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暁光の先  作者: 龍田 環
1/2

前篇

 その日は、静かな雨が降っていた。


 俺はおさの召集命令を受けて、任務で帝国領に散っている仲間を集めていた。途中で帝国暗殺部隊『狩人』のしつこい妨害にあいながら帰還すると、帰るべき「家」がなくなっていた。油をかけられ、あとかたもなく、真っ黒に焼かれていた。焦げた空気のなかには金臭いものが混じり、ここで何があったのか、容易に想像することができた。


 まだ黒煙が燻る長の家があった辺りには、仲間達の欠損した身体の一部があちこちに転がっていた。「長」は俺ら「犬」のいわば飼い主だ。飼い主を死んでも守ろうとしたんだろう。骨の髄まで叩き込まれた「絶対服従」が仇になったな。


 合流できたのは、俺の相方のアキム。フィニ、サディク、シャナン。『狩人』に襲われて重傷を負い、信頼できる同志に預けてきたケイナの、たったの五人だけ。この面子だと、俺が最古参。だからなのか、自然と皆が俺に判断を任せてくる。それが、少しだけ重たかった。


「どうする? このまま奴らが俺達を狩りに来るのを待つのか?」


 一番血の気が多いサディクが、唸るように呟いた。確かに、実働部隊でも指折りの俺達を残しておくとは思えない。気配はなくても、遠眼鏡か何かで今もどこかから監視してるはずだ。早いところ師父達に合流しなければ、俺達も危ない。


「リオン、お前が決めてくれ。俺はお前の考えに従うよ」


 シャナンが完全に死んだ目で、焼けた家々を見ながらぽつりと言った。隠密なんかやってるのが不思議なくらい優しい奴だから、無理もない。今は何も考えられないって感じに見えた。


「みんなを埋めてあげよう。このままにしておくのは、かわいそうだ。死肉を狙って獣もやってくるし」


 俺のごもっともな意見に、全員が力無く頷いた。もう、ここには戻れない。戻ってきても、誰もいない。何もなくなってしまった。


「リオン」


 横倒しになった荷車を起こしたり、埋めるための道具を探したりしていると、アキムが静かに近づいてきた。里についてから、ずっとそわそわとしていたけど、何か気になることでもあるんだろうか。


「どうした?」


「里を焼いたのは、精霊使いかもしれない」


「え? 油じゃなくて?」


「もちろん油も使ってるさ、術の痕跡を誤魔化すために。さっきから、まわりの精霊の気配が騒がしい」


 アキムが、不思議な色合いの瞳で遠くを見ながら、そんなことを言い出した。南方大陸の砂漠地帯から来たアキムは、精霊の加護を強く受けているらしくて、俺には見えない存在を感じ取ることができる。アキムがそういうのなら、そうなのだろう。

 でも何だって精霊使いが、隠密衆の隠れ里を焼く必要があるんだろう? そもそも、西方大陸に精霊使いはいない。彼らは北方大陸の『精霊殿せいれいでん』の厳しい監視下にあるのだ。他大陸で許可もなく精霊魔術を使うと粛清されるって聞いたことがある。それに、今更あの帝国に仕えて何の得があるんだろう。解せないことが多すぎる。

 

「何かおかしい。できるだけ急いで、ここを離れよう。今日中に緩衝地帯まで出るぞ」


 アキムは俺の言葉に少し頷いてから、皆がいる方向に歩き出した。何もわからない今、精霊でも幽霊でもいいから、何か知ってたら教えてもらえよとすら思う。身体にまとわりつくような霧雨が、ひどくうっとおしかった。


 みんなを里のそばにある弔い場に埋めるのに、三時間ほどかかった。俺達は一言も喋らずに、そのへんで拾った農具を使って黙々と作業する。原型を留めている人が少なかったので、思ったよりも早く終わったのが幸いだ。いくつか見つかったククリを墓石のかわりに置いて、五人で静かに祈った。今はこれで勘弁してもらうしかない。


「……いくか」


 サディクが手についた土を払って立ち上がった。それを合図に、みんな億劫そうに身体を起こす。強行軍の徹夜だったし、途中で何度も戦ったし、死ぬほど疲れてるけど、今日中に国境を越えて、緩衝地帯のトラウゼンまでいかないと安心できない。『猟犬』しか知らない獣道を辿りながら、急いで国境に向かった。

 ケイナは元々、訓練された隠密じゃないし、足を怪我している。ついてこられても足手まといだし、俺達も守りきれるかわからない。状況が落ち着くまで、同志のところに置いていくことにした。そろそろ日が暮れる。いい加減眠りたい。木の上でいいから寝たい。歩きながらうつらうつらしていたのか、殿にいたアキムに、後ろ頭をぺしんと叩かれた。


 とっぷりと日が暮れた頃。ようやく緩衝地帯のトラウゼンに到着した俺達は、乾いた岩場の窪みで野営することにした。あたりは虫の声が響く真っ暗闇。やたらと静かだった。追っ手を警戒して火が焚けないので、手持ちの味気ない保存食と、水筒の水で腹を満たす。霧雨でしっとり濡れた装束もそのままに、油紙と外套に包まって、互いに背中を合わせ暖をとりながら眠りについた。サディクがくじで負けて、一番最初の見張り番だ。俺は三番目。一番眠りが深くなるあたりで起こされるのか。イヤだなぁ。誰か変わってくれないかな。


「俺ら、もう『猟犬』って名乗るわけにいかなくなるな……里もなくなっちゃったし」


「一応顔は知られてないから、どっかで普通に生きてくのもありだろ」


「だな……俺、どうしようかな」


「冒険家になるんじゃなかったのか」


 お人よしのシャナンは寝ないで、サディクの愚痴に付き合ってる。たぶん、寝れないんだろう。無理もない。野郎とくっつきたくないフィニは、別の窪みで丸くなってるけど、寝返りばっかりうってる。俺と背中合わせになってるアキムも、まだ起きてる気配がする。でも俺はもう限界。眠い。眠すぎる。みんなのヒソヒソ声を子守唄に、後頭部をぐいぐいひかれるように、眠りに落ちていった。


 全身にピリっとした感覚がはしって、俺は一瞬で覚醒した。背中合わせになってたはずのアキムは、すでに起き上がって手斧を構えて、あたりの気配をうかがっている。俺が起きた気配で、ほかのみんなも一拍遅れて目を覚ました。


「今何時?」


「そろそろ夜明けだ」


「ずいぶん俺寝てたね」


「寝る子は育つ、ってな」


 頭巾の目元を笑みの形にして、そんなことをのたまった。この春からグイグイ背が伸びたからって、俺を見下ろしやがって。俺のほうが、ほんのちょっとだけお兄さんなのに。上から目線はやめてほしい。


「リオンにいざってときに働いてもらいたいから、寝かせておいたんだよ」


 シャナンがいくらか元気になった声で軽口を叩いた。身体をほぐしながらククリを抜いて軽く振るう姿は、いつもと何も変わらない。


「起こしても起きなかった」


 矢筒の蓋をあけて、愛用の強弓に矢をつがえながら、フィニが「ダメだこいつ」って目で俺をにらみつけた。


「フィニの次ってリオンだろ、またアキムに代わってもらったのかよ」


 サディクがニヤニヤしながら、懐から棒手裏剣を数本取り出しながら言った。


「しょうがないだろ、みんなを集めるのに、おとといから殆ど寝てなかったの!」


 俺も愛用のククリを抜いた。ぴったりと柄が手の平に吸い付くような感触と、手にしっくり馴染む重さが心強い。近接戦闘が一番得意な俺、間合いが狭いアキムとシャナンが前衛。投擲武器の扱いが得意なフィニとサディクが後衛。一瞬で連携を組み、アキムの目配せですぐさま移動を開始した。アキムが普段よりピリピリしてるから、精霊がらみなんだろうな。てことは、俺らの里を襲った連中の可能性大だ。


「この先で、誰かが襲われてる」


「誰だろ。疎開中のトラウゼン公の家族かな?」


「そうでないことを祈ろう」


 トラウゼン公はトラウゼン地方一帯を治める大豪族。ウィグリド帝国の辺境伯だったけど、今じゃ反帝国派の筆頭格で、解放軍軍主のエーラース公の盟友だから常に狙われている。家族も例外ではない。確か女中心の組が、護衛についてたはずだ。すごく嫌な予感が止まらなかった。

 獣道を抜けると、見覚えのある拓けた道に出た。帝国と西方諸侯達が引いた境界線だ。どんぴしゃの場所じゃないか。アキムは精霊の加護があるから、俺らでも知らない道をスイスイ抜けられる。便利すぎる。羨ましい。俺も精霊の加護が欲しい。


「みんな、あれ!」


 夜目が一番利くフィニが指差す方を見ると、こちらに向かって、ものすごい速度で疾走する一台の馬車が向かってきていた。誰かが追われている。追っているのは、俺達と良く似た装束を着た、七人の騎馬だった。


 街道から黒い外套の奴らが数人飛び出して、馬車に向かって手をかざすのが見えた。サディクが重く改良した棒手裏剣を間髪いれずに投げつけて、一人を吹っ飛ばす。それを皮切りに、戦闘が始まった。


 俺は腰のもう一振りを抜きながら、奴らに向かって駆け出した。真後ろに迫る俺の気配に、ギョッとした顔で振り返る黒外套。知らない顔だ。走り抜けざまに両腕を振りぬいて、黒装束達の首を切りつける。血が飛沫いて、少しだけ俺の左腕にかかった。まず二人。


 俺に向かって手をかざしている奴の腕を切り飛ばして、喚いてるところを足払いで転がし胸を一突き。一人狩った。俺に追いついたアキムが、吹っ飛ばされてもがいていた奴に手斧を投げつける。頭に当たった瞬間、柔らかい果実が砕けるような音を立てて絶命した。慌てて詠唱を始めようとしていた別の精霊使いを、音もなく後ろから近づいたシャナンが切り捨てた。相変わらず、俺達の連携は素晴らしい。


 俺達前衛が戦闘で目を離した隙に、馬車が襲われ始めた。御者が切られて、馬車から落ちた。馬車は制御を失い、左右に車体を大きく振りながら、まだ走り続けている。大きく川べりへと車体が傾き、半壊していた扉から小さな影が勢いよく転がり落ちた。すぐに中から二人飛び降りて、一人が抜刀するのが見えた。遠目だからはっきりわからないけど、あの明るい髪の男はトラウゼン公だろうか。この道の先にある、フィノイ峠で解放軍の大将として交戦中って聞いてたけど、何でこんな場所にいるんだろう。もう一人は落ちた影を追いかけて、川べりを勢いよく下っていく。『狩人』の二人が、それを追うのが見えた。


 たった二百ファルの距離が、こんなに長いと思ったのは、生まれて初めてだった。俺は馬車のところまで全力で駆けた。『狩人』五人に一人で対峙する男は、思ったとおりトラウゼン公だった。振り向きざまに切りかかってきた一人の剣を、逆手に持ったソードブレイカーで受けてへし折る。金属を鋭く打つ澄んだ音とともに、刃先が折れ飛ぶのが視界の端に見えた。隙だらけの脇腹に、手加減なしの膝蹴りを叩き込む。骨の砕ける鈍い音がして、男が崩れ落ちた。


「助太刀する!」


「俺はいい! 家族を頼む!」


 明るい金色の髪を振り乱し、猛然と切りかかる姿は噂どおりの「金獅子公」そのままだ。みんなが追いついてきたのが気配でわかったので、俺は川へ駆け出した。

 剣戟の音がする。長い髪をひとまとめにした女が、二刀を素早く操りながら二人と対峙していた。あれが、もしかして奥方? どうして騎士服なの? しかも結構強いんですけど。だけど、明らかに奥方が押されている。けして悪くない腕だけど、相手が殺しの専門家じゃ分が悪い。俺の気配に気づいて、片方の『狩人』が川べりに向かって、猛然と走り出した。


「いかさない!!」


 奥方が右手に持った短剣を、走り出した『狩人』に放った。ひらりとかわされて、短剣が川岸の大岩に当たって落ちる。まずい。これはまずい。間に合わないかも!


 体勢を崩した彼女に『狩人』が切りかかろうとするのを視界の端にとらえ、ソードブレイカーを渾身の力で投擲する。そのまま俺は川べりに向かって必死に走った。『狩人』は、うつぶせに倒れていた金髪の子どもの髪を掴んで、地面に放り投げた。子どもが必死に抵抗する姿に背筋が冷える。まさか、あんな小さな子どもを殺すつもりか?!


「ユーリ!!」


「よせ!」


 奥方は子どもの名を叫んで、俺と同じように川べりに向かって走り出した。俺の制止もむなしく、長剣が、背中から彼女を貫いた。


「いやーーーーーー!! ははうえーーーーー!!」


 子どもの絶叫。地面に押さえつけられたまま、母親が血を吐いて倒れる姿を見て、この世の終わりのように泣き叫んだ。咄嗟に投げつけたククリは『狩人』の背中に命中したが、その動きを止めることはできなかった。必死に暴れる子どもを押さえつけて、背中に俺の剣を生やしたまま、短刀を振り下ろした。

 走りこんだ勢いのまま、子どもに覆いかぶさるように屈みこんだ『狩人』を蹴り飛ばし、背中に突き刺さったままのククリを掴んで、肩上に向かって力任せに切り裂いた。絶命するのを確かめもせず、ぐったりとした子どもに駆け寄った。


「しっかりしろ!」


 子どもが必死で抵抗したから、かろうじて急所は外れていた。右の脇腹が黒っぽい血に染まっている。この感じだと内腑に傷がついたのかもしれない。この小さな身体じゃ、出血に耐えられるかわからない。とってもまずいことになった。


「……はは、う、ぇ……」


 失神してもおかしくない痛みと失血のなか、必死に母親を求める子どもの姿に、俺は過去の自分が重なった。視界を狭める邪魔な面を外して、腰にくくりつけていた鞄を外し、中身をぶちまけた。そこそこ清潔な布と血止め薬があった。とにかく血止めしないと。内臓の傷は俺じゃ治せないから、応急処置しかできないけど、しないよりマシだ。

 上等なビロードの上着を脱がせて、柔らかな綿のシャツをまくりあげてから、血止め薬を傷にドバドバ振り掛ける。俺の腕を掴む小さな手に、涙が出そうになる。布を当てて、止血帯でぎゅうぎゅう締めあげると、力なくもがいた。痛いよね。ごめんね。


 背後で動く気配がして、俺は胸のなかにどろりと黒いものが湧き出すのを感じた。今回ばかりは、自分の失態に腹がたってしょうがない。『狩人』たちの見境なさにも反吐がでる。何の力もない女子どもを殺して、一体何になるんだよ。


「ちょっと、待っててね」


 倒れたままの子どもに外套をばさりと掛けてやって、俺は身を翻して一気に駆け出した。むこうも同時にこちらに向かってくる。間合いは長剣のほうが広いけど、今の俺はまるで負ける気がしなかった。怒りまくってるのに、妙に頭は冴えている。


「ふぅっ」


 軽く息を吐いて、姿勢を低くしながら獲物に狙いを定めた。あっちもあっちで、剣を下段に構えて俺を迎撃しようとしている。直前でフェイントをかけ、地面を強く蹴って、黒装束の頭上を跳び越した。飛び越しざまにククリを素早く横薙ぎさせると『狩人』の首から勢いよく血がしぶき、地面を派手に汚した。がくりと膝をついて、ゆっくり傾いでいく。

 あまりにもあっさり決着がついた。こんな雑魚に遅れを取ったのかと思うと、自分自身に吐き気がする。血払いをしたククリを鞘に収めた瞬間、すさまじい後悔が襲ってきた。俺が後手にまわったせいで、あの子は母親を亡くした。俺のせいだ。俺と同じ思いを、生きている間、ずっと引き摺るんだ。あの子に、何て謝ったらいいんだろう。


 地面に倒れ付した奥方が、かすかに身じろぎする気配がした。急所を貫かれてるのは確実で、もうもたないだろうことは、経験からわかる。俺は急いで川岸に横たわっている子どものもとに戻り、両手でそっと抱き上げた。こんな小さな子が剣で刺されたり、母親を目の前で殺されるだなんて。こんなこと、あっていいわけがない。


「大丈夫? お母さんのところに連れてってあげるね」


 子どもは焦点の定まらない目で、うっすらと俺を見た。磨いた青い輝石のような、綺麗な目だった。


「は、はうえ、だいじょぶ……?」


 力の入らない真っ白な手が、俺の装束の襟を掴む。すんごく痛くて気絶したいくらいだろうに、自分よりも母親を気遣って。お母さんのことが本当に大好きなんだろうな。そんな子にむかって、今わの際だよ、だなんて、さすがの俺も言えない。静かに横たわる奥方のそばに、子どもを抱いたままゆっくりとしゃがんだ。


 赤みのある黒髪は艶々としていて、きっとお日様にあたると綺麗なんだろう。今は血と泥に汚れて、ひどい有様だ。失血で意識が薄れるのを留めるように、しきりに瞬きをしている姿を見ると、俺を庇って死んだ母親の姿を思い出す。直視するのが辛かった。


「ユーリ……」


「ははうえ……」


 奥方の身体をそっと仰向けにして、もう自力では動かせないであろう腕を取って、その手を子どもに握らせてあげた。


「ごめんね、守ってあげられなくて……」


「ははうえ、ははうぇえ……」


 奥方は、泣きじゃくる子どもに優しい表情を浮かべた。そして、すでに焦点をなくし始めた、ぼんやりとした瞳が俺を見た。口元が微かに笑みの形になる。


「ユーリを、助けてくれて、ありがとう……」


 子どもと同じ、綺麗な青。この色を、この顔を、俺は一生忘れないだろう。


「ユーリ、大好きよ……母上、あなたが大好き」


「ははうえ、しんじゃいやだ、やだよぉ……」


 力なく子の手を握る手が滑り落ちて、するりとその指がほどけた。


「セディ、ごめんなさい……ぁ」


 何かを呟くように、小さく唇が動いて、それきりだった。瞳から光が消えていく。


「やだよぉ……」


 母親が死んだことを悟って、子どもも気が遠くなってきたのか、目を閉じようとしていた。


「ダメだ、目を開けて! 起きろ! 寝るな! 寝たらダメだ!」


 今気絶したら、戻って来れなくなる。さっき馬車から落ちて、頭を打ってるかもしれないから、下手に揺すれない。手の平で軽くほっぺをぺしぺししながら焦る。やばい、どうしたらいいんだよー。


「リオン!」


 川べりから、フィニが駆け下りてくるのが見えた。よかった、俺より医療に長けた奴が来てくれた。


「フィニ! 何とかして! この子を死なせないで!」


「わかった!」


 フィニが子どもを寝かせるよう手で指示しながら、背嚢から手早く医療道具を取り出した。俺は外套を地面に敷きなおして、子どもをそっと寝かせた。


「上はどんな状況?」


 フィニの邪魔をしないように、さっき自分でぶちまけた鞄を片付けながら聞いた。


「アキム達が片付けた。トラウゼン公は精霊使いの火の玉を浴びて重傷」


「最悪! 生きてるの?」


「生きてる。普通に戦ってた。噂どおりの、すごい武人だね」


 子どもに痛み止めの超苦い薬を飲ませながら、淡々とフィニが答えた。かわいそう。口直しの蜂蜜もないのに、アレを飲まされるだなんて。味覚破壊と引きかえにだけど、その薬、すぐに効くから我慢するんだよ、と心の中で呟いた。


「そっか」


 犠牲になったのは、奥方だけか……。どうやって伝えたらいいんだろう。さっき「頼む」って言われたのに。


「……ケイナが、いてくれたらよかった」


 フィニがため息をつきながら愚痴った。俺だって同じこと考えた。ケイナは医師だから、この場ですぐにお腹を縫ってくれる。苦痛を、少しでも早く止めてあげられる。


「仕方ないだろ。置いてったの、俺らだし」


 悔しそうな表情をしているのが、後姿でも何となくわかる。フィニは子どものシャツを元に戻すと、俺を振り返ってその目元を緩ませた。


「腸に少し傷があるみたいだけど、これは縫えば問題ない。完璧に血止めしてあるから、私にもこれ以上、できることはないよ」


「この子、動かして大丈夫?」


 フィニは寝かせた子どもの頭を軽く触って診て、医療道具の中から貼り薬と包帯を取り出して手当してくれた。


「側頭部に、でっかいたんこぶがある。これなら中身は大丈夫、だと思う。吐き気は?」


 フィニが聞くと、子どもは弱弱しく顔を横に振ってから「おくちがにがい」と小さく文句を言った。何とか意識を保ってくれたから、この分なら『深淵』に行かずにすみそうだ。見た目は綿菓子みたいにふわふわなのに、結構聞かん坊だな。気に入った。


「川風に晒すのはよくないよ。さっさとあがろう」


 フィニは一つ頷いて、子どもを俺の外套で包むと、そっと横抱きにして歩き出した。俺は地面に転がっていたソードブレイカーを拾い上げると、血と土を払ってから鞘に戻した。焦って手元が狂ったな。ちゃんと頭に当たるように投げるべきだった。後悔しても遅いのに、ああすればこうすればが、次々頭に浮かんでは消えた。今更そんなことを言ったって、失われた命は戻らないのに。もっと投擲の修行を積もう。二度と、こんな失態を犯さないように。半泣きの顔を見られたくなくて、外していた面を付け直した。


 もう愛する子どもを抱くこともできない、気の毒な貴婦人の傍らに跪いて目礼してから、すぐそばに落ちていたファルシオンを彼女の腰の鞘に納めて、その身体を抱え上げた。魂の抜けた身体は、すごく重たかった。ごめんなさい。助けられなくて、ごめんなさい。俺は謝罪の言葉を何度も呟いた。


 街道に戻ると、あたりは煙がくすぶり、首やら腕やらが転がるひどい有様だった。アキムとシャナンが、容赦なく切り刻んだんだろう。彼らは優しい顔してるし、実際とっても優しいけど、何の躊躇いもなく人を斬る。優しいから「苦しまずに一思いに」を、忠実に実行してくれる。俺のような殺人術に長けた奴よりも厄介だと思う。一撃で確実にりにくる暗殺者だなんて、俺は絶対に会いたくない。


 全員怪我一つないのを見て、お互いに安堵する。街道沿いの細っこい木に寄りかかるようにして、トラウゼン公が座っていた。右上半身にひどい火傷を負って、肩で苦しそうに息をしている。俺が抱えている、ぴくりとも動かない血だらけの奥方を見て、すべてを悟った表情になった。


「……助太刀、礼を言う」


「……力及ばず」


 俺はトラウゼン公のすぐ傍に奥方を横たえると、少し離れた場所に控えた。申し訳なくて顔が上げられない。俺のずーんと凹んだ姿に、トラウゼン公は苦笑を浮かべた。


「君らがいてくれたから、俺と息子は助かったんだ。エリウも……妻も息子を救ってくれて感謝してるはずだ。だから、そう自分を責めるなよ。君は、十分やってくれた。ユーリを助けてくれて、ありがとう」


 その言葉に俺は泣きそうになった。どうしてそんな風にいえるんだろう。絶対に叱責されると思ってた。よくも妻を死なせたな、息子にまで瀕死の重傷を負わせたな、何をしていた、って。嫌な西方諸侯は、俺達を文字通り犬のように扱うのに、トラウゼン公は礼を言う。この人になら仕えてみたい。素直にそう思えた。


「トラウゼン公。お命があって何よりです。なぜ、こちらに? フィノイ峠にいらしたのでは?」


 アキムが俺達を代表して、トラウゼン公に話しかけた。こういうときは礼儀作法がしっかりしてるアキムに任せるに限る。


「妻子が領内で襲われ、残してきた護衛達と交戦中だと聞いて慌てて戻ってみれば、だ。手勢と分断されて、このざまだ」


「……罠でしたか」


「俺を先に行かせてくれた、君達の仲間も、ほとんどやられたかもしれない……。さすがに精霊魔術に、人の身では対抗できないだろう」


「俺達『深淵の猟犬』はトラウゼン公をお守りするのが仕事です。お気になさらないでください。俺達は里が襲われ、緩衝地帯まで撤退中でした」


「何だと、どういうことだ?」


「精霊使いと『狩人』に、里が襲われ、『深淵の猟犬』は壊滅しました」


 アキムの言葉に、トラウゼン公には心当たりがあるような感じだった。北方大陸には精霊使いやら、竜やら、わけのわかんない伝説級の亜生物が普通にいるけど、西方はそういうデタラメな存在はほぼ皆無だ。だから、今回のようなことは珍しい。いまこの大陸に何が起きてるんだろう。

 俺達はそっと顔を見合わせた。師父はずっとトラウゼン公に随行していた。さすがの師父も、精霊魔術と真っ向勝負はできないだろう。本当に俺達だけになってしまった可能性が出てきて、俺は途方にくれた。これからどうすればいいんだろう。今の序列だと、俺が「頭」の立場になっちゃうのか。みんなの俺を見る目が、重たかった。 

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