第一章 其の六
一人の男が、「譲ちゃんコイツを使いな。コイツなら軽いから譲ちゃんでも使える筈だ」、と一本の剣が投げ遣した。
コロナは受け取ると、慇懃に謝した。
コロナは鞘から剣を抜き取る。良く磨かれた白刃にコロナの情熱的な深紅の髪と凛然とした顔が映った。研ぎ澄まされ、刃こぼれもなく、柄はしっくりと手に納まる。待たせたねとばかりに、コロナはジャックと対峙する。
ジャックは無言で鞘を打ち捨て、剣を構えた。コロナが剣を手にした時より、既に彼はコロナを一人の客人としてではなく、一人の狩るべき敵として見なしていた。
熱狂はいつの間にか止んでいた。店内は唾を下す音さえ聞こえるほどの静寂と糸のようにピンと張りつめられた空気に包まれていた。
床の軋みを合図に、コロナは弾かれたように走る。
コロナは情熱的な薔薇色の長い髪を靡かせながら、ジャックとの間合いを一気に詰め、胸元を抉るように突く。見越したように、ジャックは其れを捌き、切り上げた。深紅の髪に掠るがコロナは飛び退いて難を逃れると、再び切りかかる。ジャックは余裕すら口元に浮かべながら、コロナの剣を力で捻じ伏せ、横一文字に振り抜く。コロナは持ち前の身軽さとバネを生かし、ジャックの頭上を舞い、着地と同時に袈裟切りに切りかかった。それをジャックは受け流しつつ、コロナとの合間を取る。
――コイツ、強い。口だけじゃない。
コロナはジャックを睨附けた。
目の前には、平然としたジャックの姿があった。相変わらず其の眼は、獲物を定めた時の鷹のように鋭いが、先程とは異なり口元には薄笑を浮かべていた。コロナの力量を数戟にて把握したジャックは、期待外れもいいところだとばかりとコロナを嘲笑っているのだ。そして、落胆の色を見せつつも、依然として眼だけは標的を狩る時の猛禽類の其れであるのは、ジャックが如何なる場合でも手を抜かない用心さを具備していることを示していた。
コロナは自分の甘さを痛感していた。頭に血が上っていたコロナとて、全く勝利の可能性無しに勝負を受けるほど莫迦ではない。其れなりに、腕に覚えがあり、自信もあったからこそ、剣での勝負に乗ったのだ。しかし、相手は其の辺りに転がっている輩とは格が違った。このままでは勝てない、本気を出さないと勝てない、と内心で舌打ちをする。
コロナを見透かしたようにジャックは云った。
「どうした、手が暇を持て余しているぞ。それとも、素直に自分の負けを認めるのか?」
「冗談でしょ」
「オーケー、若い子は其れぐらい元気があるほうが好い。其の心意気に免じて、ハンディを呉れてやろう。魔術なり何なり好きなモノを使って構わない」
「アンタに見せてやるような安い魔術はないわ」
とことん厭味な男だとコロナは思った。剣での勝負を申し込んでおいて、魔術を使えだと?人を莫迦にしている。こんな奴に態々本気を出してやるものか。剣一本で十分だ!
しかし、ジャックにとっては其れすら戦術の一つでしかありえなかった。其処には彼のしたたかな計算があった。コロナの天邪鬼的性格を突けば、彼女は冷静な判断を失う筈だ。ジャックは、単なる力量だけでなく心理的な駆け引きも、決闘においては極めて重要な要素であることを認識していた。コロナには其の認識が欠如していた。
――まだまだ子供と云うことか。
ジャックは顔には微塵も出さず、心の片隅で可愛いお嬢さんだと笑った。
コロナは其のようなことともつゆ知らず、剣柄を両手で力強く握り締めた。そのまま床を蹴って、ジャックに迫った。そして攻撃の手を休めることなく、次々とジャックに剣を繰り出す。切る。払う。突く。しかし、緻密さを欠いたコロナの剣戟は易々と防がれてしまう。精細さを欠いて既に力任せの大振りへと成りつつあるコロナの動きを見て、ジャックは、「このあたりで適当にケリを着けるか」、と内心で呟いた。そして、ジャックの猛攻が始まった。
ジャックはコロナの突きを弾くと、柄を握り返して切り込んだ。コロナは咄嗟に防ぐが、先とは比べものにならないくらい剣戟は急峻を極め、よろめいてしまう。そこへ、追い討ちがかかる。コロナは床を転がり間合いを取ろうとするが、三度ジャックの剣が振るわれた。まさに間髪を与えずしてコロナを追い詰める。
愈々ジャックの打ち込みは激しさを増す。
いつの間にか攻守は逆転し、コロナは防戦一方になった。コロナにはジャックの一合一合が、極めて重く感じられた。決闘の行方を体格差と腕力が如実に左右することは屡々あった。コロナは女性、しかもまだ年端もいかぬ乙女であり、其の例に洩れなかった。誰の目にも、コロナの敗北の色は濃かった。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ―――」
ジャックが渾身の一撃を振り下ろした。
金属製のモノが折れる反響した音と、甲高い悲鳴が店内に響き渡った。ジャックの剣戟を受け止めた拍子に、コロナの剣が腹で真っ二つに折れ、刃の切っ先が人垣の顔を掠めて壁に突き刺さったのだ。勝敗は決した。コロナは敗北を喫したのだ。
ジャックは片膝を折ったコロナの咽喉元へ剣を差し向けた。
「此れでもまだやると云うのかい」
コロナは半分になった剣を握り締めながら、声を振り絞った。
「まだよ。剣はまだ折れていない、半分も残っている。私はまだやれるわ」
コロナはジャックに憎悪にも似た双眸を向けた。
コロナの金色の瞳に中には、炎のような闘志の光が宿っていた。並みの輩であれば其の瞳に映る覇気に立ち竦むだろう。末恐ろしい娘だとジャックは思った。
しかし、其れは当該者のコロナとジャックの二人にしか分からない高みであった。傍目には、諦めの悪いコロナが駄々を捏ねているようにしか見えなかった。素直に負けを認めれば好いが、負けず嫌いな性分のコロナに限って、百に一もありえないであろう。
此の状況に、流石の康介も黙って見ていられなかった。コロナを見ていて痛々しく感じた。決してコロナに同情や憐憫を抱いた訳ではない。若し其のような感情を抱いたとすれば、コロナを低く評価していることになり彼女に失礼だ。
只康介には、何故執拗にコロナが勝敗に固執するのか理解できなかった。仮に康介ならば男に殴られっぱなしで済ました。笑われ、殴られ、また笑われ、でもそれで全てが解決するならば好いのではないか。抗えば抗うほどは状況は拗れて好転することはないだろう。だったら、心を殺して何も考えなければ好いのだ。
惨め?結構。悔しい?結構。喩え惨めでも悔しくても、其れ以上傷ついて痛い思いをするよりマシだ。だから、康介にはコロナの行動原理が不可解に思われたのだ。しかし、彼女を見ていると何かが康介の心を打った。何が打ったのか、今の康介には分からなかった。
只、コロナが折れる気配は一向になかった。「自分が何とかしなくてはダメだ」、と康介は自分に云い聞かせ、二人の間に飛び出した。
「決着は既についています。お願いです、此処は引いて貰えませんか?」
ジャックは突然の闖入者に少し驚きを見せたが、康介を鷹のような視線で射抜いた。
「少年、怖いか?」
ジャックに問われて、康介は自分の足が震えていることに気が附いた。自分で飛び出しておいて、是を無様と呼ばずして何て様なのか。しかし、格好悪いと考えている暇はなかった。康介は震える足を叱咤し、手を十字に広げて、無言でジャックと対峙する。
「康介……」、とコロナが後ろで小さく呟くのが聞こえた。
場に沈黙が流れた。店内の視線が一斉に康介に集まる。人に見られることが嫌いな上に慣れていない康介にとって、この精一杯の抵抗は心身に大きな負荷をかけた。額からは脂汗が滲み出た。手も足も小刻みに揺れ、今にも康介の体から抜け落ちそうであった。さらに、目の前には康介よりも二回りは大きい男が剣を持って立っているのだ。しかし、康介は萎えそうになる身体に鞭を打って奮い立たせた。
其の時だった。
「面白そうね。私も混ぜて貰えないかしら」
人垣が割れた。そこから、背丈が高い女性が進み出た。後頭で結われた金髪は腰まで届き、蒼穹の如く澄んだ碧眼は人懐っこい笑みを湛えていた。芸術的な彫像を髣髴させる深い顔立ちで、凛々しい美人であった。
客の男が一人、「手前邪魔をするなよ」、と女性の肩に手を掛けた。次の瞬間、男は宙に高く舞い、背中から床に叩きつけられた。女性は腰に帯びた剣を引き抜き、男の顔の真横に突き立てる。刹那の早業であった。まさに手練としか表現しようがなかった。
「私は、リュックブルセルク自警団隊長、エルシール=セレスタ。其の少女に代わり、勝負の続きは私が貰い受けよう」
人垣がざわめいた。
エルシールはさらに語を継いだ。
「私は十五の時に自警団に入隊し、それ以来剣と共に歩んでいる。其れなりに剣を心得ている積りだ。少なくても、少女よりは貴君を楽しませることができよう。是如何に」
暫し、ジャックとエルシールが無言のままに視線を交わす。柳眉を寄せるジャックに対し、エルシールは相変わらず朗らかな笑みを湛えていた。ジャックはエルシールの真意を悟ると、口元を吊り上げながら、
「ちっ、興醒めだ。行くぞお前達。邪魔したな、釣りは取っておいてくれ」
ジャックはカウンターに適当な札束を置いて店を出ようとする。
擦れ違いざまにエルシールが、「有難う」、と呟くと、ジャックは、「何処で落とし前をつけるか困っていたんだ。感謝しているのは寧ろ俺の方さ」、と小声で返した。
短い会話を交わしたのち、ジャックは店を後にした。「兄者、兄者」、と二人の弟分(?)たちも情けない声を上げながら出て行った。コロナに剣を貸していた男も、「旦那、旦那」、と後を追う。弁償の交渉に行くのだろう。
決闘が流れて、野次馬たちは崩れた。客達は各々のテーブルに戻り、既に杯を酌みなおしている。今しがたのジャックの剣捌きを皆が褒めちぎった。「アレはかなりの逸材だ、風に吹かれる柳のようにしなやかでいて、それでいて雷鳴の如き力強い剣を俺は見たことがない」、「今でこそ流れ者の剣士で名を馳せているが、以前にジャックはどこかで傭兵をやっていたに違いない。数々の死線を掻い潜って来たのさ、でなけりゃ、あれ程の立ち回りは出来ない」、と称えた。無論ジャックのことを、「アレぐらい俺にだって出来るさ」、と貶めている輩もいた。
しかし、酒場で一致していたのは、コロナの評価の悪さであった。客達は揃って、「しゃしゃり出て来た癖に、剣の『け』の字も分からない子供だ」、「所詮女子供がまともに剣を握ることなんぞできやしないのさ」、と悪辣を垂らしていた。聞くに堪えない言葉の暴力であった。彼らは、コロナを卑下することを酒の肴ぐらいにしか思っていないに違いない。他者を平気で踏み躙るような無神経の塊なのだ。
この間康介は呆然としていた。張りつめていた緊張が解れ、脱力しきっていた。手も足も痺れてまともに動かせず、へなへなと床に座り込む。思い出したように、康介は後ろに座っているコロナに向き直った。
コロナは目元を赤く腫らし、床に突き刺した半剣に縋るようにして俯いていた。小さな唇をぎゅっと噛み締め、否応無しにでも聞こえてくる暴言にじっと堪えていた。辛辣な言葉を浴びせられ、コロナは色が抜け落ちた朽ちかけの薔薇のように項垂れていた。
康介はコロナに声をかけようとしたが、言葉が見つからなかった。慰めれば好いのか、其れとも空元気で明るく労えば好いのか、何と云えば好いのか分からなかった。康介は自らの経験上、今のコロナには如何なる言葉も白々しい嘘に聞こえるのではないかと危惧した。
康介が逡巡していると、エルシールが声を掛けたきた。
「お二人さん、私の家で飲み直さないかしら?大したものは出せないけれども、其の方が気が安くて済むでしょう。勿論奢ってあげるわ」
そう云って、エルシールは二人を誘った。
康介は返答に窮して、コロナに目を配った。コロナは、「分かったわ」、と小さく呟いて立ち上がった。エルシールはコロナたちの分も会計を済ますと、「それじゃー、次行ってみようかー」、と気分を盛り上げようとする。気の小さい康介が誰かを励ます為の科白を吐くことは滅多になかったが、「お、おっ、おっーと」、と珍しくエルシールに倣って声を張り上げた。
しかし、コロナは薔薇のような深紅の髪に表情を隠したままであった。