第一章 其の三
コロナは後から追いかけてきた康介を歓んで迎え入れてくれた。
康介はバツが悪くどのような顔をすれば好いのか分からず気まずく感じた。しかし、コロナの好意を冷たくあしらってしまったことを素直に謝すると、コロナは、「そんなこと気にしなくて好いわよ、どうせ貴方がすぐに追いかけてくることなんて想定していたから」と一寸得意気に胸を張りながら水に流してくれた。何と云ったら好いか分からない康介は救われた気がして、重ねて礼を呟いた。
リュックブルセルクに向かう途中、康介はコロナと話をした。
改めて自分が置かれた状況を把握する必要性があったが、寧ろ訊きたいことがありすぎて、康介は話を上手く纏められなかった。思案した末に、まず此処が何処なのかを尋ねることにした。
康介はコロナに、不思議な本を開いた途端に光の洪水に飲み込まれ、気が附いた時には見慣れぬ湖畔に居たのだと説明した。
「えー、それ本当の話なんでしょうね。私の裸見た云い訳に嘘ついているんじゃないの?」
コロナは唸りながら勘ぐった。
「そんなことはない、全て本当の話だ」、と熱弁を振るう康介が滑稽だったのか、コロナはクスクスと笑いを漏らした。康介が憮然としていると、「ゴメンゴメン、今の話信じてあげるわ」、とコロナは冗談ぽく笑った。
「異世界を飛び回る魔術使いの話を聞いたことがある」
コロナは急に真剣な表情になり、「昨日あの後、貴方には悪いと思いながらも荷物を少し検めさせてもらったわ」と附け加えた。「康介が持っている其の本……」、と康介の右の小脇に抱える本を差しながら、「其れは列記とした魔道書よ。今は死んでいるけれども、其れでも本からは魔力をひしひしと感じるわ」、と険しい表情で述べた。
康介が、自分が異世界から来たことを信じるのかと尋ねると、コロナは、「信じるも信じないも貴方のような無気力な人間があの森に居る理由が他では説明できない」と云った。微妙に貶されている気がして、康介の心中は複雑であった。 しかしそれ以上に、コロナの説明に康介は思う節があった。
――若しこの魔道書の所為でこの世界に飛ばされたのであれば、これとは逆に、自分が元の世界に戻れる可能性もあるのではないか?
しかし、康介はこの疑念をすぐさま否定した。仮に元の世界に戻れる手段があったとして、自分はどうして其処に一縷の望みを見出すことができようかと。
――元の世界に戻ってどうする積りなのだ?あの世界に何があると云うのか?あそこには何も無いではないか。あるのは嘲笑と軽蔑と蹂躙と黙殺だけだ。
康介は、炎の中に投げ入れられ、身が爛れるような世界に戻るぐらいなら、一層のことこの世界で生まれ変わった方が好いのではないかと考えた。
いつの間にか会話は途絶え、康介の歩く速度は遅くなり、コロナとの間は数歩開いていた。コロナの背中を見ながら、康介の気持ちは揺らいだ。
康介は、自分のことなど分かってくれなかった元の世界と決別しようと考え、其のような世界に今更戻る必要性はないと自分に云い聞かせれば云い聞かせるほど、本当は未練がましく心のどこかで元の世界との平安と和解を求めているのではないかと、もう一人の自分に囁き掛けられる気がした。
――嘘だ。そんなことはない。俺は自分自身で世界を拒んだんだ。誰かに云われたわけでもないし、自ら進んで世界を拒絶したんだ。今更平安を望んでいるわけではない。
しかし、其れは嘲笑うかのように耳打ちをした。
――違うな、本当は世界の方から三下り半を突き附けられたんだ。其れでもお前は心の片隅で、元の世界での居場所を求めているんだ。
迷い悩んだ末、康介は自分を偽ることにした。自分が魔道書に興味を持つのは、元の世界に帰りたいからではない、純粋に魔道書の力に興味があるからだと。だから、元の世界に戻る方法を聞いておいても問題は無いのだ。
「コロナは、此の魔道書について何か知っている?」
「いいえ。私は魔術にそれほど精通していないから分からないわ。でも、詳しい人は必ずいる筈だから、リュックブルセルクで当たってみましょうか?」
康介は逡巡した。
――本当に俺はどうしたいのだろう。本当は心の奥底で元の世界に戻れることを祈っているのではないだろうか?否、元の世界に興味はない、只聞けるものを訊いているに過ぎない。これは、決してカタチの良い言い訳などではない。
「ああ、頼む」
康介は声を微かに震わせながら云った。
康介の微妙な変調に気が附いたのか、コロナは、「分かったわ」、と小さく頷くだけで、其れ以上の追求はせず、話題を転じた。
「さっきの質問の答えなんだけどね……」
コロナは振り返らず意気揚々と語った。康介は小走りに追いつき、コロナと肩を並べながら歩いた。
「此の世界はラールドと呼ばれているわ。康介の世界は何て云うの?」
康介は、先ほど此処はどこなのかと質問を投げかけたことを思い出した。自分で質問しながら、関係ないことを思案しているなんて失礼だと思った。
「呼び方は色々あるが、俺はチキュウと呼んでいる」
「いい響きね」、とコロナは相打ち、それからラールドのことを語った。
大いなる神が原初の海と云う混沌からラールドを創ったらしいが、コロナは生憎詳しいことは覚えていないと云った。康介がいい加減だと感想を述べると、「じゃあ康介は自分の世界の生い立ちを一字一句覚えている?」と逆に返された。腕を組みながら唸ったが、残念ながら逆立ちしても出て来そうにはなかった。神が「光あれ」、と叫んだと何処かの聖書に書かれていたような気もするが定かではない。康介の困った様子を見ながら、コロナが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。コロナの可愛げな得意面を拝むのも悪くはなかったのだが、康介は悔しく思ったので、これから行くリュックブルセルクという街について尋ねることにした。
コロナ曰く、リュックブルセルクは、この辺りのカミーラ地方で一番大きい都市らしい。街の近くに位置する、鉄と石炭が産出する鉱山が、リュックブルセルクに莫大な富を齎した。現在では工業の街としての成りはかつてより影を潜め、商業都市としての色合いが強いとのことだ。其れ以外の特筆すべき点として、大いなる神の子であるエレスト=キリスを信奉する、キリス教の大教会が街のシンボルとしてリュックブルセルク中央に門を構え、街にには熱心なキリス教の信徒が多い。市長も敬虔なキリス教徒で、かく云うキリス教の司祭を兼ねていることは有名だそうだ。
暫く取り留めのないことを話していると、遠方に街並みが見えてきた。キリス教の街を謳うリュックブルセルクは、街の東西南北の最端にある検問で手続きさえ済ませれば、誰にでも等しく門が開かれていた。検問で手続きを終えて街門を潜り、両手に田畑を臨み、粛々と続く一本の細い道を進む。
康介たちがリュックブルセルクの市街地に着いたのは、街の明かりが夜の底に沈んだ頃であった。