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第一章 其の五

 細い裏道を抜け、康介たちは再び大通りに出た。

 人気のない路地裏とは異なり、日が沈んでから幾時間も経つが、大通りには人の往来が絶えなかった。夜に浸かるに従い、益々盛況を極めつつあるように思われた。


 水を除けば、昼から何も口に入れていない康介たちは、背と腹がくっつきそうなほどの空腹に見舞われていた。康介の足取りは既に鈍重になり、コロナのきりりとした顔貌は苛立ちを隠さない険しい其れへとなっていた。康介が「腹減ったな」、と口をうっかりと滑らせようなものなら、「私も同じよ」、とコロナに怒鳴られて縊り殺されるに相違ない。


 康介たちは、正確にはコロナが引っ張っているだけなのだが、大通りを行っては返し、どの酒場に入るべきか吟味していた。康介にはどの店でも大した違いがあるようには見えなかったのだが、コロナには何らかの基準や拘りがあるようであった。康介が訊くと、コロナから、「兎にも角にも安くてボリュームがありそうなところ。あとお酒が旨そうなところ」、とご尤もな意見を頂戴した。前半はさもあらんが、後半は同意し兼ねた。

 コロナの年齢で酒を飲んで良いのかと訊きたかったが、応えは十分予想できたし、寧ろ、皮肉おまけに、「康介は飲めないの?」と混ぜ返されかねないので、康介は黙っておくことにした。沈黙は金なり。


 それから三十分ばかりして、漸くコロナのお目に適った店に入った。

 大通りに突き出した軒下に、何処から見ても、溢れんばかり一杯に酌まれたジョッキにしか見えない看板が吊り下げられていた。


 扉を押し開けると、酩酊するほどの酒と咽返るほどの煙草の匂いが店内を充満していた。

 ――うわぁ、嫌だな、こういう所。

 其れが、康介の率直な感想だった。

 さらに、康介の感覚にそぐわなかったのは、酒盛りをやっている輩の柄であった。容貌は切り立った崖のように嶮しく、背肩が広くて武骨な体格をした者たちばかりだ。会話に興じている彼らの言葉の端々や大袈裟な振る舞いは、如何にも横柄で傍若無人そのものであった。


 元より、人見知りが激しく内向的な康介が、この酒場の雰囲気に拒絶反応にも似た嫌悪感を抱くのも無理からぬ話であった。

 この雰囲気に慣れているのか、それとも平気なのか、コロナは周囲の輩を歯牙にもかけない様子でカウンターへと向かう。康介も周囲となるべく視線を合わせないようにしながらコロナに続いてカウンターに座った。


 「へい、いらっしゃい。何にしますか?」

 カウンターを挟んで大柄な男が、体躯に似合わない歯を浮かした笑顔で尋ねてきた。

 「一寸待ってて。今考えているところだから」

 そう云いながら、コロナがメニューを見て、ぶつぶつと一人で悩み出した。今更何をそんなに迷っているのかと康介がメニューを覗き込むと、コロナは酒らしき図柄が描かれたページをなぞっていた。本気で酒を頼む気らしい。康介が呼びかけると、コロナは、「何よ」、視線はメニューに釘付けのまま返してきた。

 「お前、酒を飲む気なのか?」

 「当たり前でしょ、そのための酒場よ。康介は何が好い?」

 「いや、俺は……」

 上機嫌なコロナを見ていると、酒が飲めないと云うのは些か憚れた。しかし、禁酒中などと見え透いた嘘を吐くことが性に合わないので、康介は正直に云うことにした。それに、よくよく考えたら酒の知識など皆無であった。


 「俺は酒飲めないんだよ。ミルクとか、他の物ないかな」

 「あるわよ。じゃあ、それで決まりね。おじさ~ん」

 すんなりと納得し、コロナは店員を呼んで注文する。結局、康介には食事に関して一切の決定権が無かったが、コロナに出会わなければ今頃森の中で野垂れ死んでいるかも知れないことを考えれば、食事にありつけるだけ僥倖と云えた。


 しかし、ことは何時も良く進むとは限らない。

 「おい、聞いたかよ。ミルクだってよ」

 「子供は帰ってお寝んねする時間じゃあねえか」

 すぐ後ろから嘲笑に掴まれ、康介は冷水を打ちかけられた心地がした。

 ――まただ。

 やっぱりだと康介は思った。

 ――どうして、みんな俺のことを放って置いてくれないんだろう。

 嘲笑われるのは慣れていた。康介は聞こえぬ振りをした。自ら耳を閉ざせば好かった。


 其の時だった。コロナはすっと立ち上がり、後ろを振り向くと、

 「五月蝿いわね。あんたたちの声を聞いていたら飯が不味くなるわ。どっか行きなさいよ」

 からかっていた男たちの顔からは、ヒトを食った哂いは消え、不機嫌さが顕わになった。男たちは椅子を乱暴に蹴とばすと、康介たちの目の前に立ちはだかった。自分を見下ろしてくる男たちに、康介は恐れ慄いて縮みこんだ。

 「てめぇ、分かって物云ってるんだろうな」

 憤怒の色に染まった一人が、コロナの顎に手をかけた。

 「汚らしい手で触らないでくれる。絶世の美女(予定)の私の顔が穢れるわ」

 「小娘の癖にふざけやがって」


 男は右手を振り上げ、コロナの顔に拳を叩き込もうとした。しかし、コロナは小さく、「忠告はしたわよ」、と呟くと男の股間を蹴り上げた。予期せぬクリーンヒットに、「うおぉぉぉぉぉぉぉぉ」、と間抜けな叫び声を上げながら、男は一物を押さえて床に倒れ込んだ。男は芋虫のように右へ左へと転がり苦悶の喘ぎを上げた。


 もう一人の男が、「てめぇ、よくもやりあがったな」、と叫びながら、康介に飛び掛ってくる。康介が目を瞑って反らした瞬間、頬は強烈な痛みに襲われ、そして体が堅い物に打たれた。まるで頭の中が掻き混ぜられたような感覚に、一瞬何が起きたのか分からなかった。「康介大丈夫」、とコロナの心配そうに覗きこむ金色の瞳と口の中に広がる辛苦の感触に、自分が殴られて床に転がったのだと初めて知った。康介は、「ああ、なんとか」、と力なく答えた。


 コロナは胸を撫で下ろした。そして、すぐさまコロナは康介を殴打した男に向き直った。

 「あんた、私の連れに手を出して、タダで済むと思っていないでしょうね?」

 コロナの金色の瞳は昂る怒りを宿していた。情熱的な深紅の薔薇の色をした髪は、高まる激情に一層赤々と燃やしていた。


 男は思わず後退りをした。

 ――こいつ、本当に小娘なのか?

 コロナの身から発せられる灼熱の覇気は周囲の空気を一変させていた。男は、ちりちりと空気が焼かれるような感覚を覚えて一瞬躊躇するが、此処で逃げ腰にでもなれば其れこそ小娘の思う壺だと、焦燥感をおくびにも出さず、いつでも打ち込めるように中段の構えをとった。


 其処に、

 「お前じゃ、力不足だ」


 硬質で重圧的な声がした。男の後ろから、乾いた靴音を鳴らしながらゆっくりとした歩調で、頭一つ分抜けた男が前へ出た。二人に比べて、一見すると線が細く華奢で、右目尻の泣き黒子から優男のような印象を受けたが、コロナはすぐに其の認識を改めた。男の胸板は厚く、骨格は城のように強靭だった。一瞬華奢であると見間違えたのは、男には一分たりの無駄な贅肉が附いておらず、筋肉で身が引き締まっていたからに他ならない。

 「兄者」、とコロナに一物を蹴られた男が情けない声で泣き縋ると、頭一つ分抜けた男は顎で下がるように命じた。男は、紳士的な笑顔を貼り付けながら、其れでいてコロナたちより上の立場でいることを明確に示す為、鼻持ちならぬ感を織り交ぜながら云った。


 「お連れさんに迷惑をかけてしまったようだな。弟たちは血の気が多くて、俺もいつも手を焼かされる。俺の名はジャック=ロイスター、ここらでは少しは名の通った剣士だ。非礼の詫びと云っては何だが、今日は俺に奢らしてくれ」

 康介には、ジャックの目は笑っていたが、其の奥は決して笑っていないように思われた。康介が今まで見たことがない、一厘の拒否をも許さない、自尊心の強い本物の人間の目だ。此れほど吸い込まれるほどでありながら鷹の如く鋭い眼力を康介は知らない。康介はコロナに声を掛けようとした。勿論、素直にジャックの申し出を受け入れる為だ。しかし、康介が見たものは、コロナの口元が失笑で歪む様であった。


 「何云っているのよ。喧嘩を売り逃げするなんて、最近の男は随分腰抜けね」

 ジャックは苦笑を溢した。

 「最近のお譲さんは随分と強情なようだ。それとも単に素直じゃないだけかな?」

 「時々いるのよねー。なんか、すぐに勘違いするイタイ男がね」

 「交渉決裂か。極めて残念だ」


 男は困ったように肩を竦めてみせた。しかし、其の仕草すら態と余裕を誇示しているように思われた。「おい」、と右手人差し指を折りながら、男に壁際に立ててあった剣を取って来させた。


 ――嘘だろう?

 康介は蒼ざめた。たかが灰汁の強い酔払いに絡まれただけの筈だったのに、剣を持ち出すほどの大事に成りつつあるからだ。


 「お嬢さんは剣を扱えるかい?」

 「私を舐めないで欲しいわね。剣さえ貸して貰えれば、如何なる剣だって一分の狂いもなく完璧までに扱って見せるわよ」

 そう云い、コロナは鼻を鳴らした。

 「成る程。弟たちは棍棒などを使っていてね、生憎剣はこの一本しか持ち合わせていない。済まないが、このお嬢さんに見合う剣を誰か貸してやってくれないか」

 ジャックは周囲の客たちに、極めて紳士的に呼びかけた。


 群集からは、「決闘だ、決闘だ」、との歓声が沸き起こった。この時、康介はいよいよ大事になってしまったと思った。いつの間にか、康介たちを取り囲むように野次馬の人垣が出来ていた。一度火が点いた人垣はますます熱を帯び、口々に、「譲ちゃん頑張れ」、「ジャックそんな鼻っ張りの強い子供なんてぶちのめせ」、と声援も罵声も交々に跳び舞う。


 最早どうすれば良いのか分からない康介は、只しどろもどろするばかりだった。コロナはいたって涼しい顔で、腕を組みながら剣が差し出されるのを待っていた。

 「幾らなんでも、こんなことは馬鹿げている。単なる怪我じゃ済まされないかもしれない」

 「大丈夫、私強いから。康介は大船に乗ったつもりで見ていて」


 裾をたどたどしく引っ張る康介に、コロナは笑顔で云った。

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