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寄せ籠

明日は 晴れる

作者: 園田 樹乃

 中学二年生の二学期。

 期末テストを翌週に控えたこの日。

 登校した僕は、机の中にあるものを見つけた。

 

 ピンク色の封筒。

 『足立 行弘(ゆきひろ) さま へ』

 その封筒の表には僕の名前が、丸い文字で書かれていた。差出人は……学年一の美女。


 性質(タチ)の悪いイタズラ、だと思った。

 彼女が、僕なんて相手にするはずないし。そもそも、僕の存在なんて、目に入っていないだろう。

 怒りで、顔に血が上るのが判った。


「おい、足立にラブレターだぜ!」

 囃し立てるクラスメイトの声に、手が震える。

 ここから、居なくなりたい。

 そう思って顔を上げた僕は、教室の入口で立ち尽くしている女子と目が会った。


 ハイジちゃん、に見られた……。


 同じクラスのハイジちゃんは、その名のとおり、世界名作アニメの世界から抜けだしたような白い肌と赤いほっぺたをした女の子。掃除のゴミ捨てとか委員会活動といった、皆が嫌がるような雑用も嫌な顔一つしないで黙々とこなしている子で、その姿に僕が密かに好意を抱いている子だった。

 ラブレターの差出人が、華やかな薔薇としたら。彼女は、アルプスの山に咲くエーデルワイス。


 その彼女が、僕と目が会った瞬間に泣きそうな顔になった。

 もしかして……僕のことを?

 彼女のその表情に、僕は怒りを忘れた。

 ああ、泣かないで。

 こんなラブレター、僕は無視するから。


 だから……いつか、君からのラブレターが欲しいな。



 けれど、人目を避けるように咲くエーデルワイスの彼女が、想いを僕に伝えてくれる日は来ないまま。

 僕たちは、卒業の日を迎えた。



 男子校へ進学した僕はそれからも、時々ハイジちゃんを電車で見かけた。

 進学校としてそこそこ有名な学校の制服を着た彼女は、いつもひっそりと電車の片隅に立っていた。

 そんな彼女に、底辺校の僕が声をかけることも憚られて。ただただ、彼女が降りるまで見守ることしかできなかった。


 そして。高校を卒業してしまうと、電車ですら彼女の姿を目にすることは無くなった。



 僕は、高卒で働き出した職場を一年半で辞めてしまって。

 『家業見習い』といえば聞こえがいい、バイトで”お小遣い”だけを稼ぐ身分で、成人式を迎えた。


 成人式なんて、行く気はなかったけど。ママに『けじめだから』と、スーツを買いに連れて行かれた。せっかく買ったスーツを無駄にするわけにもいかなくって。成人式の当日、僕は仕方なしに市民ホールへと足を運んだ。


 溢れんばかりの新成人の中に、かつてのクラスメイトを見かけた。確か、野球部のエースだったやつ。

 恋人らしき美人と並んで話している彼は、逞しそうな体をスーツに包んで、堂々としていた。

 それに比べて、僕といったら。家を出るときに目にした姿見には、完全にスーツに着られている姿が映し出されていたっけ。

 同級生なのに。ほんの五年前までは、同じ制服を着ていたのに。なんだろ、この違い。

 思い知らされた”差”に、気持ちが沈む。


 帰ろっかな。

 そう思って振り返った先にも、ちらりほらりと見知った顔が見える。

 あ。

 そうか。もしかして、ハイジちゃんも来ているかも。



 長々と続く市長の話の間にも、客席を見渡す。

 どこに居るんだろ。こんなに人数が居る新成人の中から、一人を見つけ出すのは無理、かなぁ。


 ゾロゾロと出て行く人たちを、席に座ったままボンヤリと眺めて、彼女の顔を探す。

 居ない、なぁ。

 もしかして、大学、市外に出たのかな。住民票のある人しか参加できないとかって聞いたし。


 ほとんどの人が出終わってから、僕はドアへと向かった。


 旧交を温めるような相手もいない僕は、さっさと帰ろうと、一目散に玄関を目指す。

 向かう先から、通りのいい声がした。

「……ハイジ!」

 えぇ?

 空耳、じゃないよな。

 そう思いながら、声の方へと、ロビーを埋める人混みをかき分けていく。

 玄関前のところに、さっきの野球部のエースと美人が、振袖姿の女性と話をしている。

 僕の聞いた名前は、空耳なんかじゃなかった。

 振袖を着た色白の女性は……ハイジちゃん、だった。


 彼女の両手首を、エースの大きな手がつかむ。

 俯いた彼女の頭が、嫌々をするように左右に振られる。


 ハイジちゃんに、触るな!

 嫌がっているじゃないか。

 エースだからって、何やっても許されるわけじゃないんだぞ!


「ワレェ、何しとんどいや」

 僕の心の声を代弁するような凄みのあるその声は、彼女を背後から羽交い絞めにした男のものだった。

 一瞬の間をおいて、叫び声が響く。

「ゆきちゃん! ゆきちゃん! ゆきちゃん!」

 悲鳴のような彼女の声に、心臓を撃ち抜かれる。

 

 『ゆきちゃん』って……。

 それは、ママが僕を呼ぶときの呼び方だった。

 ハイジちゃんも僕のこと、そんな風に呼んでくれていたんだ。心の中で。

 その彼女が、助けを求めている。

 両手をエースに、体を背後の男に捕まえられた不自由な体をよじりながら。

 

 この僕に、助けを求めている。

 助けに行かなきゃ。

 男じゃない。



 勇気を振り絞って、彼らに近付こうと震える足を踏み出す。

 けれど、二歩目が……凍りついた。

「この手、どないして欲しい? 離さんかったら、折ってまうで?」

 おどろおどろしい言葉の内容とは裏腹に、静かな声がする。

 ハイジちゃんの背後の男が、猛獣のような目で睨みながら、エースの腕を握っているのが見えた。


 手を折る、なんて……。

 そんな相手と、僕が勝負になるのだろうか。


 ベルトの上に肉が乗るほど、たるんでいる自分のおなかを見下ろす。

 申し訳程度のバイトをする以外は、自分の部屋に篭ってアニメを見て、ゲームをしているような生活をしている僕が。

 エースの頑丈そうな腕すら折ると言い放つ、猛獣のような男と。


 恐る恐る顔を上げた僕の視界の中には、怯えたようにハイジちゃんの手を離したエースと、腰が抜けたようにクッタリと力の抜けた彼女のこめかみに、キスを落とす男とがいた。 



 負け犬が尻尾を巻いて逃げるように立ち去るエースと美人を見送った僕は、残った二人の方に視線を戻す。

 腰を抜かすほど怖がっていた彼女を、あの猛獣男はどうした?

 

 僕の心配を裏切る光景が、そこでは繰り広げられていた。

「ゆきちゃん、ゆきちゃん」

「うん、ここに居るから」

 彼女の正面に回った男が、さっきとはうって変わって優しげな声をかける。それに応えて、彼女が男に頬を寄せる。

「ゆきちゃん、ありがとう」

「遅くなってしもて……ホンマにごめんな」 

 抱き合ったまま、彼女の頭がゆるく振られる。

 そんな彼女に、キスの雨が降る。


 ハイジちゃんにとっては、こいつが『ゆきちゃん』なんだ。

 僕と同じ名前なのに、すらりと背が高くって同性でも見惚れるほどスーツが似合っている茶髪の男。そして、彼に全てを預けたようなハイジちゃん。

 他人が目に入っていないような二人の世界に、僕は敗北を知った。


 彼女が幸せなら、それでいいじゃないか。

 所詮、僕には”高嶺の花”だったんだ。



 『いいじゃないか』と、自分を慰めたものの。

 それでも感じる失恋の痛みに僕は、虚構の世界へ逃げた。

 美少女アニメとゲームに給料の全てをつぎ込む。

 その世界にいる限り。

 僕は、傷つかない。



 なのに。世の中は、僕からその幸せすら奪おうとする。

 その翌年、日本中を震撼させる事件が起きた。犯人が、ロリータ漫画を愛好していたとかで、純粋にアニメを愛する僕たちまで白い目で見られるようになった。

 部屋の掃除していて僕の趣味に気づいたママが、僕のことを汚いモノのように見るようになって。

 年子のお姉ちゃんの結婚が二十九歳で決まった時。『相手の男性に恥ずかしい』という理由で、最後通牒を突きつけられた。


 家を出るか、趣味をやめるか、と。



 家を出るほうを選んだ僕は、実家から少し離れた隣の市で、古いアパートの一室に自分の城を築いた。

 誰にも邪魔されず、どっぷりと趣味にハマれる空間。

 その聖域を維持するため、それまで以上に仕事に力を入れた。


 精一杯働いて。  

 そのお金で、大好きなものを集めて。

 今までの人生で、一番、”生きている”感じがした。



 家を出てから、約十年が過ぎた。

 三十八歳のその年の暮れも、いつもの年と何も変わらなかった。

 冬と夏の恒例行事、東京の同人誌即売会に参加して。戦利品を詰め込んだ重いかばんを手に、僕は最寄り駅の階段を下りていた。


 何の加減、だろう。 

 足元がふらついて。重い荷物に引き摺られるように、階段を転げ落ちた。

 痛い、と思ったのは……多分、ほんの数段分。

 ゴチン、と音が聞こえた次の瞬間、目の前が真っ暗になった。



 気がついたときは、病院のベッドの上で。左腕が動かなかった。


「もう、年末の忙しいときに」

 ママの声、がする。

「ママ?」

「あら、気がついた?」

 僕を覗き込むママの顔。

 こんなに、白髪が多かったっけ? あ、そりゃそうか。孫がもう小学生なんだから。

 数年ぶりに見たママの顔に、失礼なことを考えた。


 それが伝わってしまったのか、ママから反撃が来る。

「恥ずかしいったら、ないわ」

「恥ずかしい?」

 聞き返した僕に、ママが黙って床を指差す。

 首を捻るようにして、見た視線の先。

 かばんからはみ出すように……戦利品が顔を出していた。

「服装だって……」

 お気に入りのキャラT、の、どこが悪いのさ。上からシャツを着てたんだから、外から見えない”下着”に、何を着てもいいだだろ?

「治療の邪魔なるから、切ったわよ。血もついていたから、捨てるわね」

「切ったぁ?」

 そんな……。レアもの、だったのに。

 自由になるほうの腕で、胸元をなでる。いつの間にか僕は、浴衣みたいな服を着せられていた。

「ゆきちゃん。分かってる? そろそろ四十歳よ。いつまで、子供みたいなことを続けるの?」

 ブツブツと、お説教が続くのを聞いているフリで、天井を眺める。

 Tシャツの胸に描かれていた”彼女”の顔が、切り裂かれるところと、そこから溢れだしたように広がる血液を想像してしまって。

 自分の顔が、痛い。



 軽いノックの音と同時に、ドアが開いた気配がした。 

 お医者さんと看護婦さんが入ってきて、診察があった。

 階段を落ちた時に腕が変な折れ方をしたとかで、僕の意識が無いうちに緊急の手術になって。頭も打っているから、しばらく入院って。   

 そんな内容の説明をした先生が、部屋を出て行く。

 ママも、『気がついたなら、一安心』って、帰って行って。

 部屋に残されたのは、僕と看護婦さん。


 って。

 この看護婦さん、大丈夫かなぁ。

 日本人じゃない気がする。

 最近ニュースになっている、東南アジアからの研修生だったりするんじゃないのかなぁ。


「簡単に、入院時の問診をさせていただきますね」

 そんな僕の心配をよそに、流暢な日本語が流れてくる。

 あ、よかった。日本語通じるんだ。


 簡単、と言いながらも結構踏み込んだことまで質問されて少し疲れてきたところに、また、ドアをノックする音がした。

「はい、どうぞ」

 彼女が応えると、遠慮がちにドアが開く。

「中尾主任、婦長が……」

「あら。じゃぁ、アナムネはだいたい終わったから……」

 入ってきた若そうな看護婦さんと、クリップボードを見ながらのやり取りの間、何度も『中尾主任』と呼ばれていた彼女。

 ”主任”ってことは、仕事ができる人なんだ。研修生なんかじゃない。

 それに、名前は日本人。

 結婚指輪はしてないから、国際結婚ではないだろうし。ハーフ、とかかも。


 そんなことを考えながら、僕は 『中尾さん』を見ていた。



 入院中は、とにかく時間が有り余る。


 戦利品が手元にあるのは、大いに慰めになった。

 怪我、したけど。一部とはいえ、宅配便で送らなかった自分をほめてやりたい。

 って、入院中に届く荷物……。

 仕方ない、ママに頼むか。


 宅配便の受け取りを頼んだママが、やってきてまたお小言。

 聞いていると、ぶつけた頭も、腕の手術のあとも痛くなってくる。


 ママが帰ってからも、痛みは続いて。辛抱できなくなった僕は、薬を貰おうと看護婦詰め所へと向かった。

 歩くのは、大丈夫。トイレだって、苦労しながら行けてるし。


「二一五号の、足立さん、ってさ」

「ああ、あのオタクくん?」

「そうそう。夜勤のときとか、気色悪くない?」

 詰め所の入り口で声をかけようとして、中からそんな会話が聞こえる。

 気色わるい? 僕が?

「ああ。分かる。読んでる本がアレだし……」

「どんな妄想してるかと思ったら……ねぇ?」

 クスクスと嫌な笑い声が続く。


 薬を貰う元気もなくして、部屋に戻るとベッドにもぐりこんだ。


 誰だよ。

 看護婦が、白衣の天使だなんて言ったやつ。

 出てきて、責任取れよ。



 それからというもの、検温や点滴に来る看護婦さんが怖くって仕方なかった。

 やさしそうに微笑んでいる、その裏で。僕のことをどう思っているのかって。


 そうしているうちに、年が明けた。

 祝日だった、第二月曜日の朝。検温に来た中尾さんが、

「足立さん。栄養相談、受けてみませんか?」 

 と言い出した。

 どうせ、太りすぎ、とか言うんだろ? ダイエットしましょうって。

「入院時の血液検査の結果が、軽い栄養失調を示してたんですよね」

「はぁ?」

 このおなかのどこが、栄養失調。いやいや、その手には乗らない。だまし討ちで、ダイエット講義だ。きっと。

「若い男性、特に、一人暮らしをされてる方に多いんですけど」

 そう、前置きをした中尾さんによると。

 栄養学の知識が無いから、好きなものを好きなように食べていて、栄養が偏る。その結果、体を壊す人もいるって。

「寝食忘れる、って言うのでしょうね。一人暮らしは注意してくれる人がいない分、好きなことに没頭して、生活が乱れやすいようですし」

 そう言われて、ものすごく心当たりがある。

 給料日前で、お金が足りない時。僕は、ご飯を我慢してでも新作のゲームにお金を使っている。

「好きなことに全力を傾けている人って、素敵だとは思いますけど。それは、健康な体があってこそ、できることですよ」

 全てを分かっている、って顔で中尾さんが僕の顔を覗き込む。

「贅沢なご飯で無くっていいんです。知識と意識を持てば、生活のバランスは整うものなんです」

「……わかりました。栄養指導、受け、ます」

 そう答えた僕の顔を、慈愛に満ちた微笑で見返す中尾さん。


 ああ、他の看護婦さんとは違う。趣味に全てをつぎ込む僕を、『素敵だ』って言ってくれた。

 この人こそ、僕のことを分かってくれる人、だ。

 運命の人に、僕は出会えた。



 それからというもの、中尾さんが検温に来るたびに、ドキドキして体温も上がる。

 伝われ、この鼓動。って思うけど。

「はい、具合は良いようですね」

 って、あっさり言いながら部屋を出て行ってしまう。

 僕の心臓の根性なし。

 倍のスピードで動いくくらいのこと、してみせろよ。


 そして、中尾さんが夜勤の日は。消灯前の見回りで部屋を訪れてくれる彼女の笑顔に癒される。

 断じて、変な妄想なんてしないけど。

 それでも、そんな夜はいい夢が見られる気がした。



 患者と看護婦から距離が縮まることの無いまま、退院を迎えた。

 そりゃぁ、中尾さんにとっては職場だし。同僚の目もあるから、仕方ないけど。

 この後、数回は外来で診察に来るから。

 その時、は。

 関係が変わるといいな。



 ところが、診察に病院に行っても彼女と顔を合わせる機会のないまま、ギブスが取れる日が近づく。

 あと数回で、診察が終わってしまう。



 焦る僕に、その日チャンスが訪れた。


 朝一番に病院へ行こうとしていた僕は、駅前で出勤途中らしい彼女と顔を合わせた。

「あ、中尾さ……」

「あら。おはようございます」

 不自然に語尾がかすれた僕に、気づかぬ風に彼女が微笑んで挨拶をしてくれる。それに、ギクシャクと会釈を返しながら、彼女の足元を見つめる。


 彼女とよく似た子供がふたり。彼女と手をつないでいた。

「足立さん、お加減はいかがですか?」

「……今日、ギプスが外れる予定で……」

 よかった、と笑った彼女。

「あの、中尾さん?」

「はい?」

「お子さん、ですか?」

「ええ。仕事中は、病院の保育所に預けているんです」

 軽くうなずいた彼女は、愛おしそうに二人を見つめると、手袋をはめた手の甲で弟の方の頬を撫でる。

 結婚指輪をしてなかったのに、子持ちって……シングルマザー?

 そういえば、元旦も祝日も出勤していた。夜勤の間も、この子達は保育所に居たのだろうか。

 大変だな。まだ小さい子を、保育所にあずけてって。


 そう、思いながら見下ろした姉の方。中尾さんと面立ちは似ているけど、父親の血だろうか。彼女よりも目尻のつり上がった、エキゾチックな顔をしていた。

 うわ。この子。

 チャイナ服とかで、コスプレさせてみたい。あ、バリダンスの衣装とか……絶対似合う。


「すみません、遅れるので。先に行きますね」

 中尾さんの声に、我に返った。

 軽く会釈をして歩き始めた三人を見送る。


 中尾さんって、”ママ”なんだ。

 そう思った僕の頭のなかで、あの女の子が『パパ』と言って微笑む。

 ヤバイ。鼻血でそう。

 あ、でも。こんな太っちょのパパ、小学校に行くようになったら、恥ずかしいかな。運動会とか、あるだろうし。


 よし。 

 入院中に習った、栄養指導。

 ちゃんと実践して、スマートになるんだ。



 それから、数ヶ月。

 なんとなく、自分でも体が軽くなった気がしてきた、ゴールデンウィーク。

 僕の仕事先で、ささやかな結婚式が行われた。


「今日は、無理を言ってすみません。お世話になります」

 そう言って、事務室で僕達スタッフに頭を下げたのは、地元のロックバンドのリーダーだった。

 とは言っても。メンバーの病気療養を理由に、活動を休止しているバンドだけど。 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 店長の言葉に合わせて、僕達も頭を下げる。

「ところで、市職員の方の利用、ということですが。もう、野島 様は来られてますか?」

「ああ、はい」

「申し訳ないですが、少々、事務手続きが……」

「分かりました。呼んできます」

 そんな会話を交わして、リーダーが出て行く。

 それを合図に、僕達も準備の最終チェックにとりかかった。


「野島です。今日は、お世話になります」

 ドアから入ってきた薄い水色のワンピース姿の女性が、戸口で頭を下げる。

 椅子を勧められた彼女が、書類を手にした店長の言葉に頷いて、ひざの上のバッグに手を入れる。そこから取り出したカードが、床に落ちて僕の足元へと滑ってきた。


 見るつもりなんて、なかったけど。

 何気なく手にとったそのカードには、彼女自身らしき名前と、”共済組合員証 被保険者”の文字が書かれていた。

 ハローワークで紹介されて中途半端に受けた、医療事務の講義で見たことがある”ソレ”は……公務員の健康保険証。

 この女性自身が、公務員。それも多分、正規職員。

「ありがとうございます」

 そう言って、手を伸ばしてきた彼女と目が合った。

 既視感が、胸をよぎる。


 誰? どこで?

 自問しても、答えが見つからないまま、その手に保険証を乗せる。

 


 ノックの音がして、ドアが開く。

「えっちゃん、終わった?」

「ゆきちゃん」

 保険証を片付けながら、彼女がドアを振り返る。

 さっき挨拶に来た人物と一緒にバンドをしている男がそこにいた。

 確か……僕と同じ名前。”YUKI”、だっけ。   


 男性の正体が分かれば、『呼ばれたのが自分ではない』と頭は理解できたのに。

 女性が呼んだ『ゆきちゃん』の声が、耳に残る。


 トロリとした、ハチミツみたいな甘さを含んだ声。

 ああ。

 中尾さんに、そう呼ばれてみたい。



 その日の結婚式は、総勢二十人ほどで、このレストランを貸しきって行われた。

 例のバンドの一人が、新郎だった。

 活動を休止している状態では、芸能人とはいえ結婚式を大々的にはできないのだろう。

 仲間内だけで祝うようなその席に


 中尾さんと、その子供たちも来ていた。


 なんで、どうして?

 と、うろたえる僕の前で、モスグリーンのスーツを身に着けた中尾さんは、一人の男性と寄り添っている。

 そんな彼女の左の薬指に指輪を見つけた僕は、年末にぶつけた頭がまた痛くなった。


 そんなぁ。

 中尾さんが、結婚したなんて。


 ショックを隠しきれないまま、僕達スタッフも結婚式を見守る。

 中尾さんの隣にいる男性も、たしかバンドの一員。ってことは、彼女もこんな風に質素な結婚式をしたのだろうか。子連れの結婚式だし。

 中尾さんが、気の毒だ。ウェディングドレス、似合うだろうに。多くの人に祝福されたかっただろうに。


 人前式を終えて、シッティングビュッフェ形式の会食へと移行する。

 さあ、ここから僕達の出番だ。

 料理をサーブしたり、空いたお皿を引いたり。


「お父さん、ちゃんとご飯食べないとダメでしょ!」

 女の子の声に、振り返る。

「お母さんに言うからね!」

「わかったって。めいは、どれが旨かった? お父さんに教えてくれるか?」

 中尾さんの娘と、男性がそんな会話を交わしていた。中尾さんは、新郎新婦のテーブルに挨拶に行ったようで、男性が二人の子供の世話をしている。

 その三人の顔を見比べて……この男性が、本当の父親だと分かってしまった。子供たちの、つり気味の目は、おそらく彼譲り。

 いったい中尾さんと男性の間に何があって、彼女が指輪をしない事態になったのかは、知らないけど。

「おとうさん、おてて いたい」

「うん? あー、おまえ、逆剥けむいたな」

「いたいの」

 弟のほうがベソをかく。事務室に、救急箱、あったよな?

 対応を考えている僕の目の前で、男性が子供の指を口に含む。彼のその姿は、どこから見ても”父親”のものだった。

「お母さんに、絆創膏貰いに行こうな。めいは一人で大丈夫だよな?」

「うん」

 男の子を抱き上げた男性は、姉の方に声をかけてから、テーブルを離れた。

 一人残された女の子は、不安げな顔もせずにオレンジジュースを飲んでいた。



 余興もスピーチもない結婚式で、唯一の余興、として行われたのが、バンドの生演奏だった。

 確か、一昨年の今頃。テレビで流れていたCMの曲を、新郎を含めた五人が演奏する。

 僕達スタッフも、おこぼれのような感じで一曲だけのシークレットライブを見せてもらった。


 そういえば、このバンドだったっけ。夜中に放送されてた異世界トリップ物のアニメのエンディングを演奏してたのも。録画したビデオテープって、どこにしまったっけ?

 そんなこと思い出しながら、ステージと呼ぶには簡易すぎるセットを眺める。

 中尾さんの夫らしき彼も、その場でギターを弾いていた。


 〈 長い間、ご心配とご迷惑をおかけしました。来月から、再始動します。今まで支えてくれた家族の皆さんへの感謝と再びステージに立てることへの喜びをこめて 〉

 ボーカルの言葉を締めに、五人が頭を下げる。

 そんな彼らに、惜しみない拍手が送られた。


 

 食べ終えて、重ねられたお皿を片付けに近づいたテーブルには、さっきの公務員の彼女と仲良く話している中尾さんがいた。 

 その笑顔は、病院で見るものとはまるで違っていた。

 今日の中尾さんは、バンドのメンバーやその家族たちとも、旧知の仲を思わせる顔でビールを飲んでは、笑いあってた。

 僕が見ていたのは、彼女にとっては営業用の顔に過ぎなかったと思い知る。


 『好きなことに打ち込む人は、素敵』って、言ってた中尾さん。彼女が思っていたのは、『ギターに打ち込む彼』のことだったのかもしれない。

 そう思いながら、お皿を厨房へと運ぶ。

 そうして、下洗いのシンクにお皿を漬ける。手を動かす僕の頭に、ボーカルが口にした『支えてくれた家族』の言葉と、さっき目にした保険証が浮かぶ。

 公務員の彼女は、正規職員として働きながらYUKIを支えたのかな。

 支えきれなかった中尾さんは、彼と別れて。それでも忘れられなくって、よりを戻したのだろうか。


 僕の入る余地なんて、最初からなかったんだ。



「ゆきくん」

 そろそろお開きか、という頃合。残った料理をまとめている僕の後ろで、声がした。

 中尾さんが、YUKIになにやら話しかけている。

「ゆきちゃん、ゆりちゃん」

 二人の女の子をつれた公務員の彼女が、会話に加わる。

 なるほど、中尾さん、『ゆり』って名前なんだ。って、もうどうでもいいことだけど。


 手だけは動かしながら、会話の合間に聞こえてくる『ゆきくん』と『ゆきちゃん』の二つの声を、脳裏に焼き付ける。

 呼ばれたのは僕じゃないのは、重々承知。


 けれど、しばらくの間。

 一人で思い出して楽しむのは、許してほしいな。



 宴もお開きになって、僕たちは後片付けにいそしむ。

 掃除も何もかもが一通り終わってから、僕は事務室の店長の所へ顔を出した。

「お疲れ様です。あがります」

「ああ、お疲れ様」

 事務仕事をしていた店長が顔を上げて、にこっと笑う。

「次は……再来週、だったな」

「はい、よろしくお願いします」

 僕の返事を聞きながら、店長がデスクの引き出しから封筒を取り出す。

「じゃ、これが今日の分」

「ありがとうございます」

「ご祝儀、で、少しだけだけど色をつけてあるから」

「本当ですか!」

「ま、微々たるモンだから、あまり期待するなよ」

「いえ、ありがとうございます。では、失礼します」

 受け取った封筒を、両手で押し頂くようにして一礼してから、僕は事務室を後にした。



 この店での僕の身分は、日雇いのスタッフ。

 市の第三セクターで経営されているこのレストランは、普段ぎりぎりの人数で営業をしているから、今日みたいなイベントや、レストランと隣接する日本庭園で催し物がある日には手が足りなくなる。だから、僕みたいな臨時スタッフが何人か登録をしていて、必要に応じて仕事の依頼が来る。


 相変わらずバイト生活の僕は、メインでしていたコンビニのバイトを入院でクビになってしまっていたけど。このレストランは、丁度改装工事で休業していたので、そのまま復帰することができたし、掛け持ちでしていたほかのバイトも、どうにか続けさせてもらえているので、何とか食いつないでいけている。

 中尾さんやお医者さんのおかげで、後遺症も残らなかったし。



 そんな僕の頭の中で、女の子の声がする。

 『ちゃんとご飯食べないとだめでしょ。お母さんに言うからね!』

 うん。中尾さんに言われたように、ちゃんとご飯食べているよ。

 生活が少し苦しくなった分、趣味のほうを我慢して。


 今日のお給料、ご祝儀の分は……ちょっとだけ、おいしいものを食べて、夜のバイトに出かけよう。


 そして、帰ったら。

 『ゆきちゃん』『ゆきくん』の、二つの声を子守唄にしっかり眠ろう。



 駅へと向かう帰り道。

 空に一筋、短い飛行機雲が見えた。


 明日は、晴れ。

 屋外作業のバイトには、絶好の日和。


 END.  

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