私のヒーロー
「え、飲み会?」
電話口の相手の一言に、私は自分の表情が曇るのがわかった。
「けど今日は、週末だから一緒に飲むって言ったじゃない」
「仕方ないだろ、付き合いがあるんだから」
「陽太くんお借りしますー」
既に飲んでいるのだろう。電話の向こうからは、周囲にいるのだろう友達の声が聞こえた。
女性の声だった。
私の心は、少し揺さぶられた。
もしかして陽太に恋人が出来たのだろうか。
そんなことになれば、私は置いていかれてしまうのだろうか。
けれども、私にそれを引き止める権利は無いのだ。
私は彼の、妹なのだから。
「わかった。飲み過ぎないようにね」
できるだけ素っ気なく言って、私は電話を切った。
コンロの前に立ち、再び鍋を火にかける。
作っている最中の肉じゃがは、一人で食べるにはあまりに多すぎた。
男性の食欲を計算して作られた量であり、私にはその三分の一を食べるのが精々だろう。
「明日、食べてもらえば良いよね」
独りごちたその声は、思いの他か細くて、私は自分自身を少し嫌悪した。
昔からそうだった。勝ち気な陽太と、大人しい私。
同じ両親から生まれた双子の兄弟だというのに、性質はまるで違っていた。
私にとって、陽太は憧れでもあり、妬ましい存在でもあった。
けれども、私達はお互いに足りない部分を上手く埋めあっていた。
埋めあっていると、少なくとも私はそう思っている。
「お兄さんとは、そのうち別々に暮らすようになるんだよ」
昼に聞いた言葉が、脳裏に蘇る。
そんなことはわかっている。わかっているのだ。
二十歳を過ぎて同じアパートに住んでいるのだって、親の経済的な問題で、同じ大学に進学したからでしかない。
私は、溜息を吐いた。
わかっていても、別々に暮らすことをイメージ出来ない私だった。
時間は、その日の昼に遡る。
「月夜ちゃんは、飲み会来れない?」
同期生の男が、残念そうに言う。
「うん、今日は約束があるから」
私は、苦笑して返事をする。
陽太に言わせれば、自信なさげな笑みである。
「恋人?」
男は、踏み込んだことを聞いてくる。
「ううん、違うよ」
私は、正直に答えた。嘘をつく理由が見つからなかったからだ。
「もしかして、お兄さん?」
私はしばし迷ったが、頷いた。
「いいじゃん、お兄さんなんて」
嘘をつくべきだったか、と、私は後悔した。
「けど、約束は約束だから」
「けど、皆来るよ? 楽しいよ?」
「皆と言っても、私の親しい子は来ないでしょ」
この男が、メンバーを選んでコンパのようなことをやっているのは知っているのだ。
「月夜ちゃんは、兄離れするべきだな」
男は、攻め方を変えた。
貴方にそんなことを言われる義理はない、と私は思う。
そもそも、名前にちゃん付けなんて、馴れ馴れしすぎやしないだろうか。
しかし、そのような不平不満は、心の棚にしまうのが私の常だった。
「月夜ちゃんも、恋人がほしいとか思わない?」
「残念、思わない」
言って、私は足早にその場を去った。
「お兄さんとは、そのうち別々に暮らすようになるんだよ」
男の、正論ぶった声が追いすがってくる。
私はそれを振り切って、早足で歩き続けた。
呪詛のようなその声は、私の心を包んで、不安にさせた。
陽太が帰ってきたのは、日付が変わる頃だった。
情けない薄ら笑いを浮かべて、真っ赤な顔で帰ってきた。
身内の情けない姿は見たくないものだが、私はどうしてか安堵した。
「おかえり。水飲む? 寝る?」
「お前にする」
そう言って、陽太は私を抱きしめた。
呼吸が止まる。顔が熱くなるのが自分でもわかる。
陽太はそのまま、居間に倒れてしまった。
「ちょっと、私じゃ運べないからね」
「うん」
「聞いてないね?」
「うん」
陽太はそのまま、床で寝てしまった。
私は苦笑すると、玄関の鍵を閉めた。
そして、陽太に毛布をかけた。
座り込んで、陽太の頬を突く。
反応はなかった。
私は、陽太が好きなのだろうか。そんなことを、ぼんやりと考えた。
例えば、私を抱きしめたのが陽太ではなく、昼の男だったら、私は間違いなく相手を嫌悪しただろう。
他の男だって同じだ。父ですら、そうだろう。
ただ、陽太だけが、例外として存在している。
「恋人がほしいと思わない?」
そんな言葉が、脳裏に蘇った。
いらないと私は言った。
恋人はほしくない。
けれども、陽太はほしかった。自分の傍に、繋ぎとめたかった。
私は、悪戯を思いついた。
中学生時代のことだ。
私は、苛められていた。友達の片思いの相手が、私に片思いしていたという些細なきっかけで。
ありもしない噂を流されて、私は学校に通うのが嫌になった。
傍にいてくれたのは、陽太だった。
陽太は私の頭を撫でると、言った。
「お前の良さは、俺がわかってるから大丈夫」
気休めにしかならない言葉だった。
けれども、その気休めに、私は心を満たされた。
陽太は、色々な場所に私を誘ってくれた。
映画館、遊園地、デパート。
陽太と二人きりの時もあれば、陽太が他の友達も誘ってくれることもあった。
そのおかげで、私の味方は増えた。
「陽太は、私のヒーローだね」
私は、本心からそう言っていた。
「ああ、困ってたら助けてやるよ」
陽太は、そう言って微笑んだ。
あの微笑が、いつかは他人に向けられることを私は知っていた。
知っていることと、承諾できることは、また別なのだ。
「え?」
陽太の間の抜けた声で、私は目を覚ました。
「おはよう」
私は微笑んで声をかけ、陽太に抱きついた。
陽太の体が、硬直したのがわかった。
陽太は下着姿で、居間に寝ていた。
同じ布団に、私が寝ていた。
さて、彼は何を想像するだろう?
「昨日のこと、覚えてる?」
「えっと、飲んで、酔っ払って、帰ってきた」
「帰った後のことは?」
「いや……覚えてない」
「本当に?」
「本当に」
「あんなことがあったのに?」
「あんなことって、なんだよ」
陽太は、徐々に深刻な表情になる。
私はそれが、おかしくてならなかった。
「陽太は言ったよね。お水でも布団でもなく私にするって」
陽太は真っ青な表情で、口を開かない。
「朝ご飯にしようか」
陽太はその後、口数少なかった。
真っ青な表情で朝食を食べると、外へ出かけて行ってしまった。
悪戯にしては、やりすぎたかもしれない。
けれども、この嘘で、陽太が私を優先させてくれるようになれば。
そんなことを、思ってしまった私だった。
夕方になると、陽太が電話をかけてきた。
スマートフォンを通話モードにして、私は耳に当てた。
「今日、友達のところに泊まるわ」
「そうなの?」
「うん。友達がゲーム買ってさ。数日、それにはまってるかも」
「なんのゲーム?」
「格闘」
「好きだねえ。わかったよ」
苦笑して、私は次の言葉を待った。
けれども陽太は、そのまま電話を切ってしまった。
いつもだったら、戸締りを気をつけろ、ぐらいのことは言うのに。
私は、言いようのない寂しさを感じた。
一人で食べた昨日の肉じゃがの残りは、酷く味気なかった。
三日間、陽太からは連絡がなかった。
こちらから連絡しようかとも思ったが、あまり詮索するのも鬱陶しがられるかと思ってやめた。
いっそ、嘘をばらしてしまおうかとも思ったが、それはそれで信頼を失いそうだ。
結局のところ、私の嘘は居心地の良い関係を破壊しただけなのではないか。
そんなことを、私は思った。
あの男が尋ねてきたのは、そんなある日のことだった。
同期生で、私を飲み会に誘った男だ。
外は、雨が降っていた。
「ごめん、雨に降られてさ。雨宿りさせてくれないかな」
「それなら、傘を貸すよ」
そう言って、私は扉を開けた。
すると、彼はするりと扉の中に押し入ってきた。
「いやあごめん、濡れちゃってさ。ちょっと、乾かさせてよ」
そう言って、彼はずかずかと部屋の中に入ってくる。さほど、濡れた様子はない。
私は、不安を覚えた。
しかし、日本は法治国家だ。馬鹿なことはしないだろうと、私は思いなおした。
私は、お茶を彼の前に出すと、離れて座った。
「そんなに離れなくてもいいよ。取って食いやしないから」
「私にとっては、普通の距離ですけど」
「そう?」
そう言って、彼は茶の入ったコップに口をつけた。
そのコップは念入りに洗おうと、私は思った。
「最近、兄貴は帰ってないんだって?」
なんで知ってるのだと、私は動揺した。
それが表情に出たのだろう。彼は、意地悪く微笑んだ。
「女の家に泊まってるって噂だぜ」
私は、脳を揺らされたようなショックを受けた。
いつかはそんな日が来ると私は知っていた。
けれども、その覚悟は少しも出来てはいなかったのだ。
「いつまでも兄貴の世話なんて。やめちまえよ。月夜ちゃんは、自由になっていいと俺は思うんだ」
もっともらしいことを、男は言う。
私は、この男を嫌悪した。
私に兄離れさせることを大義名分にして、余計な情報を持って来る
「私は、自由にしているだけだけれど」
「普通は、月夜ちゃんぐらいの子は、恋人が欲しいって思うんだよ」
「そう思わない人もいるんじゃない」
「キスしてみようか」
男の言葉に、私は背筋に悪寒が走った。
この男とキスをする。そんなこと、想像するだけで吐き気がした。
それを許しえるとしたら、陽太だけだった。
「気持ちが変わるかもよ」
男は近付いてくる。
私は、右手でスマートフォンを取り出して、陽太の番号に電話をかけた。
男の手が私の手を掴む。
必死に振りほどこうとするが、男の手は揺るがない。
私はスマートフォンを左手で掴むと、相手の鼻に投げつけた。
相手の手が緩み、その間に私は家の外へと逃げ出した。
私は、泣きたくなった。
心臓が、大きな音を立てて脈打っていた。
この世界で、一人きりのような気分だった。
陽太は女の家に泊まり、私の元にやってくるのは嫌な男だ。
ヒーローはもう、助けに来てはくれない。
私が、相手の信頼を裏切ってしまったから、天罰が下ったのだ。
家に帰れず、スマートフォンもなく、私は小雨の中をさ迷い歩いた。
コンビニや店にも、雨に濡れていて入り辛い。
私が入ったのは、駅だった。
ここならば駅員もいるし、客もいるし、屋根もある。
私は深呼吸して、冷静になろうとした。
そして、陽太が女の家に泊まっていることを思い出して、目じりに涙が浮かんだ。
子供の時間は終わったのだ。心の中で、そう囁く声がした。
電車の止まる音がした。
私は俯いて、ぼんやりとしていた。
家に帰れば、あの男がいるかもしれない。そう思うと、怖くて帰る気にはなれなかったのだ。
これからは、一人でなんでもやらなくてはならない。こんな時、一人でどう動くのが正解なのだろう。
「なにやってんだ、お前」
聞きなれた声が、頭上から降ってきた。
顔を上げると、陽太が立っていた。
深刻な表情だ。
「こんなに濡れて。どうした? なんかあったのか?」
「どうして?」
「どうしてって、なにがだよ」
「どうして、ここにいるの?」
「そりゃ、お前から変な電話がかかってきたからだろ」
陽太は、呆れたように言った。
「私が大変な時に、女のところにいたんだね」
言っても詮無いことを、私は言っていた。
「……別に、ゲームしてただけだけど。それは電話で言ったろ?」
嘘つき。そう思って、私は陽太の胸を押した。
男なんて皆嘘つきだ。あの男だって、雨宿りを口実に家に上がったではないか。
けれども、嘘つきは自分も同じだった。
そう考えると、私は少しだけ冷静さを取り戻した。
「私一人で解決する」
「は?」
「これからは、女の家で暮らすんでしょう。私は私で、一人で解決するの」
「いや、アパートに帰るって。荷物も置いてったろ」
「なら、どうして帰ってくれなかったの」
彼が傍に居たならば、あんな怖い思いなどせずにすんだのだ。
「それは、悪かったと思ってる」
陽太が、私の手を掴んだ。
あの男が掴んだ場所と、同じ場所だ。
けれども、嫌悪感はわかなかった。
私が触れられても嫌悪感を覚えない異性は、彼のままなのだ。
「お前のこと、不安にさせたと思う。あんなことの後で、避けるような態度を取って、悪かったと思う。けど、俺はお前ときちんと話して、責任を取るよ」
陽太の手が、私の手を包んだ。
私は、泣きたくなった。
緊張や恐怖が溶けて、その底から喜びが湧いてきた。
陽太は、私のヒーローのままだ。
感動する反面、あの嘘をどう処理したものだろうと冷静に考える私がいた。
冷静な私を押しのけて、私は陽太に抱きついていた。
そして、全てを話した私は、拳骨を脳天に喰らった。
嘘をついたことと、易々と不審な男を家に上げたことがその理由だった。
しばらく、陽太はよそよそしかったが、次第に元の態度に戻って行った。
護衛役として、私の傍にいなければならないのだ。いつまでも気まずいままではいられない。
大学でも、こちらの講義が終わるのを待ってくれている彼は、やはり私のヒーローだった。
「私の彼氏はそこまでしてくれるかな」
友人は、どこか溜息混じりにそう言ったものだった。
「あんた達って、結婚できるのかね」
どこか嫌味っぽく、そう付け足してはいたが。
結婚できなくても良いと私は思っていた。知らない男と一緒になるぐらいなら、陽太と二人で暮らすほうが良い。
陽太は、どう考えているかはわからないところだが。
そして私は、今日も晩御飯を作る。陽太と私の二人分だ。
電話がかかってきて、私はスマートフォンを通話モードにした。
「もしもし」
「ごめん、飲み会入っちゃった」
悪戯が手ぬるかったかなと、私は思った。
電話の向こうからは、女の笑い声が聞こえているのだった。
短編五作目です。
読了、ありがとうございました!
オチの部分を入れるか、嘘をどうするか悩むところで終わらせるかで少し悩みました。