すすんだ学問
「うぎゃああ」と冴無先生。「どうしたんです、冴無先生。にわとりが首をひねられたみたいでしたよ」と里狩野先生。「え。にわとりが首をひねられたんですか。それならぼく、生き物係の担当ですから、すぐに行かないと」と駆け出そうとする冴無先生の上着の袖をはっしとつかんで、里狩野先生、「にわとりが首をひねられたっていうのは比喩ですよ。冴無先生、国語のご担当なのですからしっかりしてくれないと弱りますよ。それよりどうしたんですか、急に大声を出して」「うぎゃああ」と冴無先生は思い出したように叫び声をあげて、「里狩野先生、あなたが背中におぶっている死体のようなものは何ですか」と尋ねると、「ああ、これですか」と里狩野先生は、ごみでも捨てるかのように気軽に、背中からドサッとそれを下ろした。「ひええる」と冴無先生はたまらず悲鳴を上げた。言った後に、自分でさっきの悲鳴は聞く人が聞いたら「ピエール」に聞こえておもしろかったかもしれないな、と評価した。しかしすぐに、今は目の前の死体に集中しなければならないと思い直して集中した。冴無先生は見かけによらず、根が真面目なのである。「これはどういう経緯で……」と冴無先生がおっかなびっくり訊くと、里狩野先生は、「このあいだボーナスが入ったじゃない? だからちょっと気が大きくなってうっかりね」「ボーナス入ってうっかりってことありますか」と冴無先生は疑問を呈する。冴無先生は常に疑問を呈している側面があるので、生徒の評判はすこぶる悪い。「誰だってあるでしょう、そのくらい」と里狩野先生。「冴無先生だって先日、ボーナス入ったからって一人でホールケーキを買って食べたって吹聴していたじゃないですか」「ホールケーキとこれとでは次元が違うでしょう」「次元は同じでしょう。三次元なのですから」「え。いま三時限でしたか。こりゃ失敬。ぼく、授業が入っていましたので、これにて」と駆け出そうとする冴無先生の上着の袖をはっしとつかんで、里狩野先生、「そういう意味ではないですよ。冴無先生、国語のご担当なのですからしっかりしてくれないと弱りますよ」と言うと、冴無先生は急に態度を大きくして「あなたはいつも弱ってばかりだ」と指摘した。しかしこれは見当違いの指摘だったので、里狩野先生は明後日の方向を向いて無視した。もちろん賢明な読者はおわかりだろうが、この「明後日の方向」という言い回しは比喩である。ところで、実はこれまでの人生の中で無視されるという機会に恵まれなかった冴無先生は、初めての無視を体験して動揺した。里狩野先生はぼくの声が聞こえなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。だって、ぼくと里狩野先生との距離は十五センチしかないのだから。そう、彼らは接近戦をくりひろげていたのである。ということは、これが無視というやつなのだろうか。いつぞや文献で読んだことがあるが、まさか実際に無視される日が来るとは。今日はお赤飯を炊こう、と考える冴無先生。本ばかり読んできたもので、リアルの経験に乏しいのである。文学部の学生にはこういうやつが多くて弱る。「あなたはいつも弱ってばかりだ」と冴無先生は指摘した。「ぼくは最近、すこぶる体調が良いので、指摘されるほど弱ってはいないのです。それよりも死体の件は」と言われて思い出した冴無先生、里狩野先生に「そんなことよりも死体ですよ。まさか温厚なあなたがこんな冷酷なことをしでかすなんて」とセリフの中に「あったかーい」と「つめたーい」を交えて糾弾すると、里狩野先生は胸を張り、「これは死体ではありませんよ。これは田中くんです」と言うものだから、「なんと!」と冴無先生、「この死体は田中くんでしたか!」と驚いたものの、うちの学校には「田中」という名前の生徒が、少なく見積もっても二百人はいるので、誰のことを指しているのだろうと首をひねった。その途端、そういえばにわとりが首をひねられたんじゃなかったっけ、と一瞬慌てたが、これは比喩であった、と思い直して、すんでのところで駆け出さずに済んだ。さっきから、駆け出すたびに里狩野先生が上着の袖をはっしとつかむので、買ったばかりの上着の袖口はもうボロボロになってしまっていた。里狩野先生は柔道部の顧問であるから、握力が強いのである。その里狩野先生の方を指さしながら「あ、あなたは、田中くんを殺めたのですか」と冴無先生は仰天して天を仰いだ。冴無先生は仰天して、天を仰いだのである。すると、天井に校長先生が張り付いていたので仰天した。ただでさえ仰天しているのに、これ以上仰天するのは誰の目にも不可能に思われた。しかし、不可能を可能にする男である冴無先生、ここぞとばかり力を発揮して、さらに仰天した。これには里狩野先生も校長先生も仰天した。校長は驚きのあまり、天井から手を離してしまったので、重力に従って落下した。どんなに反抗的な人間であっても、重力にはなかなか逆らうことができないものだ。まして校長先生は反抗的な人間ではないのだから尚更だ。見るも無残、大の字になって廊下に打ち付けられた校長先生は、顔やおなかを強打した。校長先生は昔、強打者と言われ、高校時代には野球部で甲子園まで行ったことがある。「おや、校長先生ではないですか。ごきげんよう」と里狩野先生は、軽快に挨拶をする。「やあ、ごきげんよう」と校長先生も軽快に挨拶をかえす。ちなみに、この二人が会話をしたのは実に二年と五か月ぶりである。そこで、校長先生は威厳を保とうとしたのか、襟を正そうとしたけれど、あいにくこの日はタンクトップだったので襟がなかった。しかし、校長先生はそれに気づかず襟を正すようなしぐさをした。それがとても手慣れた様子だったので、冴無先生と里狩野先生は幻視で襟を見たように思った。「それはそうと、里狩野先生、田中くんを殺めたそうですな」と校長先生。「殺めてはいませんよ」と里狩野先生は、「これは死体ではなく、人体模型です。人体模型の田中くんです」と説明する。「なるほど。難しいことを言う」と冴無先生は感想を述べる。「なに。死体ではなく、人体模型ですか。しかし、見た感じは人体模型というより、死体ですな」と校長先生。すると、里狩野先生、急に目をきらきらと輝かせて、「そうなんですよ! 見た感じが死体に見えるでしょう。まるで死体を解剖しているような気分にさせてくれる人体模型なのです!」と興奮を隠せない。「これをボーナスで買ったのですか」と冴無先生が質問すると、「そうなんです。私、今回のボーナスで一億円もらいましたので、余裕で買うことができました」と里狩野先生。冴無先生は大層たまげて、「え。一億円!? ぼくのボーナスが二十万円でしたから、ええと……何倍になるのでしょう」冴無先生は国語の先生であるから、計算が苦手なのだった。「五十倍じゃな」と校長先生。残念なことに、正解は五百倍である。校長先生はもともと体育の先生だったので、計算が苦手なのだった。冴無先生は慌てて校長先生に詰め寄って、「どうして里狩野先生のボーナスが一億円で、ぼくのボーナスが二十万円なのですか」と訴える。里狩野先生は、「たぶん誰かのミスだと思うのだけど、朝イチで銀行に行って残高を見たら、一億円も入っていたから、その場で全部使ってやったわ」と悪びれず言う。「その場で全部使っただなんて!」と冴無先生はひじから崩れ落ちた。「ひざから崩れ落ちるやつはしばしば目にするが、ひじから崩れ落ちるとは器用なやつだ」と校長先生は強い印象を受けた。ちなみに、冴無先生は毎月コツコツと自分の実家に仕送りをし、貯金もしているのである。最近では、お金がないからと、夕飯は給食で余ったパンを持ち帰って、もそもそ食べて飢えをしのいでいる苦労人だ。校長先生は思案をめぐらし、「もしかすると、ほかの先生方のボーナスの一部が、誤って里狩野先生の口座に振り込まれたのかもしれないのう」と、ぼそっとつぶやいた。冴無先生、これを聞き咎めて、「誤ったことを謝ってくださいよ」と言った。これを聞いて校長先生は、「なるほど、国語の先生だけあって、おもしろいことを言う」と一瞬思ったが、ちょっとウケを狙い過ぎているような気もすると思い直した。冴無先生は、悲しみのあまりヨヨヨと泣いた。里狩野先生はその泣き声がおもしろかったので、アイフォーンで録音して着信音にした。目を赤くした冴無先生は、里狩野先生の方を向いて、「まさかこの田中くんに一億円使ったのですか」と尋ねると、「使いましたよ、一億円。だって、私のお金ですもの」「ぼくのお金だったかもしれないのですよ!」と冴無先生は里狩野先生に泣きついた。これを受けて里狩野先生は、すかさずアイフォーンを取り出して、先程録音したばかりの冴無先生の冴えない泣き声を冴無先生に聞かせた。人間、自分の泣き声を聞かされると、途端に泣いているのが恥ずかしいと思い始めて泣き止むものだ。すっかり泣き止んだ冴無先生には恥じらいの心だけが残った。「恥」という文化は日本の文化を語るうえで外せない概念なのである。こうして一件を落着させた里狩野先生は、「そんなことより見てください、この田中くんはすごい人体模型なんです」と冴無先生と校長先生に近寄って、ポケットからたくさんボタンの付いた、リモコンのようなものを取り出して見せて、「このボタンが鍵です」と耳打ちした。「ボタンが鍵」とは意味がよくわからないから、これはシュールレアリスムかもしれないと冴無先生は警戒したが、よく考えるとこれは比喩であった。冴無先生はその昔、シュールレアリストに痛い目にあわされた記憶があるので、日頃からシュールレアリスムを警戒しているのである。里狩野先生は、「ところで私、次の二時間目の授業で早速、この田中くんを活用してみようと思っていますの」となぜか急に上品なしゃべり方になって、育ちのよさを見せつけた。見せつけられた冴無先生は、目をしぱしぱさせながら、「で、では、そ、その授業を見学させてくださいな」と動揺しながら言った。なぜ動揺したかと言えば、冴無先生がまだ冴有先生だった頃、育ちのよい貴族の娘と激しい恋に落ち、駆け落ちまで考えたことがあって、先程の里狩野先生の口調がその娘の口調に似ていたからである。ちなみに、その恋は冴有先生が冴無先生になってしまったことで、あっけなく終わりを迎えたのだった。そんな冴無先生には考えがあった。新品の人体模型を自慢したいという雰囲気が、全身からびんびんに出ている里狩野先生のことだから、当然それを使った授業を見たいと言えば、二つ返事で快諾してくれるであろうと。そこで冴無先生はその旨を申し出てみたが、里狩野先生が真顔で「いや、ちょっと生理的に無理です」と言うので、冴無先生は、タイタニック号のように気持ちが沈んでいくのを感じた。しかし、冴無先生は、自分で編み出した「タイタニック号のように」という比喩表現が気に入ったので、深い満足感を覚えた。このとき、校長先生は傍でこのやり取りを注視していて、「授業を見せてくださいと言って、生理的に無理です」と言い返すのは、果たしてどんな生理状態なのだろうと、もと人間科学部の血が騒いだが、騒がしいのが嫌いな校長先生はすぐに、この騒ぎを鎮静化した。自分をコントロールできている、と校長先生は思って深い満足感を覚えた。二人が深い満足感を覚えていたちょうどそのとき、チャイムが校内に響き渡った。一時間目が見事に終わったのである。里狩野先生は、いそいそと次の授業が行われる理科室に向けて歩き出した。そこで冴無先生、里狩野先生の上着の袖をはっしとつかんで、「先生、ぜひとも次の授業を拝見させて……」と言いかけたところで、冴無先生の体は高らかに宙を舞った。そしてトマトがつぶれたような音とともに、冴無先生は床にたたきつけられた。「ほげぶ」という不思議な音が、冴無先生のどこかわからないところから漏れ出た。里狩野先生は、冴無先生を侮蔑のまなざしで見下して、「私に触るなど、百年早いわ」と言い放った。なんだかラスボスみたいな言い方だったので、校長先生は自分の方がボスなんだというアピールをするため、襟を正そうとした。しかし、あいにくこの日はタンクトップだったので、襟を正すことは不可能だった。首元まで持ち上げた手をどうしたものかと悩んだ校長先生は、その手を身に着けていたサスペンダーにやった。そして、それをよく伸ばして、手を離した。バチン、とサスペンダーが校長先生の左右の胸筋を激しく打った。これにより、なぜか校長先生は深い満足感を覚えたが、決して、自分がボスだというアピールにはつながらなかった。里狩野先生は、そんな校長先生の様子を、ルーペを使って余すところなく見ていたのだけれど、すぐにやめて、次の授業に備えるために立ち去ろうとした途端、なぜか体が妙に重たい。これいかにということで上着の袖を見やると、そこには冴無先生が付いていた。「こんにちは」と里狩野先生。「こんにちは」と冴無先生。里狩野先生はニコッと冴無先生に微笑みかけた。次の瞬間、冴無先生はもう一度宙を舞って、廊下にたたきつけられたと思われた。しかし冴無先生、空中でひらりと体勢を整えて、美しく着地した。里狩野先生は、自分の技が見切られたことで動揺した。「この技はさっき見せてもらいました」と冴無先生は事もなげに言う。見ると、冴無先生は冴有先生になっているではないか。先程、床にたたきつけられた衝撃で、冴無先生は冴有先生になったのである。あっ、廊下の向こうから、田中くんが走ってきた。走ってきた、走ってきた。よくあんなに手足を高く上げて走れるものだと感心する。そんな無茶な体の使い方をしているから、田中くんは前が見えていなかった。そのため、田中くんは冴有先生にぶつかった。ふいをつかれた冴有先生は受け身をとることができなかった。冴有先生は冴無先生に逆戻りである。「ほげげ」と呻きながら冴無先生は、里狩野先生の袖口をつかむ。もちろん、冴無先生の体は宙を舞い、と思われたが、いつまで経ってもその気配はない。里狩野先生の様子をうかがうと、なぜか頬を赤らめてもじもじしている。はてな。これは一体どうしたことやら。ははあ、さては里狩野先生、冴有先生に惚れたようである。常日頃、里狩野先生は、自分より強い男じゃないと恋愛の対象にはならないと公言していたものだ。技を見切られるなど、里狩野先生には初めての経験だったに相違ない。しかし、今は冴無先生なので、ようやく我に返った里狩野先生は、冴無先生を背負い投げ。冴無先生は先程と同様、トマトがつぶれたような音を出したが、心なしかさっきより技のキレがなく、トマトと言ってもミニトマトの音量であった。それゆえ冴無先生が冴有先生になることはなかった。そうこうしている間にも、二時間目の授業開始のチャイムがポコピコと鳴った。田中くんが廊下を爆走していたのも、おそらくは二時間目に遅れないようにするためであろう。里狩野先生は乱れた髪を手櫛で整え、人体模型の田中くんを軽々と小脇に抱え、「では、わたくし授業ですので」ときびすを返し、理科室へ向かって一歩踏み出す。そこでぎこちなく歩みを止めて、ちらりと後ろを振り返り、投げの連発でミンチになった冴無先生に向かって、「もしお時間があるようでしたら、わたくしの授業を見ていかれたらどうですか」と。これには冴無先生、驚いた。数分前までは生理的に受け付けなかったはずなのに、これは一体何事が起こったのだろう。なんとなく口調も上品で控えめだ。まあ、せっかくのお誘いであるし、幸いなことに二時間目も授業はなかったものだから、お邪魔させてもらうことにした。ノコノコとついて行く冴無先生、その後ろについて行く校長先生。「あ、校長先生は結構です」と里狩野先生。結構とはどういうことだと校長先生は思ったけれど、あとは若い者に任せるかと思い、素直に身を引いたかに思われた校長先生は、気づかれないように理科室の天井に張り付いていた。やっぱりいろいろ気になるのである。風変わりで、これまで表情を変えたところを一切見たことがない里狩野先生が、あれだけ動揺したというのは意外だった。それだけでなく、授業が全く下手くそで、使いものにならんと決め込んでいた冴無先生が、あんなに優秀な冴有先生になったというのも意外であった。これはおもしろいことになるぞ、と校長先生は好奇心を発揮したのである。「今日は人体について勉強します」と里狩野先生は、田中くんを指名して、「では、教科書の三十三ページを読んでください」「春はあけぼのやうやう白くなりゆく山際」「それは平家物語でしょう」と冴無先生がツッコミを入れるも、「枕草子です」と里狩野先生はいつものように厳しく訂正したが、今のはちょっと厳しすぎたかしらんと微塵ばかり後悔した。冴無先生は照れて頭をボリボリとかいた。その手をふと見るとなんだか抜け毛が多い気がする。慌てた冴無先生は偶然ポケットに入っていた育毛剤を夢中になって頭皮にかけた。あんまり夢中なものだから、育毛剤がぴちゃぴちゃと周りに飛んだ。近くにいた田中くんと田中さんはパチパチと瞬きをした。その中でもいちばん近くにいたのは、最近、私は人より毛が濃いのではないかと、こっそり悩んでいる出来高さん。出来高さんは学級委員長を務めている才女である。そんな生えざかりの子の頭皮に、育毛剤がついたものだから、出来高さんの髪の毛は増える増える。みるみる増えて、取れたてのわかめのようになった。冴無先生は目を丸くして彼女を見つめ、その髪の毛を一本抜いて、茹でて食ってみようかと画策したが、わいせつ行為と受け取られて失職する可能性を考慮し、すんでのところで止めにした。出来高さんは出来高さんで、冴無先生の表情から、この人は私の髪の毛を抜いて、わかめのように茹でて食おうとしているなということを察していたし、もしそんなことをされたら、失職させようと考えていたので、冴無先生は思いとどまってよかったのである。この様子を見ていた越貫くん。越貫くんは出来高さんの髪の毛がわかめのようになってしまったのを見て、いつもは髪を後ろできつく縛り上げ、眉間にしわを寄せてツンケンしている彼女だけれど、たまには、もしゃもしゃと無造作なのも、案外かわいいなと思ったのだった。越貫くんは二年生になって転校してきたばかりの男の子。入学してみると、なぜか周りが田中くんだらけで、仲間外れにされたような心地がしていたところ、クラス内に自分以外にも田中ではない苗字の人がいると知って、出来高さんに興味がわいたのであった。しかし、出来高さんは成績優秀で、一匹狼みたいに孤独を厭わない雰囲気があるので、ちょっと話しかけにくく、これまで一度も話したことはない。しかし、苗字のこともあって、勝手に親しみを感じていた。髪の毛が増えても、表面上は眉ひとつ動かさずにいた出来高さんであったが、内心は消え入りたい心境であった。こんな生き恥をさらすくらいなら、いっそ舌を噛み切って、と思ったけれども、今は授業中であるから、先生には迷惑をかけることができない。なぜなら出来高さんは委員長なので、授業を順調に遂行する義務があるのである。出来高さんはじっと教科書に目を落としたまま、クラス中の好奇の視線に耐えている。越貫くんは、出来高さんの表情が微妙にゆがんだのを見てとって、これは何とかしないとならん、と一念発起して立ち上がった。そして、スーダラ節を大きな声でやり始めたのだけれど、越貫くんはクラスの中で空気のような存在だったので、誰も越貫くんに注目しなかった。誰も見ていないとなると、せっかくの勇気も肩すかしをくらってしぼんでしまい、赤面した越貫くんは、おずおずと着席した。この間、冴無先生は育毛剤を振り続けていたのであるが、一向に毛量が増えず、泣きそうになっていた。そんな泣きそうになっている冴無先生を、とろんとした目つきでぼんやりと眺めていた里狩野先生は、ふと現実に戻って、「今日は、すごい人体模型があるのです」と授業を再開した。里狩野先生が話し出したおかげで生徒の顔が前を向いた。それに安堵した越貫くんが、チラリと出来高さんの方を見ると、なんと出来高さんがこちらを向いて笑みを浮かべている。自分の妙な動きを出来高さんに、ばっちり見られていたことに気づいた越貫くんは、恥ずかしくなって縮こまった。恥ずかしかったけれども、出来高さんが見ていてくれたことはやっぱり嬉しく、彼女が笑顔になって、自分の行いに自信を持てた。何よりも、初めて出来高さんが笑ったところを見られたというだけでよかった。出来高さんは何やら口をパクパクさせている。越貫くんは、それを真剣になって解読しようと試みた。「あ・り・が……」とそのとき、急に目の前を人体が通りすぎた。通りすぎたというより落下した。もちろんこれは太っちょの校長先生である。校長先生は日頃から研鑽を積んでいたが、まだ、授業中ずっと天井にへばりついていられるほど握力が強くはなかったのだ。落下した校長先生は、頭とおなかを強打したかと思われたけれど、机と机の間にはびこって、クッションのようになっていた出来高さんの髪の毛に助けられた。これを見て冴無先生は、校長先生が助かったのは、自分が育毛剤を振りまいたからだと自慢したい気持ちになった。里狩野先生は生徒に向かって高らかに、「人はタンクトップを着て調子に乗っていると、このように痛い目に遭うのです」と教訓めいたことを言った。いちばん前の席に座っていた田中くんは、急いで教科書をめくった。田中くんはひどく真面目だったので、教科書を隅から隅まで読み込んで予習してきていた。しかし、タンクトップなんてことは一言も教科書に書いてはなかった。おかしい、と田中くんは焦ったわけである。そこで、田中くんは隣の田中さんの教科書を拝借して、パタパタとページをめくった。すると十四ページに小さく、「校長先生は悪魔の手先」と書いてあったのに注目した。もちろんこれは田中さんのふざけた落書きなのであるが、田中くんにとっては真実であった。すかさず立ち上がって、校長先生は悪魔の手先だ、と大声で指摘した。日頃から、校長先生は悪魔の手先ではないか、と疑念を抱いていた田中くんも立ち上がって、校長先生は悪魔の手先だ、と唱和した。すると、日頃から、非日常を志向していた田中くんも立ち上がり、ようやく悪魔との対決のときがきたと意気込んで、いつも準備していた聖剣をランドセルから取り出した。この田中くんはもったいない精神の権化なので、小学校のときから鞄はランドセルだけを使用している。教科書に落書きをしていた田中さんは、まさか自分の落書きによって、ここまで大事になるとは想定の範囲外のできごとだったので、激しく混乱して、絹豆腐のようにぶるぶる震えた。それを見ていた食いしん坊の田中くんは、あれま絹豆腐だわい、と思って醤油をかけて食べようとしたけれど、その手を里狩野先生に止められた。先程立ち上がった血気盛んな田中くんたちは、すでに三銃士を結成したようである。里狩野先生は、友達が増えるのは良いことだと思ってそれを見守った。三銃士を結成したばかりの田中くんたちには、非常に勢いが感じられた。勢いは感じられたが、その勢いをどこに持っていけばよいかがわかっていなかった。三銃士の戸惑いを察した校長先生は、サスペンダーをスッと引っ張って伸ばし、手を離した。バチン、サスペンダーは校長先生の胸筋を打った。三銃士は戸惑った。校長先生のこの動きには、何か意味があるのだろうか。自らが三銃士に与えた効果に深い満足感を覚えた校長先生は、もう一度サスペンダーを引っ張って伸ばし、手を離してバチンと胸筋を打った。しかし、これは蛇足であり、優秀な三銃士は、校長先生のこの行為は無意味であると結論づけた。そして、一気呵成に校長先生を仕留めようと試みた。おお神よ、われを見捨てたもうな。ところが、捨てる神あれば拾う神あり、校長先生を悪魔の手先と思っている人たちだけではなかった。入学当初から、校長先生を天使だと思い込んでいた、田中さんと田中くん、田中さんが同盟を組んで、校長先生と三銃士の間に割り込んだ。校長先生を差し置いてバチバチと火花を散らす両陣営。このやり取りを教室の隅っこで見ていた冴無先生は、ハラハラしながら、このやり取りを教室の隅っこで見ていた。要するに、冴無先生はハラハラしながら、このやり取りを教室の隅っこで見ていたのである。いつの間にか蚊帳の外にいることになった校長先生は、原因が自分にあるようなないようなアンビバレントな気持ちで蚊帳の外にいた。教室の真ん中では三銃士と天使同盟の激しいバトルが開始されていた。危ないので、関係ない人たちは波を打ったように教室の壁際に寄った。蚊帳の外にいることに我慢がならなくなった校長先生は憤ったが、その途端に屁をこいたので、波を打ったように周りから生徒が離れていった。もっと蚊帳の外に置かれることになった校長先生はなすすべがないので、昼食をとることにした。校長先生はいつも愛妻弁当である。ずっとズボンのポケットに入れていたせいで、生温かくなったお弁当箱を開くと、今日のお弁当はきゅうりとナスであった。校長先生は、おいしそうにこれを平らげた。校長先生は思った。カブトムシじゃないんだからさ。そういえば昨日、妻と喧嘩したことを校長先生は思い出して、弁当箱の中身に納得した。校長先生がモソモソと生のナスを齧っているとき、出来高さんは、髪の毛が蔦のように教室中に絡みついてしまったので躍起になっていた。教室で争いが勃発している状況なのだから、油断がならない。出来高さんは、早いとこ髪の毛をまとめあげないと、と焦っていた。何か髪を結ぶものが欲しいと思い、周囲を見回したが、ヒモのようなものは見当たらなかった。一瞬、モヤシのような見てくれの田中くんに目が留まったが、辞書を引いたところ、モヤシとヒモは作り方が異なることを知って、田中くんにヒモになってもらおうかと思ったけれども、そもそも田中くんはモヤシではなく人間だったので、もちろんヒモの代わりにはならなかった。このように、出来高さんは混乱していたのである。越貫くんはすかさず、「あの、これをお使いください」と出来高さんにハーモニカを献上した。「何なのこれは」と出来高さん。「ピヤニカです」と越貫くん。出来高さんは、「ピヤニカじゃなくてピアニカだし、そもそもこれはハーモニカだし、ハーモニカでは髪の毛をまとめることはできないわ」とかろうじて言い返したが、ツッコミどころが多すぎて、処理能力の限界を露呈し、めまいを起こしてよろけてしまった。「おっとっと」と言って越貫くんは出来高さんの体を支えようと、手を出したけれども、明後日の方向に出してしまったので失敗した。ちなみに、ここで言う「明後日の方向」という言い回しは比喩である。緩やかに床に倒れ込んだ出来高さんは、そういえば昨日、口の中に入れたおっとっとを飲み込むのを忘れていたと思い至り、よく噛んでからおなかの中に収めた。「やっぱりおいしいわ、おっとっとは」と出来高さんは倒置法を巧みに駆使しておいしさを表現した。この発言を教室の隅っこで聞いていた冴無先生は、自分の国語の授業が生徒の役に立っていることを実感し、少なからず感動した。すると急に里狩野先生が寄ってきて、「ねえ。私、授業を進めたいのだけれど」と耳打ちした。急に接近されていささか驚いた冴無先生はしどろもどろになった。「きゃああ! しどろもどろだわ!」と里狩野先生は興奮した。まさかこんなところで幻の生物、しどろもどろに出会えるとは考えたことがなかったのである。里狩野先生はしどろもどろを丹念にスケッチした。スケッチするだけでは飽き足らず、コミュニケーションを取ろうと試みた。「ハロー、ハロー」と里狩野先生。「ぼくは英語を話すことができません」と冴無先生。「ハローという言葉が英語だとわかるなんて、しどろもどろはとても高い知能を持っていますね」と里狩野先生は考察した。「そうですね」と冴無先生。冴無先生は生まれてこのかた、高い知能を持っていると言われたことがないので純粋に喜んだ。「あ、冴無先生のことではありませんよ」と里狩野先生は訂正する。冴無先生はびっくりして、「え、ぼくのことではない」「そうですよ、私が言ったのはしどろもどろのことです」と里狩野先生。冴無先生は慌てて辺りを見回して、しどろもどろの姿を探すも見つからず、「どうやら逃げてしまったようですね」と言うと、里狩野先生が、「冴無先生がうるさくしたからですよ」と追及するので、冴無先生はまたしても、しどろもどろになった。このように冴無先生と里狩野先生がいちゃついているとき、先程、床に倒れ込んだ出来高さんは、教室の天井を見上げながら、私は学級委員長として、授業がつつがなく進むように図らなくてはならないと決意を新たにした。そこで、仰向けの状態で息を詰め、手足を抱えこむようにして丸くなってから、ハッと勢いをつけて手足を伸ばした。出来高さんは教室の床に寝転んだまま、見事にピンと伸び上がった。越貫くんは、出来高さんは何をしているのだろうと不思議に思った。越貫くんの不審な視線に、はたと気づいた出来高さんは、よく考えて、そうか私は起き上がるのに失敗したのだなと結論した。出来高さんは子どものころから起き上がるのが苦手で、毎朝ベッドから起き上がるときも難儀しているのである。原因を探るため、病院で検査を受けたこともあったけれど、明確な理由はこれと言ってわからず、困り果てたお医者さんは、腹筋の働きが弱いせいだと判断し、出来高さんに「あなたの腹筋はこんにゃくみたいなものです」と言ったところ、「それは、おでんにぴったりですね」と返されて、よくわからなくなったので、とりあえず胃薬を処方して、「安静にしてください」と言って家に帰した。それ以来、出来高さんの、安静にする生活が始まって今に至る。越貫くんは、出来高さんの悔しげな表情から、何となく事情を察して、出来高さんに手を差し伸べた。出来高さんは越貫くんの優しさに触れて、目を泳がせながら、その手をつかんだのだけれども、越貫くんは、出来高さんと手をつなぐということを意識して、ひどく緊張していたので、ちょっと考えにくい量の手汗をかいており、そのせいで、出来高さんが少し起き上がったところでつないだ手が滑って離れてしまい、出来高さんはまた倒れ込み、ゴチンと床に頭をぶつけた。出来高さんは槍のように鋭い視線によって、無言の抗議を越貫くんに送った。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものである。越貫くんは、ハンカチでよく手汗をぬぐってから、今度は上手に起き上がらせた。しかし、出来高さんの手のひらがマシュマロみたいに柔らかくて、越貫くんは動揺し、しどろもどろになった。「あっ! しどろもどろだわ」と里狩野先生は、目ざとく見つけて指をさす。「本当だ。しどろもどろだ!」と冴無先生も指をさした。「今日は、こんなにたくさんのしどろもどろと出会えて幸せです」と里狩野先生は満足そうだ。出来高さんはすっと手を挙げた。「はい、出来高さん」と冴無先生が指名する。「ちょっと、冴無先生。私の授業なんですから、勝手な行動は困りますよ」と里狩野先生は述べてから、和の大切さを滔々と説き伏せた。里狩野先生の訓戒を受けて、冴無先生はなんだか自分が一回り大きくなったように錯覚し、今の自分ならば、この教室での戦いを終わらせることができると考えた。そこで、気力を振り絞って、抗争中の生徒の真ん中に突っ込んでいった。しかし、里狩野先生は和の大切さを説いただけで、兵法を説いたわけではなかったし、冴有先生ならばともかく冴無先生だったので、あっさりと乱戦に巻き込まれて、はじけ飛んだ。宙を舞った冴無先生のからだは、一直線に、出来高さんの方へ向かってきた。出来高さんは、避けようとしたけれども、まだ多少ふらついていたので、足がもつれてしまった。みるみる迫ってくる冴無先生のからだ。冴無先生は、生徒に危害を加えたとなれば、失職に追い込まれる可能性があり、冴無先生は職を失うことに対して、異常なまでの恐れを抱いていたので、空中で身をよじって必死にかわそうとするも、空中なのであまり意味がなかった。里狩野先生は動物的な反射神経で、出来高さんを庇おうとするが、伸ばした手はちょっと届きそうにない。ついに出来高さんは追突を覚悟して目を閉じた。ズガンとミサイルが着弾したかのような音が響いて、一瞬、教室が静かになった。争っていた両陣営も、無関係な人を巻き込んでしまったことに気づいて、戦いの手を止めた。目を閉じていた出来高さんは、自らのからだに痛みを感じないのをおかしいと考えた。さっきまで騒がしかった教室が、やけに静かである。もしかしたら死んでしまったのかしらんと疑念を抱きながら、おそるおそる目を開けると、目の前に仁王立ちするシルエット。そう、越貫くんが身を挺して立ちふさがって、出来高さんを救ったのである。しかし、やはりダメージが大きかったのか、越貫くんは緩やかに崩れ落ちる。「越貫くん!」と出来高さんは短く叫んで、越貫くんの体を支えようと手を差し伸べた。先程、越貫くんは明後日の方向に出してしまって失敗したが、出来高さんはきちんと今日の方向に手を出したので、ふわりと越貫くんのからだを受け止めた。「大丈夫? 越貫くん」「あ、出来高さん……。お元気ですか」「ばか……。越貫くんが全然お元気じゃないじゃない」ふと見ると、出来高さんの目には涙が見える。越貫くんは、出来高さんの目にたまったそれを、人差し指ですっとぬぐってやり、「ぼくはいいんです。出来高さんさえ無事なら」そう言うと越貫くんは、出来高さんの姿を最後の最後まで瞳に焼き付けようとするかのように、ゆっくりと瞼を閉じた。「越貫くん!」と出来高さんは、ぽろぽろぽろぽろ涙をあふれさせ、動かなくなった越貫くんの体にすがりつく。「嫌だ、嫌だよ。せっかく、私たち仲良くなれそうだったのに。どうして、どうしてこんなふうになるのよ」一方の冴無先生には里狩野先生が駆け寄って、「冴無先生、お気を確かに!」「ぼくの気は確かです」「え。ああ、それでは確かではないわ。冴無先生は気が確かじゃない方が確かなのですから」「そうでしょうか」「そうですよ。むしろ今の冴無先生は異常ですよ。異常者です」「そうですか。ぼくは異常者だったんですね。それは失敬」「人を敬う心は大切なので、その心をいつなんどきでも失ってはなりませんよ」と里狩野先生は述べたところで、疑念がわいた。どうしてあんなにすごいぶつかり方をしたのに、冴無先生は冴有先生になっていないのだろう。ハッとして見ると、教室の真ん中、冴無先生と越貫くんの間に立っているのは校長先生。校長先生は到頭、蚊帳の外にいるのに我慢がならなくなったのだ。校長先生は太っちょだったので、クッションのように、衝撃を吸収した。それゆえ、冴無先生は無事だったのである。里狩野先生は、ギュッと冴無先生の頭を抱え込み、自分の胸に引き寄せて、「よかった、よかった」と何度も繰り返した。冴無先生は生徒たちの視線を意識して、顔を赤らめた。しかし、冴無先生は思い至る。里狩野先生は冴有先生のときのぼくを心配しているのではないだろうか。ひょっとすると、さっきの衝撃で冴有先生になったと勘違いしているのではないかしらん。そこで、冴無先生は里狩野先生に、「里狩野先生、今のぼくは冴無です。冴有先生ではありませんよ」と言うと、「そんなことはどうでもいいんですの」と里狩野先生は乙女ちっくな口調で言う。「どうでもいいとおっしゃいますが、里狩野先生だって、冴無より冴有の方がよろしいでしょう」「だから、そんなことはどうでもいいんですのよ」「でも、ぼくは以前、冴無になったために振られた経験がおありです」とちぐはぐな敬語で告げると、「もう。どう言ったって信じてくれないんだから」と里狩野先生は、冴無先生の頬に手を添えて、唇を重ねた。ワッと教室がわいて、拍手喝采。冴無先生は、目を大きく見開いて固まっている。里狩野先生は、冴無先生の瞳を真っ直ぐに見つめ、「これでおわかりかしら」と言うと、冴無先生は壊れた人形のようにカクカクと首を縦に振った。里狩野先生は、「そういえば、冴無先生が無事だったということは……」と思い至る。出来高さんは、まだ泣いていた。おいおいおいおい泣いていたので、冴無先生が無事だったということにも気づいていなかった。出来高さんは越貫くんの頭を自分のひざに乗せ、その顔を見下ろす。出来高さんの目から滝のようにこぼれた涙が、越貫くんの鼻の穴にダイレクトで侵入した。「げほ、げほ、げほっ」と越貫くんはむせ返る。それに気づかない出来高さんは、なおも滝の涙を越貫くんの鼻に注ぎ込む。意識を取り戻した越貫くんは、これは何かの処罰なのではないかと疑った。もしやぼくは、出来高さんを冴無先生の魔の手から救うことができず、それを咎められているのではないか。しかし、まもなく出来高さんと目があった。出来高さんの暗かった顔がみるみる明るくなっていく。そして、越貫くんは「あ、出来高さん。よかっ……」と言ったところで、口をふさがれた。出来高さんの顔が間近にあった。越貫くんの脳は混乱していたが、歓声が上がり、教室の熱が急に高まったのを肌で感じた。「ありがとう」と出来高さん。「へ?」「ありがとう。私を守ってくれて」「い、いや、いいんです別に」と越貫くんは手をひらひらと振って謙遜する。「それから、さっきのスーダラ節も」「もうそれは黒歴史ですので、触れないでください」「ソーラン節にしておけばよかったね」と出来高さんは助言したが、果たして演目を変えたところで意味があるのか、越貫くんにはよくわからなかった。そこで出来高さんは、校長先生の姿を目に留めて、事情を理解した。「あれ。でもなんで越貫くんは倒れたの? 当たってないんでしょ?」「ぼくは腰抜けなので、こういうときに気絶しちゃうんです」出来高さんは「越貫くんは腰抜けじゃないよ」と言ってくすくす笑って、「本当に死んじゃったかと思った。泣き損だよ、これじゃあ」「すみません」「でも本当に、無事でよかった」と言って出来高さんは教室の壁を見やる。そこには時計がかかっており、今は十時五分。二時間目終了まで、まだ十五分ある。出来高さんは学級委員長としての責務を思い出し、手を挙げた。「はい。出来高さん」と里狩野先生。「先生、授業を続けましょう」散らかった机を急いで並べて全員席につく。「では、授業を再開します。今日は、すごい人体模型があります。その名も田中くんです」里狩野先生が人体模型を見せると教室がざわめいた。田中くんに似ていたからである。「この人体模型にはリモコンがついています。ちょっと冴無先生にこのボタンを押してもらいましょう」と里狩野先生からリモコンを渡され、冴無先生はその赤いボタンを気軽に押した。なまずでも踏んだかのような湿った音とともに、人体模型の田中くんのからだから肝臓が飛び出した。「あっ! 失敗だわ」と里狩野先生。人体模型に似ている田中くんは、貧血を起こして倒れてしまった。「弱りましたね」と冴無先生。出来高さんが手を挙げる。「はい。出来高さん」と里狩野先生は指名する。「貧血にはレバーが効くと聞いたことがあります」「そうでしたね。ちょうどいまレバーが飛び出たところですし、どうでしょう。これを与えてみるというのは」という里狩野先生の提案に対し、「それは流石にまずいんじゃないでしょうかと」と冴無先生は忠告する。「まずいかどうかは食べてみなければわかりませんよ」と里狩野先生。「まずいとはそういう意味ではありませんよ」と冴無先生。「なんだ、ちゃんと国語がわかっているじゃないですか」里狩野先生は温かいまなざしを送る。「先生! いちゃつくのはあとにしてください」と誰かが言って、教室は笑いに包まれた。こんな和気藹々とした風景の中、一人蚊帳の外に置かれていたのは校長先生。からだを張って騒ぎを収めたというのに、これでは報われない。肩を落として、気づかれないように教室を出ていこうとしたところで、「校長先生!」と声を張り上げたのは、越貫くん。もう越貫くんはこのクラスの中で空気のような存在ではなかったので、みんなが一斉に校長先生の方を向いた。「ありがとうございました!」と越貫は立ち上がってお辞儀をする。ほかのみんなも立ち上がって越貫くんに続く。校長先生は、瞳を潤ませながら、深い満足感を覚え、襟を正して教室をあとにした。この日以来、校内に七不思議が生まれた。①どうして国語が不得意な冴無先生が国語の教員になれたのか。②どうして里狩野先生は人体模型に執着しているのか。③校長先生はなぜいつもタンクトップなのか。④なぜこの学校には田中という苗字の生徒が多いのか。⑤出来高さんの髪の毛はどういう仕組みなのか。⑥どのくらいの衝撃を与えると冴無先生は冴有先生になるのか。しかし、やっぱり一番の不思議は、⑦こんなにわけのわからない騒ぎの中で、どうしてカップルが二組も誕生したのか、ということである。ある日のこと。冴無先生は理科室にいた。里狩野先生が何やらまた新しい人体模型を買ったようで、その検分をしに来たのである。「お待たせしました」と里狩野先生が人体模型を抱えて入ってくる。「今度のはすごいのよ、口から心臓が飛び出すの」「口から心臓が飛び出すっていうのは、比喩としてはよく目にしますが、実際に目にするのはこれが初めてです」「でも、この人体模型、すっごく重たくって」と里狩野先生が持ち上げた途端、バランスを崩して、人体模型が冴無先生の頭部を直撃した。「冴無先生、大丈夫ですか」「大丈夫です、冴有ですから」と冴無先生は冴有先生になった。あの日以来、ちょくちょく冴無先生は冴有先生になっていて、そのたびに、無と有の境目が段々なくなってきているようであった。「なんだ、冴有先生ですか」「なんだとはなんです」と冴有先生がふくれると、里狩野先生は冴有先生の頬に手を添えて、唇を重ねようとするも、冴有先生に避けられてしまった。今度は里狩野先生がふくれる番だ。「この技は以前、見せてもらいましたから」そう言うと、冴有先生は里狩野先生の頬に手を添え、顔を近づけて一言。「今度は、僕が」〈了〉