呟きは、当事者の三人に届くことなく、手前で途切れた。それでも誰かの心には、己のこの願いが届くのではないかと、そう思わずにはいられないのだった。

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